日常というのは、小さな積み重ねによって出来ているもので、

 ほんの些細なことでそのバランスは狂い、『変わり映えのしない日常』はもろくも崩れ去る。

 それは、例えばにわか雨だったり、例えば通学路の突貫工事だったり、例えば抜き打ちテストだったり、



「マジかよ……」



 例えば、知らない間に下駄箱に入れられていたラブレターだったりするのだ。







『名前のないラブレター』







     *





「『ずっと見つめているうちに、私の中にあたたかい感情が生まれていることに気付きました』……か」



 昨日目を通した恋文に綴られていた一文をぼんやりとした頭で口ずさんだ。

 思わず目元を押さえる。瞼が重い。

 昨夜はラブレターのことで頭が一杯で、まともに眠れなかった。

 そのおかげで今朝は寝坊してしまい、朝飯も抜きだ。

 途中で何か買おうかとも思ったが、財布を忘れたことに来る途中で気が付いた。

 踏んだり蹴ったりだ。自分の間抜けさに腹が立つ。

 全力で走ってきたおかげで、ホームルームには辛うじて間に合ったのが救いだった。

 思考はもやがかかったように不明瞭で、空腹感は時間と共に増すばかり。

 自分でも意外なほど、たった一通の手紙に心を惑わされている。

 最初は悪戯ではないかとも思ったが、何度も読み返してみたものの、

 その文面は真剣そのもので、とても遊び半分で書いたものには思えなかった。

 こういうときの俺のカンは当たる。少なくとも、あのラブレターは本物だ。

 しかし、それが余計に俺を悩ませている。

 理由は簡単だ。



(どうして差出人の名前が書かれてないんだよ……)



 溜息が漏れた。

 そう、あのラブレターには、肝心の差出人の名前がなかったのだった。

 うっかり書き忘れたのかどうなのかはわからないが、これではどうしようもない。

 ラブレターの内容も、簡単にまとめると『あなたが好きです』の一点に絞られる。

 好意を伝えてくれるのは素直に嬉しく思う。が、それだけではこちらとしては困ってしまう。



(とはいえ、俺にあんなもん送ってくる相手の心当たりなんてないしな)



