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 あれはいつのことだったか。雪の振る日に、彼に聞いてみたことがある。



「ねえ、冬に咲く花ってあるのかな?」

「あん? どういう意味だよ」



 薄く積もった雪をサクサク鳴らしながら、彼は首だけ振り向いて言った。



「別に。ちょっと聞いてみたくなっただけ」



 私は視線を落として、寒さを誤魔化すように手の平に吐息をあてる。

 手はかじかんでいて、少しだけ赤くなっていた。



「寒いなら手袋すりゃいいのに」

「あんただってしてないじゃない、手袋」

「ポケットに手ぇ突っ込んでればオッケー」

「やーね、不良気取り? 気遣ってくれるなら、手繋いでよ。私をあたためてー」

「この寒いのに、さみー冗談かましてんじゃねえよ」



 はっ、と彼が笑い飛ばす。お約束のように私も笑い返す。

 これが私たちの日常。いつも通りのやり取り。

 ずっと昔から変わらない、穏やかで心地よい時間。

 それが物足りなく感じるようになったのは、いつからだっただろう。



「冗談じゃないんだけどな……」



 ポケットに突っ込んでいる手に恨めしい視線を向ける。

 彼が私の視線に気付くことはない。

 だから、彼が私の視線に乗っている感情に気付くこともない。

 この鈍感男が私の気持ちに気付く日は、一生やってこないかもしれない。

 それでいいと思う気持ちと、それはいやだと思う気持ち。

 どちらの気持ちも、私にとってはとても大事なことで。



「ちょっと、待ちなさいよ、悠太!」



 数歩先を歩く彼の背中を、私はその日も追いかけていた。







『スウィートサワー・ビターチョコ』





     *





「ふー」



 風呂上りの体はぽかぽかと温かく、湯気が立ち上りそうなほどだった。

 窓がカタカタと揺れている。今夜は少し風が強い。

 カーテンの隙間から見える外の景色は、寒さで凍りついたように透き通っている。

 今夜は月が出ているのか、薄っすらと明るかった。

 でもこの分だと、近々また雪が降りそうな気がする。

 先週の頭に初雪が降り、その名残がまだ道路の隅には残っていた。



「んしょっと」



 枕元の電灯だけをそのままに部屋の電気を消し、湯冷めしない内に布団に潜り込む。

 冷えは女の子の大敵だ。寝不足も良くない。今日はやることもないし、早く寝てしまおう。

 携帯のアラームをセットするために、携帯を開く。



「……ん?」



 そこでようやく、メールが来ていたことに気付いた。

 送信主は、腐れ縁の幼なじみ、穂坂・悠太(ほさか・ゆうた)。

 受信日時はちょうど一時間前、私が風呂に入る直前だ。なんて間の悪い奴。



『From.穂坂悠太 To.清水春香

ちょっと話したいことがある。話せるときにメールくれ』



 メールには簡潔に、そう書かれていた。

 よくわからないけど、メールでは面倒なくらいややこしい話らしい。

 そうじゃないと、悠太は滅多に電話なんてしてこないし。

 寝ようと思っていたけど、無視するわけにもいかないと思って、発信履歴から悠太の電話番号を呼び出す。



『……おう。晴香か?』



 二度目のコールが鳴り出す直前、電話口から声が聞こえてくる。

 この反応の速さ、携帯持って待ってたわね。かわいい奴。



「うん、私。どうかしたの?」

『あー、ちょっと待て。一旦こっちからかけ直すよ』

「はいはい」



 電話代のことを気にしてくれたんだろう。

 悠太のこういう律儀なところは、少し微笑ましく思う。

 向こうにしてみれば当たり前なんだろうけど、気遣ってもらってるんだと思うと少し嬉しい。

 電話を切った直後、すぐさま携帯がブルブルと震える。



『もしもし』

「ハロー、ジスイズハルカ」

『オレオレ、オレだよ。今から口座に十万振り込んでくれ』

「そんなお金持ってるわけないでしょ」

『ちょ……お前なー、そっちからふざけといて、フツーに返してんじゃねえよ』

「ごめんごめん。それで、話したいことってなんなの?」

「……ああ、それなんだけどな」



 明らかに悠太の声のトーンが下がる。何やら真面目な話らしい。

 まどろみかけた頭をはっきりさせて、次の発言をじっと待つ。



『実は少し前に、後輩に告られたんだ』

「え……また!? アンタ、二年になってからこれで三人目じゃない」

『だなー。俺なんかのどこがいいのかね』



 なにそれ、ひょっとして自慢なのか。自覚なしのモテ野郎はこれだから困る。

 確かに悠太は、見た目はせいぜい中の上といったところで、取り立ててイケメンというわけじゃない。

 でも運動神経は抜群で、所属しているサッカー部ではFWを務めているバリバリの点取り屋。

 それを鼻にかけるでもなく、後輩にも分け隔てなく接しているし、しかも年齢の割には物腰が落ち着いている。

 そんな態度は、確かに私から見ても少し大人っぽく見えることがある。

 女の子に媚びることもないせいか硬派なイメージがあるので、悠太は女の子に人気があった。

 特に後輩からの人気は高い。

 高校に入ってから数えると、告白されたのは私の知っている限りでも五回になる。



「で、それがどうかしたの? 女の子の観点から見た理想のデートコースでも教えてもらいたいの?」

『は! お前にそんなの求めてねーよ!』

「うわっ。そういう反応だと思ってたけど、そんなに思いっきり笑うことないでしょ!?」



 とはいえ、求められても困るんだけどね。

 彼氏もいたことのない私に、そんなのわかるわけないし。

 悠太もその辺りはわかってるはず。



『あー、ぶっちゃけ今回も断ったんだけどな』

「へえ、そうなんだ」



 安堵したことに気付かれないように、いつも通りの声が出るように努めた。

 電話越しだし、悠太は鈍感だから、まず気付かれない。



「どうして断ったの? 好みのタイプじゃなかった?」

『そういうわけでもなかったけど。割とかわいい子だったしな。

 ただ、全然相手のこと知らないのに、いきなりその子のことを特別に考えるってのがな……』

「アンタはそういうところ真面目ねえ。試しに付き合ってみればいいのに」

『俺にはそんな器用なこと出来ねえよ』



 もちろん、それはわかってる。

 だから私も安心して、今みたいなことが言えるんだから。



「それで、話したいことってそれだけ?」

『あー……いや、それでさ。今回告白してきてくれた子、俺のこと諦められないって言っててさ。

 今日も部活見にきてくれてて、ジュースとか届けに来てくれてよ。

 正直、俺としては付き合うつもりないし、かといって無下にもしづらいし、どうしたらいいと思う?』



 なるほど、そういうことね。



「付き合ってみれば? その上で振っちゃえば解決」

『振る前提で付き合うなんて無理だっつーの。真剣じゃない交際なんてありえないな』

「言っておいてなんだけど、そこは私も同感ね」



 つまり、自分のことが好きな女の子を、出来るだけ傷つけずに諦めさせたい、と。

 これはなかなか難しい問題だ。



『はー……恋愛って、面倒くせーな』



 溜め込んでいたものを吐き出すように、電話越しの悠太はそう漏らした。

 それに関しても、同感だった。

 私自身も、同じくらい面倒くさい問題を抱えていたから。

 そんなことを思いつつも眠たい頭をなんとか回転させる。

 ふと、ピーンと妙案が思い浮かんだ。



「アンタが本命の彼女作っちゃえばいいんじゃない?」

『いきなり出来るかそんなん。第一、相手がいねえ』

「電話越しにお買い得なのがいるっすよー旦那さん。彼氏いない歴イコール年齢の新鮮そのものっすよー」

『ははは、おもしれー冗談だ。寝言は寝て言え』

「ちょっと、眠いのを我慢して考えてあげたのに、その言い方はないでしょ」

『まじか? そりゃ悪かった。んじゃ、もう切るわ。夜遅くに悪い、サンキュ。また明日な』

「ん、また明日ね。おやすみ」

『おう、おやすみー』



 ブツリと音がして、冷たい電子音が聞こえ始める。

 悠太の声の余韻が消える前に携帯を閉じて、体の力をふっと抜いた。

 暗闇に慣れた目で、薄っすらと白い天井に思い描いた悠太の顔を見る。

 ……冗談じゃないって、直接言わないとわからないんだろうな。



「あの、バカ」



 つい口を出た言葉が静かな部屋を微かに揺らす。

 その響きが窓を叩く風の音に消されると、私は布団を頭から被り、そっと目を閉じた。

 瞼の裏にも、あのバカの顔が映る。

 それが私を苛立たせると同時に、嬉しくも楽しくもしてくれる。

 本当に、厄介で面倒なものだと思う。

 恋というものは。





     *





 家庭科室の中は、甘ったるい香りで満ちていた。

 甘いものが苦手な人なら、入った瞬間卒倒してしまうほどに濃縮された空気。

 まるで空気そのものに砂糖が混じっているのではと思ってしまう。



「部長部長ぶっちょー!、生地出来ましたけど、もう焼いちゃっていいんですよね?

