「これも一つの恋の味」
世界で一番最初に、料理は愛情である、と言った奴は、一体誰なのだろう。
そんな風に言い切られたら、何だか一つの名言であるように思えてしまって、仕方が無いじゃないか。
その言葉を言った誰かは、別に何の悪気も無く、もしかしたら愛する誰かの料理にあまりに感激したがために、
そんなことを言ったという、ただそれだけのことかもしれない。
だがそれでも、俺は、そいつに向かって、あえて言いたい。
……なんてことを言ってくれたんだ。
時計の秒針だけが静かに聞こえているダイニングルーム。
食卓についている俺は、呆れた顔で時計の針を見つめ、重々しく溜息をついた。
時計は、既に夕方と言って差し支えない時刻を示している。
その事実にひとしきりうなだれてから、食卓を挟んで座っている一人の少女を見る。
少女は、その視線に気付くと、困ったような顔を無理矢理歪ませて、不器用な笑みを浮かべてみせた。
それが余計に俺の憂鬱を助長させる。
二人の間には、皿が一枚。
その上に、彩り豊かな野菜の炒め物があった。
既に冷めて湯気もたたなくなったそれと少女を交互に見ながら、俺は、ようやく口を開く。
「いいか、晴香。料理は、愛情だけじゃダメなんだ」
「……」
「晴香、聞いてる?」
「……聞いてるもん」
しゅんと小さくなって、晴香は呟くように言った。
俺の視線から逃れたいのか、椅子の上でもぞもぞと身をよじらせる。
俺の言っていることを納得しつつも、それを全面的には認めたくないということらしい。
その様子を見ていると、もう少し優しい言葉をかけても良かったかと頭をよぎらなくも無かったが、
今後のためにも、ここは多少強く主張しておくべきだと、俺は考えていた。
今更話を保留にすることなど、出来はしない。
「お前が俺のために頑張ってくれたのはわかってる。それは俺だって嬉しいさ。だけど、これは……」
テーブルの上の野菜炒めに目を向けて、
「これを食えってのは、嫌がらせでしかないぞ」
「うー……『愛情は最高のスパイス』って偉い人が言ってたよ、直樹くん」
「なら、もう一度これを食ってみろ」
そう言ってから、俺は野菜炒めを晴香の目の前に差し出す。
まるで親の仇のように、晴香は、今日の昼間を費やしたそれを強く睨んだ。
息を吐き、吸い、再び吐いた辺りで、ようやく覚悟が決まったらしい。
はっしと箸を握りしめ、緑・赤、飴色を一緒に掴み、一気に口の中に放り込んで、もぐもぐと長い時間をかけて咀嚼する。
見る見るうちに晴香の目の端に涙が滲んできて、
「うー、しょっぱい」
「それ以外の感想はあるか?」
「……しょっぱい」
泣きそうになりながら(というか既に泣いている)、晴香は袖に用意しておいた水で口の中のものを一気に飲み下した。
俺は、やれやれといった風に、
「だから、料理は愛情だけじゃダメなんだよ。『愛情は最高のスパイス』っていうけど、スパイスだけじゃ食べられないだろ?
七味だけとか、塩こしょうだけで食べたいなんて思わないだろ? それと同じだ。
一生懸命作ってくれるのは嬉しいけど、その前に基本的な料理のスキルを身に付けようぜ?」
「……うん。ごめんね、直樹くん。今日は私がごちそうするって話だったのに」
「気にするな。誰にだって失敗はあるもんだ」
本当は、晴香の料理の腕を知っていたので、ほとんど期待はしていなかったのだが、そんなこと口が裂けても言えるものじゃない。
幼馴染歴17年は、決して伊達なんかじゃない。
その17年よりも、もう一つの履歴で知ったことの方が重要度は比較的高いのだが、それについてはここでは割愛しておく。
それよりも、昼を食べそびれたおかげで、さっきから断続的に消化系が怨嗟の声をあげてきて困る。
『もしかしたら、晴香の料理の腕も少しは上がったかもしれない』と一縷の望みに賭けたのが間違いだった。
朝食も大して量を食べてこなかったため、現在の俺のコンディションは最悪と言っていい。
くるるる……
「あ……」
ふと見ると、晴香とばっちりと目が合った。
瞬間、晴香は慌ててそっぽを向いて視線をそらす。
その横顔は、不自然なくらいに赤かった。
どうやら晴香も俺と変わらず空腹らしい、俺は思わず少しだけ吹き出してしまった。
「……笑わないでよ」
「すまん、いや、すまん」
そう言いながらも、拗ねたような晴香が可愛くて、余計に笑いが収まらなくなる。