 自慢ではないが、この俺、橋本・博司(はしもと・ひろし)は周囲に馴染んでいない、いわばはぐれ者だ。

 目つきが悪く、更に無愛想なおかげで昔から妙な因縁をつけられることが多く、

 しかも売られた喧嘩を全て買ってきた上に、その全てに勝ってきたからだろう。

 噂が噂を呼び、今では俺のことを「どこそこの組から声がかかっている」だの、

 「一晩で暴走族のチームを潰した」だのと、好き勝手に語る輩も出てくる始末だ。

 こちとら無遅刻無欠席だ、何か文句があるなら直接言って来い。

 ……と思わないこともないが、周囲と馴れ合うつもりはないし、

 馴染むために努力しようなんて気概もなく、俺はほとんど会話のない学校生活を過ごしていた。

 それは俺にとっては悪くない生き方だったが、しかし今回に限っては少しばかり都合が悪かった。

 俺には友人らしい友人がほとんどいない。つまり、ラブレターのことを相談する相手がいなかった。

 姉貴に相談しようかと一瞬頭をよぎったが、瞬時に却下する。

 「アンタに惚れるなんて変わった女子もいるものねえ」とでも言われて、大笑いされるのがオチだ。

 とはいえ実際のところ、俺みたいな唐変木に好意を持つなんて、確かに妙な趣味だとは思う。

 恐らくあのラブレターを送ってきた相手も、俺に負けず劣らずの変わり者なのだろう。



「よし、それじゃ今日はここまでにしましょう。号令をお願いします」



 気が付くと授業の終わりを告げるチャイムが響いていた。

 開いていたノートは真っ白だ。まるで授業が耳に入っていなかった。

 今の授業が午前の最後の授業だったので、クラスメイトたちは思い思いの行動を始める。

 俺もすぐに席を立ち、教室を出た。

 調子が狂っていることこの上ないが、そうは言っても昼休みだけは無駄に過ごすわけにはいかない。

 はぐれ者の俺にとって、昼休みは唯一の憩いのひとときだった。

 なぜなら昼休みは、俺がただ一人、友人と思える人物と一緒に過ごせる時間だから。





     *





 古びた扉を開くと、甲高い金属音と一緒に冷たい風が吹き込んでくる。

 相変わらず、屋上はがらんとしていて人気が全くなかった。

 俺の通う学校は、最近にしては珍しく屋上を封鎖していない。

 とくれば、開放感のある屋上はそれなりの人気スポットとなっていてもおかしくないが、

 この学校は中庭が非常に充実しており、校舎に囲まれているため風もほとんどなく、

 多様な種類の花々が植えられていて景観も良し、ベンチの設置数も十を超える。

 逆に屋上は、閉鎖こそされていないものの、完全にふきざらしで、

 夏はコンクリートに焼かれ、冬場は木枯らしに体を震わせるしかない。

 ベンチなど一つも置かれておらず、中庭に人気集中するのは当然のことだった。

 それなりの進学校のため、授業をサボって屋上で寝こけるような不良の類もここにはいない。

 結果として、屋上を訪れるのは俺や『彼女』のような変わり者だけになるのだった。



「どもっす。先輩」

「……ん」



 屋上の隅にある貯水塔にもたれて、彼女はやはりそこにいた。

 一見して地味な印象の三つ編み。大きな眼鏡は黒縁で、レンズの厚さは五ミリはありそうだ。

 体つきはひいき目に見ても豊満とは言いがたく、身長は百八十近い俺より二回りは小さい。

 既に昼食を始めており、両手に収まる程度のミニチュア弁当を、鳥がつつくようにちまちまと食べ進めている。

 彼女の名前は、佐藤・珠子(さとう・たまこ)。

 ここ屋上で知り合った二年生で、俺にとっては『屋上の先住民』という意味でも先輩にあたる人だ。



「隣、座りますよ」



 返事はない。

 しかし、この人はノーと言える日本人なので、何も言わないということはOKということだ。

 二人分ほどのスペースを開けて腰掛ける。

 貯水塔が陰になっているとはいえ、秋も深まりつつあるこの時期の風は冷たい。

 先輩を見ると、行儀良く折り畳んだ足にタオルケットがかけられていた。

 さすがは屋上の先住民、防寒対策はばっちりのようだ。



「食べないの?」



 唐突に先輩が言ってくる。



「え? あ、ええ、今日はその、弁当忘れちまったので」

「そう」



 じっ、と先輩はレンズ越しに俺の顔を覗き込んでくる。

 かと思うと、自分が口をつけていた弁当箱を無言で差し出してきた。



「はい」

「それ、先輩のじゃないですか。もらえませんよ」

「顔色が悪い。それに、なんだか目も腫れぼったい。昨日、夜更かしでもした?」

「……相変わらず、よくわかりますね」



 先輩は、俺と同じく周囲に馴染めないはぐれ者だ。

 その理由は、この若干ズレた行動パターンと、語り口にある、らしい。本人がそう言うのだから、そうなのだろう。

 そして、それを改善しようともしていない。そこが、全く似ていない俺と先輩の共通点だと思う。

 ただ、先輩は人と話すのが苦手らしいが、その代わり鋭い洞察力を持っている。

 俺が先輩と普通に接するようになったのも、先輩が俺に対して自然体で接してくれたからだ。



「少しは何かおなかに入れるべき。私はもうおなかいっぱいだから。あげる」

「そうですか。それじゃ遠慮なく……」