 オーブンは何度に設定すればいいんですか? あと、焼く時間は何分ですか?」



 後輩がにこっと笑いながらそう聞いてくる。

 そんな期待のこもった目で見られても、はっきり言って困るだけだ。



「そういうのは副部長に聞いて……。てっちゃん、てっちゃーん」

「はいはい。芳沢、それこっちによこして。私がやってあげるから」



 三角巾にエプロン姿という家庭的な格好をした副部長がクリームをかき回す手を一旦休めて、

 後輩の持っていたクッキー生地をオーブンへと放り込む。

 私はほっと息をついて、丸椅子に腰を下ろしてぐぐっと伸びをした。



「こらこら、部長がそんなにぐーたらしてたら後輩に示しがつかないでしょ」



 オーブンの設定を終えたてっちゃんの目が眼鏡越しに強い視線を向けてくる。

 私は顔も上げず、視線だけを上げて軽く手を振った。



「おつかれー。もう作業終わり?」

「ええ。あとは焼き上がるのを待つだけね」



 てっちゃんは私の隣に座り込んで、三角巾を取って、ふうと息を漏らした。



「副部長殿、お勤めご苦労様でございまする」

「ありがとう。部長がもっと頑張ってくれれば、私ももう少し楽が出来るんだけど」

「部長の私の分も頑張れー副部長」

「はあ、まったく……料理のことになると、途端に私に全部押し付けてくるんだから。

 手芸の方はかなりの腕前なのに。料理なんてレシピ通り作ればいいだけじゃない」

「食べるものになると、自分より上手い人に作ってもらえばいいやという発想がですね……」



 そう言うと、副部長は頭に手をやって、深い溜息をついた。

 彼女はてっちゃん。名字が手塚なので、親しみを込めてそう呼んでいる。

 私の親友で、家庭科部の副部長を務めている人だ。

 部長のくせに料理下手な私の代わりに、今日のように調理をやる日には場の仕切りをやってもらっている。



「ところで、いつも通り少し多めに作ってるけど、いいんでしょ?」

「おっけーおっけー。さすがてっちゃん、よくわかってるう」

「もう付き合いもそれなりに長いからね」



 てっちゃんとは中学に入ってからの付き合いだから、もうそろそろ五年近い。

 彼女くらい気配りの出来る人から見たら、私なんかはひどく単純でわかりやすいんだろう。



「料理のときは毎回多めに作って、穂坂くんに分けてあげてるんだものね。

 甲斐甲斐しいというかなんというか、愛って偉大よね」

「や、愛とかそういうのじゃないから」

「でも、好きなんでしょ?」

「……まあ、ね」



 語尾はほとんど声になっていなかったと思う。

 周りに同級生や後輩がいることもあったけど、それ以上に気恥ずかしさがあったからだ。

 てっちゃんは唯一、私が悠太に好意を抱いていることに気付いているのだった。



「幼なじみってことで色々あるのはわからないではないけど、

 アタックするなら、思い立ったが吉日じゃないかしらね。穂坂くん、結構もてるのよ?」

「知ってるわよ。昨日も『告白された』って電話来たし」

「本当に!? それで?」

「振ったって言ってた」

「あら……。ま、それもそうよね。穂坂くん、あんまり彼女作るつもり無さそうだし」



 悠太が女の子を振り続けているのは、学校内の自称恋愛通の間では有名な話だ。

 それが逆に女の子の人気を上げる結果になっているらしい。

 彼女を作るつもりがないらしい悠太にとっては迷惑な話だろう。



「晴香なら告白してもオッケーもらえるんじゃないの?」

「どうかなあ。誰かをいきなり特別に考えるっていうのがちょっと無理みたいだから、私でもダメじゃないかな」

「特別ねえ。穂坂くんにとっては、今の時点でもう晴香は特別だと思うけど」

「そうかもね。でもそれは、幼なじみだからだよ」



 もし私が悠太に告白したら、もうただの幼なじみではいられなくなる。

 その上で振られたら、もう元の関係に戻るのは無理かもしれない。

 それがたまらなく怖くて、私は悠太に彼女が出来ないのを祈りながら、今日まで過ごしてきた。

 いつか悠太が私の気持ちに気付いてくれる、そんな日が来ることを願いながら。



「はあ……てっちゃん」

「なによ」

「私って、嫌な女だね」

「別に、そんなこと思わないわよ」



 意外な反応に、私は思わずてっちゃんの方に顔を向ける。



「ほんとに?」

「だめな女だなって思うだけ。恋愛に関してはね」

「ははは……仰るとおり」



 的確な表現に、乾いた笑いが漏れた。

 だけど溜まっていたものを少し話せたので、僅かながら心が軽くなった気がした。



「ありがと、てっちゃん。ちょっとだけ楽になったよ」

「そう。なら良かった。言葉にも重みってものがあるんだからあんまり溜め込まないほうがいいわよ。

 積載過多で潰れる前に話しなさいよ? いつでも聞いてあげるから」

「うん。ありがとう。てっちゃん愛してる〜」

「そういうのは好きな人に言ってあげなさい」



 と言いつつ、ぷいっとそっぽを向くてっちゃん。

 頬が少しだけ赤くなっているのを私は見逃さなかった。



「てっちゃん、面倒見いいよね。やっぱりてっちゃんが部長になれば良かったのに」

「そんなことないわよ。私は結構きついことも言っちゃうからね。

 トップに嫌われ者を据えたら、上手く回らなくなるのは目に見えてるわ。

 だから部長に適任なのは、親しみのある人がいいのよ。あんたみたいな」

「そういうものかなあ……」



 しかし言われてみれば、確かにてっちゃんの言葉にはほんの少しとげがある。

 その厳しさは彼女なりの優しさなのだけど、それに気付かない人がいるのも事実だ。

 特に付き合いの浅い後輩の中には、てっちゃんに苦手意識を持つ人もちらほら見受けられる。

 もちろん、例外もいて、



「ぶっちょー! 何話してるんですかっ」

「うひゃああっ!?」



 突然後ろからしがみつかれて、すっとんきょうな声を上げてしまう。



「よ、よっしー……びっくりさせないでよ」

「ふっふっふ。完全に気配を絶ってましたからねっ。最近寒くって体が冷えちゃってるんですよー。

 だから部長の体温を分けてもらおうと思いましてー」



 おなかの辺りにあった腕が、徐々にはいのぼってくる。



「って、言いながらどこ触ろうとしてるか!」



 背中側から回された腕を、力任せにはがす。

 油断も隙もあったもんじゃない。



「うう、せめて一揉み……」

「自分のを揉め、自分のを」

「私のは揉めるほどありませんから!」



 なぜか自信満々に胸を張って答えた彼女は、家庭科部の後輩である芳沢さん。

 てっちゃんのことをまったく怖がらない数少ない後輩の一人で、

 私も比較的仲が良く、彼女が入部したその月には『よっしー』の愛称で呼んでいる子だ。



「それでお二人とも、何の話をしていたんですか?」



 目をきらきらと輝かせて聞いてくる。

 素直に話しづらいことを話していたのだけど、この無邪気な瞳を向けられると、ないがしろにしてしまうのもためらわれた。



「えーと、いわゆる恋バナ、かしら」

「恋バナ! いいですねー! もうバレンタインも近いですしね!