いよいよ不機嫌になる晴香が次の言葉を発する前に、俺は出鼻を挫くかのように勢いよく立ち上がった。
あっけにとられたのか、晴香は、不思議そうに見上げてくる。
「腹減ったし、何か買いに行こうぜ。お前の手料理は、これから何度も食べる機会があるんだろうしさ」
「う……うん、そうだね、そうだよね! えへへ、それじゃ行こっか、直樹くん」
そんなわけで、機嫌も直りつつあるらしい晴香と一緒に、暑苦しい日の下へと繰り出した。
行き先は、近所のスーパーの一角にあるパン屋だ。
そこの餡ドーナツが、俺と晴香のお気に入りで、幼い頃からよく口にしている懐かしの味でもある。
晴香は、家を出た時から、何がそんなに嬉しいのか妙に機嫌が良く、俺の腕に身をすりよせて体重をかけながら歩いていた。
はっきり言って、重くて暑苦しく、しかも滅茶苦茶歩き辛い。
時たま吹く風が晴香の長い髪を揺らし、それが首筋をかすめていくのが気になって仕方が無い。
それでも、俺が晴香に離れるように言わなかったのは、その重みが結局は心地良くもあったからだろう。
「ねえ、直樹くん」
「あん?」
「料理は勉強しとくから、直樹くんから何かリクエストちょうだい。今度作ってくるから!」
「そ、そうか。それじゃ……おにぎり」
「直樹くん。いくらなんでも、私だってもう少し色々作れるよー」
「いや、おにぎり。おにぎりが食べたいんだ。いやー楽しみだなー晴香の作ってくれたおにぎり!」
「ん〜……そうなの? それじゃ、うん、今度お弁当代わりにおにぎり作ってくるね!」
晴香がぱぁっと花開くように笑ってくれて、俺はぎこちなく笑みを作りながら、内心で胸を撫で下ろしていた。
無闇に調味料を入れて、味を強引に操作しようとして失敗した料理は、出来ればもう二度と口にしたくない。
晴香の中では、『料理は愛情である=愛情は最高のスパイス=調味料が沢山入っている料理はおいしい』
という、俺には理解し難い方程式が成り立っているらしかった。
そのせいで味付けの段階で、今まで積み上げてきた全てを崩壊させてしまうのだった。
だが、料理は愛情だけじゃないと今日強く言い聞かせたことだし、しかもリクエストは簡単なおにぎり。
流石の晴香も、おにぎりならば人並程度に作ることが出来るだろう。
手の込んだものを作るには、晴香はまだ早すぎる(野菜炒めが『手の込んだ』ものと言えるかどうかは疑わしいけどな……)。
「ねえ、直樹くん」
「……あん?」
「好きだよ」
そう言って、晴香はより強く、全身を俺の片腕に押し付けてきた。
もう幾度と無く言われてきた言葉だが、未だにそれを聞くとあたたかな気持ちになる。
微かな気恥ずかしさと、言葉にし切れないのではないかというほど愛しい思いが溢れそうになる。
表情を上ではそれをひた隠すように努めながら、俺は多少おどけた口調で、
「俺も、……お前の作る手料理の、百倍は好きだぜ」
「……うー、その言い方、あんまり嬉しくないよ」
俺も、もし晴香にそんな言い方されたら、きっとあんまり嬉しくないと思う。
仕方無いじゃないか。
俺は晴香みたいに、相手をしっかり見つめて、真正面から好きですなんて言い切れるだけの勇気がなかなか出ないんだから。
そんな言い訳を心の中でしていると、いつの間にかスーパーの前まで来ていた。
安売りでもやっているのか時間が悪いのか、なかなかに盛況している。
「混雑だな……晴香、しっかり捕ま――」
と、俺は言いかけた言葉を言い切る前に押し止める。
そして、抱かれていない方の腕で晴香の肩を抱いて寄せ、腕は放してもらった。
普段は、どちらかと言うと抱かれてばかりなのだ。
たまには俺が抱く側に回っても、きっと罰は当たらない。
傍から見たら、公共の場でべたべたしていて、どちらかと言うと不愉快なのかもしれない。
そうは言っても、寄り添って歩いているくらいのことは、大目に見てほしい。
道行く人々も、恐らく思い返してもらうと、この頃は「そんなもんだったな」と納得するのではないだろうか。
俺たちのような、恋人歴二ヶ月程度の二人のような頃は。
余談だが、その二日後の週末明け。
晴香がにこにこしながら差し出してきた弁当箱の中に入っていたおにぎりは、三つ。
それらはそれぞれ、無闇に甘ったるく、狂ったようにしょっぱく、そして痛いとすら感じるほど辛かった。
――初恋って、甘酸っぱいものだと思ってたんだけどな……