 手塚先輩は、誰かにチョコとかあげるんですか?」



「私は別に。いつも通り適当にお菓子作って、友達に配って歩くわ」



 年頃の女の子にしては冷めた反応だった。

 てっちゃんが自分の恋愛について話しているのは、そういえば聞いたことがない。

 悠太と同じで、今は彼氏を作るつもりがないんだろうか。

 それなりに長い付き合いなのに、その辺りはよく知らなかった。



「部長はあれですよね。サッカー部の穂坂先輩に渡すんですよね!」

「ん、まあね」



 隠しても仕方がないので、素直に頷く。

 幼なじみとしての付き合いで毎年渡している――ということにしているので、

 周囲も私が悠太に毎年チョコをあげているのはわかっているのだった。

 変に隠したりしたら、逆に意識しているように思われてしまう。

 そう思われるくらいなら、あえてまったく隠さずに、悠太との関係を冗談半分にからかわれる方がずっといい。



「いいですねー。せっかくのバレンタインですからね! まあ、なんか天気予報では雪らしいですけど。

 とはいえ、家庭科部が一年で最も光り輝くときですよ! 一大イベントです!」

「否定はしないわ」



 口元を押さえながら、クスっとてっちゃんも失笑する。



「でも、芳沢は誰かに渡すの?」

「……自分で全部食べますが」



 よっしーはしょぼんと肩を落とした。二つのおさげがだらりと垂れ下がる。



「友達は誰か先輩に告白するって前言ってたし、私は食べるしかないのですよ……」

「よしよし。アンタにもきっと春は来るわよ」



 小さな頭をぐりぐりとなでてやる。

 と、オーブンからピーと甲高い音が聞こえた。

 やっとクッキーが焼き上がったみたいね。



「焼けた! 早速食べましょう先輩方!」



 ぴょんと飛び上がって、よっしーはオーブンへ我先にと駆けていく。

 さっきまでの落ち込み具合はどこへ行ったのか、本当に見ていて飽きない子だ。



「それじゃ盛り付けましょうか。きちんと分けないと、穂坂くんの分まで芳沢が食べちゃいそう」

「ありえるわね」



 二人して軽口を叩きながら、ゆっくりと立ち上がる。

 家庭科室には、焼き上がったクッキーの香ばしい匂いが漂っていた。





     *





 外はもうすっかり日が傾いて、薄暗くなってきていた。

 まだ六時前だというのに、つくづくこの時期は日が短い。

 サッカー部の部室に行ってみると、ちょうど部活が終わったところらしく、

 着替え終わった部員がちらほらと出てきているところだった。



「よっす。お疲れさま」



 その中に悠太の顔を見つけたので、声をかける。



「おう、なんだよ、待ってたのか?」

「今日の部活でクッキー作ったんだけど、余った分をおすそ分けしようと思ってね」



 アンタのために多めに作ってあげたの、とは口が裂けても言えない。

 そんな私の心中に気付く様子もなく、悠太は嬉しそうな笑顔になる。



「へえ、わざわざ悪いな。ありがたくもらうぜ」



 こう見えて、悠太はかなりの甘党だ。

 だから作ってきたクッキーも、これでもかというほど甘い味付けをしている。

 サクサクと一口かじると、悠太の顔がぱあっと明るくなった。



「うっめーなこれ! さすが手塚さんだ」

「どうして私のお手製じゃないってわかるのよ」

「お前の作ったお菓子がこんなにうまいわけないだろ。まあ、味付けの指定はお前がやったのかもしれねーけど」



 くやしいけど、当たってる。

 普段は鈍感なくせに、こういうところだけ鋭いんだから。

 私のことをわかってくれてるのは嬉しいけど、本当に気付いてほしいことにはなかなか気付いてくれない。

 それが余計に私の心をぐらりと揺らしてくるのだ。

 他の女の子にはこういう意地悪なこと言わないのに、ほんっと嫌な奴。



「先輩……その人、誰ですか?」



 ふと横からの声に、視線を向けると、女の子が立っていた。

 胸元のリボンが赤いので、一年生だということがわかる。

 ウェーブのかかった黒いロングヘアで、背の低くてかわいらしい子だ。

 なんとなく見た瞬間、この子が悠太に告白してきた子なんだろうな、と思えた。

 それは多分、同じ恋をしている者としての直感だった。



「ああ、こいつは俺の幼なじみで……」

「あなた、先輩のなんなんですか? なにか渡してましたけど」



 悠太の言葉も無視して、睨むような視線を向けてくる女の子。

 どうやらさっきクッキーを渡しているのを見られたっぽい。

 やばい、この子、明らかに私を敵視してる。

 何を言っても信じてもらえそうにないな……。



「その人はこいつの幼なじみで、部活で作ったものを俺たちに届けにきてくれただけだよ」



 私が言葉に迷っていると、サッカー部の部室の方から声がした。

 見ると、少しだけ色素の薄い赤毛の男の子が学生鞄を後ろ手に抱えて立っていた。

 身長は悠太と同じくらいだけど、雰囲気は悠太よりも幾分柔らかい。

 サッカー部の副部長で、MFを務めている日野原・亮介(ひのはら・りょうすけ)くんだ。



「そ、そうなんですか」



 第三者が現れたことで、ロングヘアの彼女も少し落ち着きを取り戻してくれたらしい。



「悠太、その子送ってってやれよ。もう結構暗いし。清水さんは俺が送ってくからさ」

「あー、わかった。今日はそうしとくわ。んじゃな、晴香、亮介。また明日」



 適当にぶらぶらと手を振って、悠太はグラウンドを出て行った。

 ちょっぴり気まずそうな顔をしていたロングヘアの子は、

 私たちに向けてぺこりとお辞儀をしてから、駆け足で悠太を追いかけていく。

 危うく修羅場になりそうな雰囲気だったので、自然と胸を撫で下ろしていた。

 溜め込んでいた緊張が溜息と一緒に口から漏れる。



「ごめん、清水さん。咄嗟に少し嘘ついちゃったけど、もしかして悠太と一緒に帰る約束でもしてた?」

「いや、クッキー届けに来ただけだよ。日野原くん、マジファインプレー。助かったよ」



 さっきの子の目、本気だったもんな。

 体格からいっても、リアルファイトになったらまず負けないとは思うけど、

 さすがに女の子を殴るのにはかなり抵抗がある。それがかわいい子なら尚更だ。

 平手打ちの一発くらいは入れられる覚悟を始めていたところだったので、本当に仲裁してくれたのはありがたかった。



「せっかくだから本当に送ってくよ」

「別にいいのに」

「女の子を一人で帰らせるわけにはいかないって」



 穏やかな口調で優しいことを言ってくれる。

 日野原くんも、結構女の子からの人気あるんだよな。

 割とかっこいいし、物腰が柔らかくて優しいからだろう。

 その辺りは少しだけ悠太に似ているかもしれない。



「それじゃ、お言葉に甘えさせてもらいますか。エスコートお願いね」

「ははは、かしこまりました」



 軽く冗談を言い合いながら、人気の少ないグラウンドを出る。

 日が短くなっているせいで下校時間も繰り上がっているためか、

 電気のついている教室も少なく、既に下校する生徒もまばらだった。



「ところで聞きたいんだけどさ」



 校門を出てしばらくした辺りで、不意に日野原くんが思い出したような声を出した。



「さっきは幼なじみって言ったけど、清水さん本当に悠太と付き合ってないの?」

「うん。付き合ってないよ」



 少なくとも、悠太にそのつもりはない、と思う。

 私に一歩を踏み出す勇気もないから、何かきっかけがない限り、今のままの関係が続くだろう。

 それはベストではないが、ベターではあると私は思っていた。

 私は、意気地なしだ。今日何度目かの溜息が漏れる。



「清水さん、ちょっと疲れてる?」

「ん、ああ、ちょっとね」



 気軽に話す話題でもないので、愛想笑いをして誤魔化す。

 きっと相談すれば日野原くんは親身になって聞いてくれるだろうけど、気恥ずかしさが勝ってしまって話しづらい。

 私が悠太のことを好きだと知っているのは、てっちゃんだけだった。



「もしかして、さっきのことで?」

「そういうわけでもないけど……」



 無関係とも言えず、少しだけ考え込んでしまう。



「あの子、悠太のこと好きっぽいよね」

「あ、日野原くんもそう思った?」

「態度とかあからさまでわかりやすかったからね。

 悠太はそういうのあんまり口に出さないから、悠太がどう思ってるのかは知らないけど」



 日野原くんも、結構悠太のことがわかってるみたいだ。

 一つ付け加えるとするなら。悠太は口に出さないどころか、態度にもあまり出さない、ということか。

 そのせいか、人によっては素っ気無いと思われることもたまにあるらしい。

 それを悠太本人がさほど気にしていないので、その点に関しては改善の余地は今のところ見られないけど。



「でも、日野原くんも本心は隠してる系っぽい気がするね」

「……そう思う?」

「誰にでも優しいから、それが逆に本心を隠してるような、なんとなくそんなイメージあるかも」

「はは、なるほどね。言われてみればそうかも」



 爽やかに笑った日野原くん。彼の周りだけ一足早く春が来たような、そんな暖かさを感じた。

 それは彼の人柄がそう思わせるのだろう。私もなんとなく楽しい気持ちになってくる。



「まあ、やっぱり好きな人がいるならきちんと口で伝えた方がいいと思うよ」



 自分に出来ないことでも、でも人に勧めるだけなら簡単だ。

 本当に私は性格が悪い。軽く自己嫌悪に陥る。



「うーん、そうなのかな。でもやっぱり不安あるからね」

「日野原くんなら、即オッケーもらえるんじゃない? 割とかっこいいし、優しいしさ。私が太鼓判押してあげるよ」

「ほんとに?」

「うん」

「それじゃあさ、清水さん」

「うん?」

「俺と付き合ってくれない?」

「うん……うん?」



 ……なんだって?



「え、えーと……え? 今、なんて……」

「俺、清水さんのこと好きだよ。付き合ってくれないかな?」

「じょ、冗談」

「冗談じゃないよ」



 言われなくても、日野原くんの目を見た時点でわかっていた。

 彼は、本気だ。そもそもこんな冗談を言うような軽い人じゃない。それくらいは知っている。

 気づけば、口の中がカラカラに乾いていた。

 心臓が痛いくらいに鳴っていて、上手く呼吸が出来ない。

 頭の中がぐちゃぐちゃで、何を言っていいのかもわからなくなっていた。



「な、なんで私? 私のどこがいいの?」

「うーん。強がってる割に弱いところがあるのに、それでも人に優しくしようとしてるところとか、かな」

「……私、優しくなんてないよ」

「本当に優しい人は、自分のことを優しいだなんて言わないもんだよ」



 確かに、それはそうかもしれない。

 それでも、私は自分のことを優しいだなんてまるで思えなかった。

 急に居心地が悪くなって、顔をうつむかせる。

 ほんの僅かに降雪の名残のあるアスファルトをじっと見つめる。

 肌を刺すような寒さの中で、顔がやたらと熱くなっているのがわかる。



「清水さん……?」

「ごめん、ちょっと今、顔真っ赤だから、そっち見れない」

「俺も同じだよ。でも、なんか急で、ごめん」

「別に、謝らなくてもいいけど……」



 並んで歩いているのに、そっぽを向いて歩いている私たちは、傍から見るとおかしな二人だろう。

 頭の隅にある冷静な自分が、そんなことを思う。



「それじゃ、俺こっちだから」



 いつの間にか帰り道の岐路まで歩いてきていた。

 その声に反応して顔を上げると、日野原くんがにっこりと笑ってくれた。

 見る人を安心させるような、包容力のある笑顔だ。

 なぜだかそれを見ていたら、胸にずきりと鈍い痛みを感じたような気がした。



「返事はまた今度でいいから。気をつけてね」

「うん……ありがと」

「またね」



 日野原くんはしっかりとした足取りで歩いていった。

 返事を全く急かそうとしないのは、明らかに困惑していた私に対する配慮だろう。

 本当にいい男だ。どうして私なんかに告白してきたのか、さっぱりわからない。



「……はあ」



 重い溜息が、白くなって空に溶けていった。





     *





 家に帰ってくると、急にどっと疲れが押し寄せてきた。

 告白なんてされたの初めてだったから、予想以上に緊張していたらしい。

 自分の部屋まで戻ると、鞄を床に置いて、ベッドの上に体を放り投げた。

 制服がしわになっちゃうなあ、なんてことをぼんやりと思う。

 ごろりと寝返りを打った瞬間、ポケットの携帯が引っかかり、膝の辺りが少し痛んだ。

 手探りで携帯を取り出して、パカリと開く。

 ……なんとなく悠太の声が聞きたくなった。

 しかし、アドレス帳から悠太の番号を呼び出して、コールをしようと思ったところで、指を止める。

 電話をかけて、それで私はどうするつもりなんだろう。

 少し迷ってから、私は別の人の番号に電話をかけた。

 幾度目かのコールの後、電話が繋がる。



『もしもし、晴香? 何か用?』

「うん……てっちゃん、少し相談があるんだけど、いいかな」

『別にいいわよ。暇だったし』



 電話口から聞こえてくるてっちゃんの声は、いつも通り淡白なイメージがある。

 耳に慣れた調子の声を聞いて、ふわふわと浮き立っていた心が少し地に足をつけたような気がした。



「あのね。今日、告白されたの」

『へえ。誰から?』

「サッカー部の日野原くん」

『そうなんだ。付き合うの?』

「どうしたらいいと思う?」



 はあ? と電話の向こうから呆れたような声。



『そんなの、あんたが決めることでしょ。私に聞くようなことじゃないわよ』

「そう、だよね……」



 てっちゃんの言う通りだ。他の誰かに聞かれたら、私だって同じことを言うだろう。

 多分私は、話を聞いてほしかっただけなんだ。



『まあ、迷ってるなら、試しに付き合ってみたら? 距離を縮めれば、見えない部分も見えてくるだろうから』



 どこかで耳にしたことがあるようなことをてっちゃんが言った。

 じっと考え込まず、自ら動くことで物事を推し進めていく彼女らしい意見だ。

 同じことを言っていても、私とは根本が違う。



「……そんなこと出来ないよ。やっぱり、返事を出す前にちゃんと考えてみる」

『そう。それがいいかもね。普段使ってないんだから、こういうときくらいフル稼動させないと』

「うわ、ひどいなあもう」



 とげのある冗談に、思わず笑みが浮かんだ。



「それじゃ、ありがとね。また明日」

『ええ。また何かあったら、いつでも声かけていいからね』

「うん。おやすみ、てっちゃん」

『おやすみ』



 携帯を閉じる。てっちゃんのおかげで、かなり落ち着きを取り戻せた。

 告白されて驚いたけど、これを機会にもっと自分の気持ちを見つめ直そうと思った。

 そう思った私は、机の上に置いておいた編みかけのマフラーを手に取る。

 バレンタインに悠太にあげようと思って、今年に入ってから作り始めたものだ。

 料理はからきしな私だけど、手芸だったら同年代の子の中ではかなりの腕前だと思う。

 私の持っている数少ない女の子らしい特技だ。



「んー……」



 ベッドに腰を下ろして、編み棒をちょいちょいと動かしながら、てっちゃんに言われた通り頭を回転させる。

 日野原くんは、確かにいい人だ。見た目も結構かっこいいし、優しくて思いやりがある

 そんな彼に好きだと言われてやっぱりうれしいし、付き合ってほしいと言われたら、決して嫌じゃない。

 悠太のことがなければ、私も多分OKしていただろう。

 結局のところ、今回の問題は、私の心持ち次第だ。

 日野原くんと付き合うのか。

 それとも。



「…………」



 どうして同じままではいられないんだろう。

 どうして同じままで満足出来ないんだろう。

 確かに何かが終わろうとしている、そんな予感がする。

 昨日とはうってかわって、窓の外は静かだった。

 まるでそれは、何かの訪れを待っているかのようだった。





     *





「なんか元気ないな。どうかしたか?」



 隣を歩く悠太が、ふとそんなことを言ってくる。

 悠太とは家が近いので、一緒に歩いて学校まで行っているのだ。

 サッカー部の朝練に合わせるために毎朝早起きをしないといけないけど、朝には強いと自負しているので問題はない。



「ちょっと、ね。昨日よく眠れなくて」



 悠太の視線から逃れるように、私は体をよじらせた。

 きっと今の私はひどい顔をしている。

 今日はいつにも増して瞼が重たい。

 今朝も太陽はさぼりがちで、吐いた息が真っ白に色づく寒さだ。

 ちらりと横目で悠太の顔を覗き見る。

 普段から朝練をしていて慣れているのか、眠気はほとんど残っていなさそうだ。

 今朝の練習メニューでも考えているのか、あさっての方向を向いたまま白い息を吐いている。

 その視線を一人占めしたいと、何度思っただろう。



「……ん? どうかしたか?」

「べ、別に」



 私が見ているのに気付いた悠太が、不思議そうに首をかしげた。

 少し気まずくて、反射的にそっぽを向いてしまう。



「あーそういやさ。聞こうと思ってたんだけど」

「なに?」



 欠伸を噛み殺しながらの返事。

 でも、次の悠太のセリフは、私の眠気を吹き飛ばすのに十分だった。



「お前、亮介と付き合うの?」



 呼吸が止まった。

 目を見開いて、悠太の方に向き直る。

 どうして悠太がそのことを知っているのか。

 私はまだてっちゃんにしかそのことを言っていないのに。



「ど……どうしてあんたが知ってるのよ」

「んー。昨日の夜に亮介から電話で聞いたんだよ。『清水さんに告白しちまった』って」



 特に動揺した様子もなく、悠太は答えた。

 よく考えてみれば、てっちゃんは人にこういうことを言いふらす人じゃないし、

 私が話していないとなると、必然的にあとは当事者――日野原くん本人から、という線しか考えられない。

 多分、私にとってのてっちゃんが、日野原くんにとっての悠太なのだろう。



「それで、まだ返事もらってないっていうからさ。聞いとこうと思ってよ」

「あんたには……関係ないでしょ」



 そう口にした自分の胸が、鈍い痛みを感じたのがわかった。



「関係なくはないだろ」

「え……?」



 一瞬期待した。悠太が今の言葉を否定するとは思っていなかったから。

 しかし、その期待は一瞬にして裏切られることになる。



「もしお前と亮介が付き合うなら、俺も少しは気を使わないといけないかなと思ってな」

「それって、どういうこと?」

「いや、お前と亮介二人の時間を増やしてあげようかと思って」



 ふと、足が止まる。

 数歩先を行ってから、私が歩みを止めたことに気付いた悠太が振り返った。



「悠太は、私が日野原くんと付き合うの、嫌じゃないの?」

「……どうして俺が嫌がるんだ? そりゃ、変なのが相手だったら嫌かもしれねえけど、亮介はいい奴だぞ。俺が保証する」



 それは言われなくてもわかってる。私も、彼と悠太が仲良くしているのを何度も見てきているから。

 私が聞いているのは、そんなことじゃない。

 悠太は、私のことをどう思っているのか。それを知りたいだけだ。



「私が日野原くんと付き合ってもいいの?」

「それは……。俺が決めることじゃないだろ」



 正論だ。自分の中の冷静な部分が、そう言った。

 だけど、嘘でもいいから、そこは嫌だと言ってほしかった。

 もちろん、その願いは叶わなかった。



「まあ、とりあえずはだな」



 こほん、と軽い咳払いをしてから、悠太は私に微笑んでくれた。

 今の私にとっては、ひどく残酷な笑顔で。



「もしお前が亮介と付き合うなら、全力で応援してやるからな」

「――――」



 肌を刺す寒さすら、感じない。

 もう何も考えたくなかった。耳に入ってきた言葉を忘れてしまいたかった。

 全力で応援してくれる。ということは、

 悠太は……私と一緒でなくてもいいんだ。私が誰かと一緒になってしまってもいいんだ。

 何かが込み上げてきて、それと一緒に胸がからっぽになったような感覚を覚える。



「晴香?」



 悠太は心配そうな顔をして、手を差し伸べてくる。

 その手を、感情のままに振り払ってしまった。



「……バカ悠太! もう、いいよっ!」



 悠太の脇をすり抜けて、全力疾走する。

 顔は上げなかった。悠太には、みっともない顔を見せたくなかった。

 ぎゅっと唇を噛み締める。まばたきをした途端、目に溜まった滴がぽたりと乾いたアスファルトに滲んだ。





     *





「本当にいいの?」



 恐る恐るといった感じで、日野原くんが聞いてくる。

 彼なりの謙虚さなのかもしれないけど、ここまではっきり言っているのに、わざわざ確認してこなくてもいいと思う。

 思うに、彼も彼なりに緊張していたんだろう。私だって、そうなのだから。



「うん。私、まだ日野原くんのことよく知らないけど……付き合ってみようよ。

 そうしないと、上手くやっていけるかどうかもわからないし」



 努めて明るい口調で私は言った。

 悠太と気まずい別れ方をしたその日、私は昼休みの間に日野原くんの教室に行き、

 放課後に中庭で待ち合わせる約束を取り付けた。

 昼休みには生徒で溢れかえる中庭だけど、放課後になると途端に人気がなくなる。

 特に今のような寒い時期には尚更だった。こういった内緒話をするにはうってつけだ。



「それじゃ、携帯の番号交換しようよ。あとメルアド」

「ん、おっけー」



 携帯を取り出して、赤外線通信で互いの番号を交換する。

 日野原くんははにかみながら、とてもうれしそうな顔をしていた。



「あのさ。早速なんだけど、今週末どっかに遊びに行かない?」

「あ、部活休みなんだ?」

「日曜はあるけど、土曜は休み。俺も久しぶりに羽伸ばしたいし、街に出てぱーっと遊ぼうよ」

「いいね。そうしようか」



 私もにっこりと笑って頷いた。

 悠太の言う通り、日野原くんはとてもいい人だ。私なんかにはもったいないくらい。



「俺、そろそろ部活戻らないと。ありがとう、清水さん。土曜日、楽しみにしてる。待ち合わせは今夜メールで相談しようか」

「そうだね。あと、一応恋人になるんだから、清水さんってのは他人行儀だと思うよ。……亮介くん」

「う、うん。それじゃ……は、晴香さん、またね!」



 子供のようにはしゃぎながら、亮介くんは大きく手を振って走っていった。

 思わずくすっと笑顔が浮かんでしまう。

 あの無邪気なところは、悠太と違った彼の魅力だ。

 悠太はこういうとき、恥ずかしそうに視線をそらす。そして小さく呟くように喋る。

 また、ずきりと胸が痛んだ。

 もっと亮介くんのことを好きになれれば、この胸の痛みも消えるかもしれない。

 そう信じたかった。

 だから私は、亮介くんと付き合ってみようと思ったのだろう。

 その考えがそもそも間違っていたのだと気付くのは、少し先になる。





     *





 晴香が亮介と中庭で会っていた頃、手塚はある場所に向かっていた。

 今日の晴香は、明らかに不自然なほど明るかった。

 まるで自分が普段通りだと見せ付けているように。

 最もおかしかったのは、悠太と全く会話を交わしていなかったこと。

 いつもなら、気が付くと二人一緒にいて、大声で漫才めいたやり取りをしているはずなのだ。

 それが、今日はお互いに避けているような気がした。

 他のクラスメイトたちは気付いていなくても、それなりに付き合いの長い手塚にはわかる。

 なにかがあったことは明白。

 その『なにか』とは、ほぼ間違いなく、昨夜晴香に話してもらったことだろうと、手塚は確信していた。

 そして手塚は、サッカー部の部室を訪れていた。



「すみません。家庭科部の手塚といいますが、穂坂くんを呼んで頂けますか?」



 部室の入り口の前でたむろっていた部員らしき男子生徒に声をかける。



「穂坂先輩っスか? ちょっと待っててくださいっス」



 丸刈りの男子生徒はそう言って、部室の入り口で「穂坂せんぱーい、家庭科部の人が来てるっスー」と大声で言った。

 デリカシーに欠ける子だなとは思ったが、悪い子ではないらしい。

 程なくして、部室から慌しい感じで悠太が出てきた。

 着ているユニフォームが着崩れている。どうやら着替え中だったようだ。



「あ……手塚か」



 悠太は、手塚の顔を見ると明らかに一瞬残念そうな顔をした。

 一体誰が来てくれたと思ったのか。

 手塚には、悠太が誰の訪れを期待していたのか、透けて見るように予想が出来た。



「私じゃ、いけませんか?」

「いや……別にそういう意味じゃねーよ」



 困ったような顔をする悠太を見て、手塚は少しだけ胸が軽くなる。

 あえて意地悪な言い方をしたのは、ちょっとした仕返しのつもりだった。

 それが叶ったので、いじめるのはこれだけにしてあげよう、と手塚は思う。



「話したいことがあるの。少しいいかしら」

「部活始まるまで時間あるから、ちょっとくらいなら」

「それじゃ、隅で話しましょ」



 二人はグラウンドの端を歩いて、花壇のすぐ近くの石段に腰を下ろした。

 目の前では野球部が大声を上げて走り込みをしている。

 この時期は日が暮れるのが早いので、既にグラウンドは証明で照らされていた。

 ギラギラと光る証明が目に眩しく、夜の太陽のようにすら思える。



「穂坂くん。日野原くんのことで、晴香に何か言ったでしょ」



 手塚は単刀直入に切り出した。

 ここまで直接的な言い方をしなくても悠太がわかってくれるだろうとは、手塚は思っていた。

 晴香が言うほど、悠太は鈍感な男ではない。

 ただ、自分に対する好意に対して疎いというだけだ。



「ああ……晴香から話聞いてるんだな」

「亮介くんとの話は大体ね。なんで穂坂くんと険悪になってるのかは知らないわ」

「険悪に見えてたか?」

「明らかにお互い避けてたでしょ。他の人にはわからなかったかもしれないけど」

「……手塚には負けるな」



 フッと悠太は一瞬笑って、視線を空へ投げた。

 日は完全に傾き、夜の闇が徐々に訪れようとしていた。



「実は、亮介から聞いたんだよ。晴香に告白したんだって。

 それで今朝、亮介と付き合うのかって晴香に聞いてみたんだ。

 二人が付き合うなら、俺は少し晴香と距離を置いてやった方がいいんじゃないかって思ってさ」

「それで?」

「そうしたら、晴香の奴が、亮介と付き合ってもいいのかって聞いてきたんだ。

 だから、それはお前が決めることだって言ったんだよ。あと、もし付き合うなら、応援するとも言った。

 そしたら、なんか急に晴香が怒りだしちまって」

「……なるほどね」



 それだけで、手塚には晴香が何を思ったのか、大体わかってしまった。

 つまり、それを聞いて、晴香は悲しくなってしまったのだ。

 自分の気持ちを悠太がわかっていないことに、気付いてしまったのだろう。

 それと同時に、悠太が自分のことを恋愛対象にしていないのではないか、とも思ったに違いない。



「以前から一度聞いてみたかったんだけど」

「ん?」

「穂坂くんは、晴香のことをどう思ってるの?」



 野球部の大声が、別の世界からの響きに聞こえてくる。

 悠太は視線をそらして、一瞬だけ目をつむってから口を開く。



「あいつは、俺のお気に入りかな。好きでもない奴とずっとつるんでるわけねえだろ?

 あいつと一緒にいると楽しいし、飽きないからな。これからも仲良くしたい。

 俺が素のまま絡める女は、あいつくらいだしな。

 でも、付き合う相手は、あいつ自身が決めるべきだ。俺が口出しすることじゃねえよ」



 まくしたてるように言い切ると、悠太は唐突に立ち上がった。



「そろそろ行かねえとまずいから、行くわ。またな、手塚」



 にかっと笑顔を見せてから、手塚に背を向けて行ってしまった。

 最後に見せた笑みは、優しさを含みながらも、どこか諦めているような、そんな気配を感じさせた。

 結局、晴香も悠太も互いのことを思い合っているのだ。

 しかし、その気持ちの種類が微妙に違い、その違いが二人の心に回り道をさせている。

 それを知っているのは、現時点では手塚だけだった。

 その上で、手塚は心の底から、思った。



「……バカばっかりなんだから」





     *





 金曜日の夜。

 亮介くんと遊びに行く前日の夜が来た。

 明日着ていく服も決まったし、あとは明日に備えて寝るだけだ。

 一応、明日が私の人生初デートということになる。

 それなのに、なぜかちっともどきどきしなかった。

 明日の待ち合わせは朝十時だから、慌ててベッドに入らなくても寝坊の心配はない。

 とはいえ、夜更かしをして寝不足の状態で行くのは、亮介くんにも失礼だ。

 そう思うのに、私はベッドに座って、作りかけのマフラーを編んでいた。



(何やってるんだろう、私……)



 これを渡すはずだった悠太とは、もう数日間口をきいていない。

 だけど、これを完成させておけば、仲直りをするときの口実に出来るかもしれないという期待があった。

 この間、急に怒ったりして、悠太はきっと困惑しただろう。

 もしかしたら、私のことが嫌いになったかもしれない。

 早く亮介くんを好きになって、悠太に対する好意を忘れてしまおう。

 ただの幼なじみに戻れば、きっとまた悠太と気軽に言葉を交わせるはずだ。

 自分の本心から逃げるように、私は自分自身にそう言い聞かせながら、編み棒を一心不乱に動かした。

 私の心はまったくまとまっていないのに、それに反してマフラーはきっちりと編み上げられていった。





     *





 次の日の朝。

 待ち合わせの五分前に駅前に着くと、既に亮介くんは待っていた。

 なんだかそわそわとしていて、しきりに携帯を開いては閉じを繰り返している。

 見た目はかっこいいのに、行動が初々しくて、少し笑ってしまった。



「おはよう。亮介くん。待たせちゃった?」

「あ、晴香さん! おはよう。全然待ってないよ!」



 私が声をかけると、ぱっと花が開いたように笑顔になる。

 まるでよく懐いている子犬のような感じがした。

 同年代の男の子をかわいいと思ったのは初めてだ。



「晴香さん、普段そういう服着てるの?」

「や、さすがに普段はもうちょっとラフな格好だけど……」



 今日は少しはおめかししようと思って、上は長袖シャツの上からセーターを着て、更にその上からコートを羽織ってきた。

 下は膝丈ほどの長さのチェック柄スカート、防寒対策に黒ストッキングをはいている。

 私にしてみれば、精一杯おしゃれをしてきたつもりだ。

 一緒に遊ぶ相手が悠太だったら、シャツにトレーナー、Gパン姿で、せいぜいマフラーを巻いていく程度だっただろう。



「一応、出来るだけおしゃれしてきたつもりなんだけど、似合ってないかな?」

「う、ううん! ぜんぜん! かわいすぎて見とれちゃっただけだよ!」

「そうなの? ありがと」



 私がお礼を言うと、亮介くんは口元を押さえたかと思うと、かあっと顔を赤くしてうつむいてしまった。

 どうやら言うつもりではなかったらしい。

 悠太と一緒に話しているのを見ている限りだと、知的で優しくて落ち着いている人というイメージが強かったけど、

 こうして話してみると、思っていたより子供っぽいところもあるんだなと思う。

 それが逆に親しみやすさを感じさせた。



「そ、それじゃ行こうか。晴香さん、ご飯は食べてきた?」

「軽く食べてきたよ。亮介くんは?」

「俺もちょっと食べてきた。それじゃまずはボウリングでもしておなかすかせる?」

「ボウリングかー。いいかも。負けないからね」



 ニヤリとした笑みを浮かべてみせると、亮介くんはつられたように爽やかな笑顔になった。

 いい人オーラ全開で、ちょっぴりやりづらい。

 でも、元々私は人に合わせるのが得意ではないので、あまり気にしないことにする。

 ひとまず私たちは、駅から歩いて十分ほどのところにあるアミューズメントパークへ行った。

 ボウリングコーナーは、まだ午前中ということもあってあまり人がいなかった。



「晴香さん、何ゲームやる?」

「三ゲームでいいんじゃないかな」

「了解」



 受付でチェックを受けて、専用のシューズに履き替える。

 靴底を床に押し付けて履き心地を確かめてみた。

 きゅっきゅっと鳴る音が耳に気持ちいい。



「どうせなら、何か賭けて勝負しない? 負けた方が勝った方の言うことをなんでも一つ聞くってことで」



 受付から戻ってきた亮介くんが、そんな提案をしてくる。

 勝負するのは好きなので、やぶさかではなかった。

 それに、中学の頃から悠太や他の友達と一緒に学校帰りによくやっていたので、

 ボウリングの腕にはそれなりに自信がある。



「いいよ。でも、勝負するからには全力で叩き潰してあげるからね!」

「あはは……お手柔らかに」



 私の勢いに押されて、亮介くんは苦笑いを見せた。

 勝負事となると熱くなってしまうのは性分だ。

 せっかくの初デートだけど、勝負となったら一切手は抜かない。

 自分の中の血がたぎるのを感じながら、私はボウリングの球をがしっと強く掴んだ。





     *





 当たれ、当たれ、当たれ!



「……あ」



 外れた。

 ギリギリのところを狙って放った球は、惜しくもピンの側面には触れずにガーターに吸い込まれていった。

 がくりと膝から崩れ落ちる私。

 地縛霊のように重々しく振り返ると、後ろで亮介くんがほっと胸をなで下ろしていた。



「ギリギリだけど、なんとか……俺の勝ちだね」

「う、ううう〜! 負けた……」



 結果は、一勝二敗。

 一ゲーム目は勝てたけど、その後立て続けに連敗してしまった。

 というのは、亮介くんはかなり上手かった。

 ゲームごとのポイント差は全て3以内という大接戦。

 二人ともアベレージは150を超えていて、素人としてはなかなかの腕だと思う。



「ボウリングなら勝てると思ったのに……亮介くん、ぶっちゃけ腕に自信があるから勝負に誘ったでしょ?」

「あー、やっぱりわかるよね。実は結構やってたんだ。ごめんね」

「や、乗ったのは私だし、いいんだけどね」



 それにしても、負けるとは思ってなかったので驚いた。

 やはり運動神経の良さは、こういうところでも出るんだろうか。

 私も女子の中ではなかなかの運動神経の持ち主なのだけど。



「それじゃ、何か一つ言うことを聞くって話だけど……」



 私は思わず身構える。一体何を言われるんだろう。

 向こうから勝負をふっかけてきたってことは、多分何かしらしてほしいことがあったに違いない。



「ちょっと待って」

「ん?」

「えっちなことは、だめだからね!」



 そう言うと、亮介くんは一瞬きょとんとした表情を見せてから――首筋からじわじわと赤くなった。



「そ、そういうことを頼もうなんて、全然思ってないよ!」



 真っ赤になったまま、ぶんぶんと手を振って否定してくる。

 この反応、本当にそういう方面では考えていなかったみたいだ。

 それにしても、今時の男の子にしては意外なほど純情な人だな、このくらいで赤くなるなんて。



「ええと、実は何も思いついてなくて……。だから、保留ってことでいいかな?」

「そうなんだ。てっきり何か頼みたいから勝負しようって言ったんだと思ってた」

「いや、その、そういうの晴香さん好きそうだなって思ったから……」



 なるほど。私のことを思って言ってくれていたのか。

 確かに、普通にボウリングをやるよりもずっと楽しめた。

 なにより、私のことを考えていてくれたのが素直にうれしい。

 もしこれが悠太なら、「んじゃ昼飯奢ってくれ」くらいのことは言ってくるに決まってる。

 亮介くんと違って、悠太は私に対する遠慮がなさすぎる。

 同じなのは、二人とも私よりボウリングが上手い、という点だけだ。

 私は勝負好きなので、それに関してはどちらに対しても平等に悔しい。

 この雪辱はいつか晴らしてやろう、と心に誓う。



「もうお昼前だね。そろそろ少しご飯食べようか」

「そうね。そうしよっか」



 シューズを返して料金を払うために受付に行く。



「ああ、いいよ晴香さん。俺が全部出すよ」



 財布を出そうとしてミニバッグを開けたところで、亮介くんがそう言ってきた。



「え? いや、いいよ。出すよ」

「いいって。今日は俺に付き合ってもらってるんだし」



 言いながら、ささっと亮介くんは支払いを済ませてしまった。

 お金を出し損ねてしまい、仕方なくバッグの口を閉じる。

 悠太と一緒の時は当たり前のように割り勘だったから、うれしいというよりは戸惑ってしまう。



「ご飯どこで食べようか? ファーストフードってより、少し落ち着けるところがいいよね。ファミレスとか」

「う、うん。そうだね。そっちの方がいいな」



 ふとした拍子に感じる違和感の原因に気付かないまま、私は亮介くんと並んで歩く。

 ……ああ、そういえば。いつもより歩くのが楽だ。

 亮介くんが私の歩調に合わせてくれているからだと、ファミレスに向かう最中に気付いた。

 私を置いて、どんどん先に行っちゃうんだもんな。

 これが、悠太だったらさ。





     *





 その後も、亮介くんは私にとても優しくしてくれた。

 ファミレスで一緒に食べていると、たくさん注文した私が食べ終わるのを急かしもせずに待っていてくれた。

 悠太と一緒だと、「俺が手伝ってやる」とか言って勝手に私のものまで食べられるから、

 あんなにゆっくり食べたのは久しぶりだった。

 ゲーセンでは「負けっぱなしじゃやだ」という私のわがままに付き合って、格ゲーで対戦もしてくれた。

 そのときの私の口癖は「ぶっ潰す」「しね」だったので、彼の中の私の株は大暴落だろうと思ったが、

 対戦でぼこぼこにされてからの彼の第一声は「晴香さんって、激しいところあるよね」だった。

 あまりに爽やかな笑い方をしていたので、思わず「こいつマゾか」と思ってしまったほどだ。

 こんなに心の汚れた女で本当に申し訳ない、という気持ちが大きくなる。

 悠太は私と同等かそれ以上に汚れているので、一緒に対戦していると、どこの不良かと思うほど口が悪くなってしまう。

 中学のときに一緒についてきたてっちゃんが、気付いたら離れた場所で他人の振りをしていたのが今も記憶に新しい。

 ゲーセンを出てからは、ウインドーショッピングをした。

 誰かと一緒に回ると、買うつもりがなくても不思議と楽しい。

 小物を見ていたら、一つとても気に入ったアクセサリーがあった。

 イミテーションの宝石で彩られたネックレス。

 それを手に取って眺めていたら、危うく亮介くんに買われてしまうところだった。

 さすがにそれは悪いと思って、全力で阻止したけど。

 これが悠太なら、お金を出してくれるどころか、「似合わないもの見てるな」とからかわれるのが関の山だ。

 本当にあのバカは、鈍感でデリカシーに欠ける最低野郎だ。

 亮介くんのような穏やかで優しくて、気配りが出来る人とは何もかも違う。



「もう暗くなってきちゃったね。この時期は本当に暗くなるのが早いなあ」



 午後五時頃、私たちは待ち合わせた駅前の近くにある喫茶店に腰を落ち着けていた。

 おしゃれな雰囲気のお店で、BGMにゆったりとしたジャズピアノが流れている。

 亮介くんは割と馴染みのある場所で、気分を落ち着けたいときによく来るらしかった。

 一杯五百円もする紅茶を飲みながら、私は窓越しに暮れていく空をなんとなく眺めていた。

 こういうお店は、今まであんまり縁がなかったな。



「今日は本当にありがとね。おかげですごく楽しかったよ」



 にっこりと笑顔でそう言ってくる亮介くんの声は、耳に優しい柔らかいものだった。

 それなのに、なぜだかしっくりと来ない感じがしてしまう。

 こんなにいい人を、私は他に知らないのに。



「……うん。私も楽しかったよ」

「それなら良かった。晴香さん、ちょっと無理してるように見えてたから」



 そこは隠しているつもりだったのに、勘付かれていたのか。

 本当にこの人は、私のことをちゃんと見てくれていたんだな。

 ずっと近くにいても全然わかってくれない悠太とは、天と地ほどの差がある。



「無理してたわけじゃないの。ただ、いつもと違うなって思って、少し戸惑ってただけ」

「はは、そうなのかな」

「うん。いつもはもっとテキトーだから」



 今日一日通してみて、男の子とこんなにちゃんとデートをしたのは初めてで、すごく楽しかった。

 亮介くんは、悠太と比べるのが失礼なくらいにいい人だ。

 こんな人に好きになってもらえるなんて、とても幸せなことだと思う。

 本当に、どうして私はあんな奴のことが好きだったのか。

 本当に、どうして私はあんな奴のことを



「は、晴香さん?」



 呼びかけられて、はっとして顔を上げる。

 しまった。少しぼーっとしていたらしい。

 取り繕うために笑顔を作ろうとしたが、なぜか上手くいかなかった。

 目の前の亮介くんが困ったような顔をしている。



「ど、どうしたんですか、いきなり」

「どうしたって――」



 そう言われて、私はようやく自分が泣いていることに気付いた。

 こんな状態で上手く笑えるわけがない。



「ご、ごめん……っ」

「いいから、これ使って」



 差し出されたハンカチを素直に受け取る。

 だけど、拭いても拭いても、涙はなかなか枯れそうになかった。

 亮介くんは何も言わずに、私が落ち着くのを待ってくれている。

 こんなときでもきちんと気遣ってくれる彼の優しさが、ありがたいと同時に、心苦しかった。

 私は、気付いてしまった。

 今日一日、亮介くんと一緒にいたのに、ずっと悠太の影を探していたことに。

 誰かを好きになることで、自分の中を恋心を誤魔化すことなんて、出来はしないんだ。

 この気持ちは私のものでしかないのに、私の手に余るものだったんだ。

 悠太なんかより、亮介くんの方が絶対に大人だし、いい人だと思っているのに、

 本当に、どうして私はあんな奴のことを、今でも一番好きなのだろう。

 これじゃ自分の気持ちだけでなく、亮介くんの気持ちも裏切ってしまったようなものじゃないか。

 申し訳なさと自己嫌悪に、私はそのまましばらく、嗚咽を噛み殺しながらはらはらと涙を流し続けた。





     *





 ようやく私が落ち着いた頃には、六時をもう回ってしまっていた。



「……大丈夫?」

「うん」

「その、どうかしたの? 俺でよければ、話してくれていいよ」



 あくまでも強制はしてこない彼の話し方は、彼なりの優しさなのだろう。

 本当は、話したくない。でも、話さなければいけないと思う。



「あのね。実は私、他に好きな人がいるの……」

「……そう」

「私は、その人に告白する勇気がなくて。いつかその人が気付いてくれないかって、そんなことばかり思ってて。

 そんなときに、亮介くんに告白してもらえて。うれしかったけど、困った。

 だけど、これをきっかけに、その人のことを忘れられるんじゃないかって期待したの。

 でも、やっぱり今でも、私はその人が好きなんだって、今日一日を思い返してみて、わかっちゃったの」



 枯れたはずの涙がまた込み上げてくる。

 溢れないように、ぐっと我慢した。



「本当に、ごめん。亮介くんの気持ちを受け入れてあげられないだけじゃなくて、

 亮介くんの気持ちを利用するみたいなことをしちゃって。

 謝っても許してもらえないかもしれないけど……ごめんね」



 何度謝っても、許してもらえるとは思わない。

 だけど、私を好きだと言ってくれた人に恨まれるのだろうと思うと、とても怖かった。

 亮介くんはじっと黙り込んで、冷めたコーヒーに目を落としている。

 その視線が、不意に私の方を向いた。



「本当に悪いと思うなら、一つ、いいかな。今日のボウリングで言ったよね。

 負けた方が勝った方の言うことをなんでも一つ聞くって。それを使わせてもらうよ」

「……うん。いいよ。私に出来ることなら」



 何を言われてもいいように、覚悟を決めた。

 私は、彼の心を深く傷つけた。それは間違いない。

 その罪滅ぼしになるなら、なんでもしてあげたい。

 そう思っていたのに。



「好きな人、いるんだよね? その人と、ちゃんと幸せになってね」

「……え」



 困惑する私に、亮介くんはほんのりとした笑顔で、頷いてくれた。

 言葉に詰まる。呼吸が止まりそうになる。

 こんなに心が優しい人には、もう生涯会えないんじゃないかと思った。

 そんな人を傷つけたのだ、私は。

 うれしさと申し訳なさがない交ぜになって私の胸を埋め尽くす。

 堪え切れなかった分の思いが滴となり、私の目から溢れ出た。

 ごめんなさい。ごめんなさい。

 ……ありがとう。





     *





 晴香とのデートをして、晴香に振られてしまった次の日。

 亮介は普段通り、部活に参加していた。

 朝九時に集合で、柔軟体操をしてからグラウンドを十週。

 それからボールを使って、パス練習とドリブルの練習。

 いくら亮介が出来た人間だとはいっても、好きな人に振られたことには少なからず ショックを受けていた。

 それでも、体を動かしていると、その間は傷心を忘れることが出来た。

 単なる逃避だということは亮介自身もわかっていたが、自分一人ではそうするしかなかった。

 午前中の練習が終わり、昼休みになる。

 部員たちは思い思いの行動を取る。弁当を広げる者。コンビニへ買出しに行く者。昼寝を始める者。

 亮介は自宅から持ってきた握り飯を取り出して、かじりつく。

 運動した後のご飯はいつ食べてもうまい。

 ずっとそう思ってきた亮介だったが、その日食べた握り飯は、不思議なほど味気がなかった。



「おい、亮介。体調でも悪いのか?」



 気付くと、コンビニから帰ってきた悠太が隣に座っていた。

 感情を全く表に出さないよう努めていたはずなのに、悠太には雰囲気で察せられたのか。

 亮介はなんだかおかしくなって、ふっと肩の力を抜いて笑う。



「いや、実は昨日ね。晴香さんに振られたんだよ」

「は? お前が? あいつに? まじかよ!」



 悠太は飛び上がらんばかりに驚いた。

 彼が思う中で、亮介ほどいい人間はいない。

 その亮介が振られてしまったなんて、悠太には信じられないのだった。



「うん。なんでも、他に好きな人がいるんだって」

「お前よりいい男なんて、俺の知ってる中にはいねーぞ。しかも好きな奴がいるなんてのも知らなかった。

 お前を振るくらいなんだから、物凄くいい男なんだろうなそいつ。

 晴香はあんまり頭良くねえけど、人を見る目はそれなりにあるからな」

「……悠太」

「あん?」



 すぱーん! と亮介は悠太の頭を引っぱたいた。

 その勢いで、悠太は前のめりに倒れこんでしまう。



「ってーな! なんだよいきなり!」

「いくらお前でも晴香さんを悪く言うのは許さないよ」



 殴った理由はもう一つだけあったが、亮介は口にしなかった。

 それは自分の言うべきことではないと、彼にはわかっていたのだった。



「そういうわけだから、俺に気を使って晴香さんと距離を置かなくていいよ。

 最近、なんか晴香さんと一緒にいるの見てなかったけど、それ俺のせいだろ?」

「あー……別にお前のせいじゃねえよ。ちょっと今、仲違い中なんだよ」



 もそもそと動かしていた口の動きを止める。

 二人の仲の良さは、亮介も重々承知していた。

 まったく顔も合わせないほど険悪になっているなんて、想像もしていなかった。



「なんかあったのか?」

「わかんね。亮介と付き合うなら応援するっていったら、なんか急にキレた」



 それだけで、亮介は大体の事情を把握出来てしまった。

 そして、やはりきっかけが自分にあることも理解して、知らずの内に溜息をついていた。



「早く仲直りしろよ。晴香さんも、お前とこんな風に険悪になってるのは嫌だろうし」

「なんで怒らせたのかもよくわかってないのに、謝れるかよ。なんか誠実じゃない感じするじゃねえか」

「だからって、お前もこのままじゃ嫌だろ?」

「……まあ、そりゃな」

「お前ら、幼なじみだろ。細かいこと気にしてないで、話してみればいいと思うよ」



 その言葉に、悠太は何も言わずに買ってきた弁当に口をつける。

 何も言い返してこないということは、少なからず悠太も亮介の言ったことと同じことを思っているのだ。

 そのことを亮介もわかっていた。  だから、亮介もそれ以上は何も言わず、残りの握り飯を口に放り込む。

 それは心なしか、一口目よりもおいしく感じられたのだった。





     *





 バレンタインがついにやってきた。

 その日は夜から雪が降っていて、家を出ると積もった雪がサクサクと小気味いい音を立てた。

 校内の雰囲気も、いつもよりどこか浮ついたような感じがしていた。

 悠太はやはり人気があるらしく、授業の合間に先輩やら後輩やらがひっきりなしにやってくる。

 聞き耳を立てていると、どうやら早朝のうちに机の中にも入れられていたらしい。

 しかも、きれいな便箋つきの、明らかに本命としか思えないものもいくつか混じっていたとか。



「で、あんたいつ渡しに行くの?」



 昼休みにてっちゃんがそう聞いてきた。

 チョコやらクッキーやらを渡しに来る子はいたけど、マフラーなんて気合の入ったものを渡している子はいなかった。

 人目のある中でそんなものを渡すのは、いくら幼なじみだからとはいっても気が引けてしまう。



「放課後、かな」



 てっちゃんにはそう言っておいた。

 とはいっても、悠太の周りには常に誰か人がいる。

 男にも女にもモテているのだ、奴は。

 しかも、



「清水せんぱーい。あの、これ、受け取ってください!」

「先輩、私からもどうぞ」

「晴香、これあげるわ」

「ありがとー」



 なぜか私にも贈り物がたくさんくる始末だ。

 さっき受け取ったので十五個目。家庭科部の後輩と、クラスメイトにもらった分だ。

 気持ちはうれしいけど、みんなそんなに私のウエストにダメージを与えたいのか、と少しだけ思ってしまう。

 もらったものを無駄に出来ない貧乏性が、まさかこんなところであだになるとは。

 まだ今日は一度も悠太と話せていない。

 こんな調子で、本当に今日悠太と仲直り出来るんだろうか。

 一抹の不安を抱える私とは無関係に、時間はゆっくりと確実に過ぎていった。





     *





 結局悠太とまるで話せないまま放課後になってしまった。

 今日の雪はあまりひどくないから、多分悠太はこのまま部活に向かうのだろう。

 そうしたら、悠太と二人きりになれるのは部活が終わってからだ。

 しかし、そうなるとどうしても亮介くんとも顔を合わせることになる。

 さすがにまだ亮介くんに会うのは、少し気まずい。

 だからなんとかして部活の前に悠太とは話しておきたかった。



「あ、ゆ、悠太!」



 教室を出て行こうとする悠太に慌てて声をかける。

 悠太は一瞬足を止めて振り返った。

 目が合う。

 話していなかったのはほんの数日なのに、何年も会っていなかったような感覚に捕らわれた。



「なんだ?」

「その、渡したいものがあるんだけど」

「……悪い。ちょっと部室行ってこなきゃいけねえんだ。後でな」



 久しぶりに話したというのに、返ってきたのはそんな素っ気無い言葉だった。

 次の言葉を言う前に、悠太は教室を出て行ってしまう。

 呼び止めようとして半開きになった口をぎゅっと閉じて、私は力なく自分の席へへたり込んだ。

 どういうことなの。悠太は明らかに私のことを避けている風だった。

 物心ついたときからずっと一緒にいたのに、こんな簡単に壊れてなくなってしまう程度の関係だったのか。

 ぎり、と奥歯が軋みをあげる。

 バン! と机を叩いて、その勢いで立ち上がった。同時に、溢れ出しそうな感情を無理やり押し込める。

 まだ教室に残っていたクラスメイトの視線が向くのを感じたが、それを気にする余裕はなかった。

 放課後の喧騒を一度に吹き飛ばしてしまったまま、床を踏み壊す勢いで教室を出る。

 あのバカ。私より部活の方が大事なわけ。そんな自分勝手なことを考える。

 まだ校内には、甘ったるく、ふわふわと弛緩した空気が流れている。

 その中で自分だけがずっぷりと沈んでいるような気がした。

 じわっと胸に広がりそうになる気持ちを抑えながら昇降口を出ると、不意に携帯が震えた。

 携帯を開く。メール受信一件。送信主は……悠太だった。



「あの、バカ」



 メールを読み終わり、重たい息を吐き出す。

 顔を上げた。一歩踏み出そうと持ち上げた足は、驚くほど軽くなっていた。





     *





 駅前のロータリーに沿って設置されたベンチ、その中の一つに陣取る。

 冬の寒さを吸い込んだ木の板は、スカート越しでも体が冷える。

 息をふきかけて手を擦り合わせる私の前を、何人もの人々が通り過ぎていく。

 仲良く並んで歩く男女が多いのは、やはりバレンタインの影響だろう。

 その繋ぎ目を無意識に目で追っていると、視線の先から見知った顔が走ってきた。



「わ、悪い、遅れた」

「ほんとにね。ま、許してあげる」



 ぜえぜえと息を切らしてやってきた悠太は私の隣に力が抜けたように座った。

 本当なら待たされたことを怒ってもいいが、こんなに急いできてくれた相手を怒ろうとはさすがに思わない。



「駅前で待っててってメールが来たときは驚いたよ」

「学校だとゆっくり話しづらいからな。部活も、部長とかに言付けて休んできた」



 それを聞いて、少しだけうれしいような、そうでないような気分になる。

 二人でゆっくり話をする時間を作ってくれたのもそうだけど、むしろ私は悠太の言葉選びが気になった。

 サッカー部で悠太と一番仲が良いのは一人しかいないのだ。



「悠太……亮介くんから、私のこと聞いたでしょ。いいよ、気を使わなくて」



 悠太の肩がぴくりと震えた。ゆっくりとその顔が上がる。



「なんでわかった?」

「亮介くんの名前出さなかったから。いつもなら、亮介くんに伝えてきたとか、そういう言い方するのに」



 私と亮介くんが付き合い始めたということくらい、悠太は知っていたはずだ。

 なのに私の前で亮介くんの名前をあえて出さない理由なんて、一つしか考えられなかった。

 悠太は髪をかき上げて、しまった、という表情をしてから、勢いよく立ち上がる。



「とりあえず、どっか入ろうぜ。こんなさみー中で長話もなんだろ」



 それもそうだ。私もずっと寒空の下だったので、鼻の頭がひりひりする。

 悠太の後をついていくと、悠太の足は意外な場所へと向かっていた。



「まさか、ここに連れてこられるとはね……」



 テーブルについてから、呟くように言った。

 ゆったりとしたジャズピアノのテンポが、なぜか懐かしい。



「もしかして、亮介と一緒にここに来たか?」

「うん。一番最後に、落ち着ける場所に行こうって言われて、連れてきてもらった」

「なるほどな。この店、亮介とぶらぶらしてるときに見つけたんだよ。

 で、いつか彼女出来たらこういうしゃれた店で茶でも飲みたいよなー、とか言ってよ。早速連れてきてるとは、やられたな」



 何がやられたのかはわからないが、悠太の笑顔には曇り一つない。

 だから、別にいいかなと思えた。



「で、話を元に戻すんだけど」



 注文したダージリンを一口すすった辺りで、悠太が口を開いた。



「亮介からは、大体聞いたよ。あんないい奴振るなんてな。俺の知ってる中でも最上級の男だぞあいつは」

「そうかもね。あんたより圧倒的にいい男なのは認めるわ」

「なめんな……って言いたいところだけど、俺もそう思う」



 悠太のいいところは、バカにされたようなことを言われても、それが事実なら受け入れられることだ。

 普通の人は、これがなかなか出来ない。私も自信がない。多分、怒りが先に立ってしまう。

 そういう意味で、やっぱり悠太は大人なのかもね。

 そんなことを思いながら、マスカットフレーバーに鼻を楽しませる。



「この前は、なんか怒らせて悪かったな」



 一瞬、なんのことなのかわからなかった。

 すぐに思い出して、なんとなく申し訳ない気分になる。

 いきなり以前と同じように話せていたせいで、喧嘩の発端になった出来事が頭からすっぽ抜けていたのだった。



「お前、忘れてただろ」

「……そんなことないヨ?」



 少しカタコトになってしまった。しまったと思うが、もう遅い。



「お前なー……気にしてた俺がバカみたいじゃねーか」

「あ、気にしててくれたんだ」

「そうじゃなかったらこんなとこ連れてこねーって。ったくよ……」



 バツが悪そうな顔でカップに口をつけるのを眺める。

 なんだ、ちゃんと気にしてくれていたんだ。それが素直にうれしい。

 つい顔がにやけてしまい、その感情を抑えられないままスプーンを回す。

 カラカラと小粋な音がピアノの音色に交じった。



「なんで楽しそうなんだよ」

「別にいいでしょ。まあ、あれは私が悪かったよ。急に怒ったりしてごめん」

「それは気にしてねえよ。なんか俺が無神経なこと言ったんだろ、多分。

 どうしてお前が怒ったのかわからなくて困ったけど。あれ、どうして怒ったんだ?」



 悠太の二つの目が、私を真っ直ぐに見つめてくる。

 嫌になるくらい正直できっぱりとした男だ。

 そんなにストレートに聞かれると、困ってしまう。



「まあ、大したことじゃないよ」

「嘘つけ。大したことじゃないなら、お前次の日には忘れてるだろうが。……亮介を振ったことと関係あるのか?」



 カップに口をつけながらも、悠太の視線は私から外れない。

 悠太は鈍い。人の気持ちの裏側を見通すのが決定的に苦手だ。本人もそれは認めている。

 だけど、その問題に素直に寄り添うことで、問題をより理解しようとする態度がある。

 わからないことをわからないと言うのは、子供でも出来る。

 でも、それを認めた上で理解しようとどこどこまでも努力するのは、なかなか出来ることじゃない。

 悠太のそういうところは、素直に尊敬出来た。

 本人には、絶対に言わないけど。



「幼なじみって、こういうところ不便よね。わかってほしくないことがすぐバレちゃう」

「仕方ないだろ。付き合い長いんだし」

「そのくせ、本当にわかってほしいことはいつまでもわかってくれないんだよね」



 ぬるくなり始めた紅茶を舌で転がす。少しだけ苦い。



「本当にわかってほしいことって、なんだ?」

「……あ」



 つい口を滑って出てしまった言葉。

 何を言おうかと考え込んでいたら、不自然な沈黙が生まれてしまう。



  「えーと……そうだ、これ!」



 鞄に無理やり突っ込んでいた紙袋を手渡した。

 少し角が潰れてしまっていたが、仕方がない。



「ほら、今日バレンタインだからさ、作ったの」

「まじか! サンキュー」



 子供のように無邪気に悠太は喜んでくれた。

 贈り物なんて、悠太はもらい慣れているはずなのに、なんなんだろうこの男は。

 頬が緩んでしまうじゃないか。



「これ、もしかして手編みか?」

「うん。上手いもんでしょ」

「すげーな。まじでもらっていいのかよこれ!」



 恥ずかしいから静かにしてほしい。

 たまたま他にお客さんがいないみたいだからいいけれど、さっきからちらちらとお店の人がこちらを見てきている。

 その口元がにっこりと微笑んでいるのがわかってしまった。

 きっと「あそこの学生カップル、いいわねえ」くらいに思われているんだろう。

 そういうわけではないのに。



「さすがに店の中だと暑いな……」



 にこにこ顔でマフラーを巻き付けていた悠太は、笑顔を崩さないままマフラーを二つに折って膝にかける。

 文句の一つも言ってやりたいけど、ご機嫌な様子を見ていると素直に言い出せない。

 惚れた弱味というものの厄介さを痛感する。

 このバカ。そういうところも自分で気付いてよ。



「そうだ。忘れるとこだった」



 そう言いながら、悠太は学生鞄から小さな紙包みを取り出した。

 簡素なリボンで飾り付けられている。



「これ、お返しってわけじゃねえけど」



 珍しい。プレゼントなんて、何年振りにもらっただろう。

 私のその驚きは、包みを開いてみて更に大きくなった。



「これって……」

「お前、そういうの好きだろ? 気に入らなかったら、悪い」



 気に入らないわけがない。

 悠太がくれたのは、先日のデートで私が見とれていた、あのネックレスだった。

 なんて、偶然。

 いや、悠太は私の好みを熟知している。だから偶然とまでは言えないかもしれない。

 それでも、私は受け取った瞬間、感謝の言葉すら出せなかった。

 口を開いてしまったら、うれしさが目の端から溢れてしまう。そんな予感があった。



「……ありがと」



 涙声にならないように、少しうつむきながら言った。



「でも、どうしていきなりこんなのくれたの? 仲直りのために買ったんだろうなってのはわかるんだけど」

「あー……今回の話、亮介から聞いてさ。

 今まで意識しなかったけど、お前も女の子なんだなーって思ったから、まあ、それで」



 言い終わりの気恥ずかしさを誤魔化すように、またカップに口をつける悠太。

 聞いているだけの私にもそれが伝染して、まともに悠太を見られなかった。

 女の子だと、そう言ってもらえたことが、私の心に強く響いた。



「そろそろ出るか」

「うん」



 すっかり冷め切った紅茶を飲み干して、二人並んで店を出た。

 頬に冷たいものがふわり、と止まる。

 見上げると、真っ白い粉雪が静かに街を包み込んでいた。



「冷えると思ったら、そういや今日は雪の予報だっけ」



 自分の体を両腕で抱きかかえるようにしながら、悠太が言った。

 私も、さっきまで暖かい空気に身を委ねていたので、温度差に思わず身震いした。

 その横で悠太は、私のあげたマフラーを首にくるりと巻く。



「ふーあったけえー。マジグッドタイミングだったわこれ」

「ずるい。私によこしなさいよ、それ」

「お前、自分から贈ってくれたのに、いきなりそれかよ。これはもう俺のだからな、誰にもやらねえよ」



 へへ、と笑いながら悠太はマフラーに顔を埋める。

 こんなに喜んでもらえると、作った甲斐があったものだ。

 そう思うと、胸の内が少し暖かくなる。

 でもいくら内側が暖まっても外側が暖まるわけじゃなくて、降りしきる白い妖精は見る者の心と一緒に体温も奪っていく。



「おい、あんまりくっつくなよ。歩きにくいだろ」

「寒いんだから仕方ないでしょ。手でも繋いで、私をもっと温めなさいよ」

「そういうのは彼氏にやってもらえ」



 そんなことを言いながらも、悠太は私を振り解こうとはしない。

 彼の隣まで来れた。背中を追っていただけの頃とは違う。彼の体温を身近に感じる。

 だけど、私の望みにはまだ遠い。それを伝えるのは、今日でないといけない。

 だって今日は、バレンタイン。

 昔誰かが決めてくれた、一年に一度だけ、女の子に勇気をくれる日なのだから。



「ねえ、袋の中、マフラー以外にも入ってたでしょ」

「そういえば、小さい箱があったような」

「あれ、すっごく甘いケーキだから。ちょっと味見だけしてくれない? 感想早く聞きたいから」

「砂糖と塩間違えてるんじゃねーだろうな」



 失礼なことを言いながら、鞄にしまった袋からケーキの入った箱を取り出す。

 徹夜して、何度も失敗しつつも完成させた自信作だ。

 自分でも味見をしたから、まずいということはないと思う。

 何かあるとすれば、一つだけだ。



「ケーキなら、さっき店にいるときに一緒に食べればよかったな。お、チョコケーキか。うまそうじゃん」



 甘いものに目がない悠太の顔が明るくなる。



「そういえば今思い出したんだけど、お前亮介振っただろ? あの亮介より好きな奴って誰だよ?」



 ケーキを手に取りながらの質問。

 やっぱり亮介くんから、そこまで聞いてたか。

 私が口を開く前に、悠太がケーキを口に放り込む。

 その顔が固まった。私の決意も固まった。



「おま、これ、何が甘いだよ、苦いじゃねえか!」



 涙を浮かべて抗議してくる。甘いものが好きな反面、辛いものと苦いものが苦手な悠太なら当然だ。

 この鈍感男に対するささやかな嫌がらせとして、ビターチョコを大量に練りこんだケーキ。

 直前に『甘いケーキだ』と言われていたから、そのショックも一際だろう。

 どうして私がこんなことをしたのか。悠太はどうせ気付いてはくれない。

 だから私は、もう一歩だけ悠太に歩み寄った。

 体温と一緒に、吐息まで感じる距離。

 私に文句を言ってくるうるさい口を、塞いでやった。

 それは暖かくて、少し乾いていて、とんでもなく苦かった。



「――っな! なに、して……」



 唇が離れると、悠太はその場に倒れそうになりながら、私を見た。



  「ほら、甘くなった、でしょ?」



 意地悪く、にっこり笑って言ってやる――つもりが、私も耐え切れなくなって、途中で下を向いてしまった。

 顔が暑い。鏡を見なくても赤くなっているのがわかる。

 心臓が体の内側を強く叩いてくる。

 息をすることすら重労働に思えて、まるで自分の体じゃないみたいだった。



「冗談じゃ済まねーぞ。わかってんのかよ」

「わかってるに決まってるでしょ、そんなこと」

「わかってるって……」



 はっと悠太は目を見開いた。



「もしかして、亮介を振ったのって……」

「言うな、バカ」



 ボスン、と拳をみぞおちの辺りに突き立てる。

 恥ずかしい。顔を上げられない。降っている雪にまみれて消え去りたい。そんなことを思う。

 はあ、と呆れるような溜息が頭に降ってきた。



「お前……趣味悪いな」

「う、うるさいわね! 私の趣味をアンタに口出しされたくないわよ!」



 思わず叫んでしまう。

 そうしないと、今すぐにでも逃げ出してしまいそうだった。

 むかつく。どうしてこいつは、こんなにいつもと変わらないの。

 私だけ恥ずかしがったりして、バカみたいじゃない。



「確かに、同じ趣味してる奴に言われたくはないよな」



 そのセリフは、響きが普段通りだったせいで、つい聞き逃しそうになった。

 意味を理解しかねて、反射的に顔を上げる。

 そっぽを向いた悠太の横顔は、朱に染まっていた。



「なあ。俺、甘いのが好きなの、知ってるだろ?」

「うん」

「でも、せっかくもらったんだから、このケーキ、無駄にしたくないんだよ」

「うん」

「だから、その……おかわり」

「……やらしいね」

「う、うるせー」



 一度も視線を合わせてこないのが少しだけかわいい。

 私はケーキを手に取った。一口サイズに切り分けておいて本当に良かったと思う。

 それをぱくりと口に入れて、ぎゅっと硬く結ばれた彼の唇に再度触れた。

 苦いだけのはずなのに、なぜかほんの少しだけ甘酸っぱさが胸に広がった。





     *





「お前が付き合う奴は、お前が決めればいいと思ってたんだよ」



 二度目のキスの後、不意に悠太はそんなことを言った。

 私は、自分の気持ちに悠太が気付いてくれるのを待っていた。

 悠太は、私が誰かを選ぶのを静かに見守っていた。

 バカな話だ。真相を知った今では、つい笑い飛ばしてしまいたくなるほどの。

 遠回りとすれ違いを何度も繰り返して。

 私たちはずっとそばにいたのに、遠いところにいた気がする。

 すぐ近くにいたからこそ、歩み寄る心を忘れてしまっていたのかもしれない。

 幼なじみだといっても、やっぱりお互いの心なんてわからないんだ。

 だから私たちは、少しでもお互いの心を理解するために言葉を交わし、肌を触れ合わせる。

 きっとそういうものなのだと、今は思えた。



「それじゃ、帰ろうぜ」

「え、ちょっと、告白の返事は――」



 言い終わる前に、ぐいっと引っ張られて転びそうになる。

 悠太は私の手を握って、黙々と雪の上に足跡をつけていく。

 彼の手のひらはほのかにあたたかく、冷え切っていた私の手を優しく包んでくれる。

 それが彼の答えだと気付くのに、時間はいらなかった。

 笑顔の花が咲いた。



「ねえ、悠太」



 言わなくても、それだけはもうわかってくれてる。

 そうは思ったけど、だけど言いたい言葉があった。



「大好き」

「な、なんだよ、いきなり」

「だからさ。好き、って言って?」

「――やなこった」



 二人分の足跡を残して、顔を赤くしながら私たちは言葉を交わす。

 いくら言葉を重ねても、心が伝わることはないのかもしれない。

 それでも、この胸にあるあたたかい気持ちは、きっと確かなものだ。

 私はこの苦くて甘酸っぱい日を忘れはしないだろう。

 これが私の遠回りとすれ違いの物語、その一つの終着点なのだから。



「そうだ悠太。ホワイトデーのお返しはいらないから」

「まじで? いいのか?」

「うん、だって――これから長い時間をかけて、少しずつ返してもらうからさ」



 鈍感な私の彼氏は、なんのことかと首をかしげる。

 しばらく考えてようやく気付いたのか、真っ赤になってうつむいてしまった。

 代わりに、ぎゅっと握った手に力がこもる。

 その手を握り返して、私はそっと悠太に体を寄り添わせた。

 今の気持ちが、少しでも彼に伝わるように。