 弁当箱と箸を受け取る。箸を手に取ろうとして、一瞬躊躇した。

 先輩の使用済みを使うのは、さすがにエチケット的にどうかと思う。



「先輩。別の箸持ってませんか?」

「別の?」



 先輩は不思議そうに首をかしげる。

 その仕草がちょっとだけ可愛らしく感じた。



「橋本くん、両利き?」

「なんでですか?」

「お箸を四本使うってことは、それくらいしか考えられない。

 でも、同時に四本使うメリットは少ないと思う。口は一つしかないから」

「……ええ、はい。俺もすごくそう思います。ほんとに。でも四本使いたいわけじゃありませんから」



 地味なイメージと野暮ったい眼鏡のせいで普段は意識することがないが、

 冷静に見ると先輩はかなり整った顔立ちをしている。

 それでも先輩にまるで浮いた話がないのは、この掴みどころのない思考にあるのだろうことは容易に想像がついた。

 それ以前に、他人との交流自体が先輩には足りていないが。

 ガラス玉のような先輩の目がくるりと揺れ動く。



「もしかして、私の唾液が橋本くんの口に入ることに拒否感を覚えるの?」

「そういうわけじゃ……。先輩が気にしないなら、いただきますよ」

「嫌ならお弁当、あげないよ。橋本くん、相変わらず、ちょっと変」



 よく見ていなければわからない程度に、先輩は口元を僅かに綻ばせる。

 気遣った自分の方が変だと言われてしまって妙な気分になるが、

 その小さな表情の変化に気付けたことを嬉しく思ってしまい、つい反論のタイミングを逃してしまう。

 先輩も、俺に負けず劣らずの仏頂面だと知り合った当初は思っていたのだが、

 しばらく接している内に、そうではないことがわかるようになってきた。

 彼女は楽しいときには、それとわからない程度にだがちゃんと笑顔を見せるし、

 俺にからかわれると不満そうに唇を尖らせたりもするし、小雨が降り出したときなどは、

 憂鬱そうに空を見上げて溜息をついたりもする、『変わり者だが普通の少女』だった。

 以前それを先輩に言ってみたところ、「それじゃ、橋本くんは『変わり者の普通の少年だね』」と言われた。

 案外、そうなのかもしれない。



「ご馳走様でした」

「お粗末様でした」



 軽く頭を下げて、空になった弁当箱を返却する。

 正直言って物足りなかったが、空腹感はかなり薄らいでいた。

 これなら放課後くらいまではもちそうだ。



「おいしかった?」

「まずかったら食べませんよ。俺、空腹のときにまずいものしかなかったら、そのまま餓死を選ぶタイプなんで」

「そういえば、そうだったね」



 相槌を打ちながら、先輩は弁当箱を綺麗に包み、自分の横へそっと置いた。

 人心地ついた俺は、なんとなく空を見上げる。

 風は冷たいが、今日は雲一つなく、比較的過ごし易い日和だ。

 思わず瞼が落ちかけて、指で目元を押さえる。このまま眠ったら、予鈴では起きられそうもない。



「……ん?」



 ふと視線に気が付いて横を見ると、先輩が何か訴えるような目でじっと見つめていた。

 俺が自分の方を向いたことを確認してから、自分の膝に目を落として、手でぽんぽんと二回叩く。



「眠いなら、どうぞ」

「意味がわからないんですが」

「コンクリートに直接寝そべると痛いから」



 実にわかりやすく、合理的な答えが返ってきた。おかげで頭が痛くなってきそうだ。



「そうではなくて。まさか先輩の膝を枕にしろと?」

「大丈夫。予鈴が鳴ったらちゃんと起こしてあげるよ」

「いえ、結構です」



 きょとん、とした顔をする先輩。



「予鈴が鳴っても起こさなくていいの?」

「え? あ、あー。いや、結構ですって、そういう意味じゃありませんから」



 相変わらず察しは良いくせに、会話を始めると途端にダメになる人だ。



「魅力的な提案ですけど、遠慮しときますよ」

「眠らなくて大丈夫?」

「ん……眠いのはやまやまですけど、せっかく先輩といられるのに、

 寝ちゃうのはもったいありませんから。なんとかして起きてますよ」



 なんだか気恥ずかしくて、途中からは先輩の顔を見ていなかった。

 相手が先輩でなかったら、言うことすら出来なかったと思う。

 言葉で飾るということをせず、ただありのままを口にする先輩相手だからこそ、

 俺も自分の心中を素直に話そうという気になっているのだった。

 ラブレターのことを相談するなら、やっぱり先輩しかいない。



「先輩。少し相談したいことがあるんですけど」

「なに?」

「実は、昨日帰ろうと思ったら、下駄箱にラブレターが入ってたんですよ」



 先輩の瞼が僅かに伏せられた気がした。



「どうして私にそれを言うの? それは橋本くんが自分でどうするか決めるしかないことだよ」

「もちろんです。でも、そのラブレター、差出人の名前が書いてなくて。困ってるんです」



 頭に手をやり、軽く振って困っているアピールをする。

 実際、相手が誰なのかわからないとどうアクションを起こしていいか見当もつかない。



「名前がないなら、悪戯じゃないかな」

「それはありません」

「どうしてそう思うの?」

「俺の男としてのカンです」



 先輩の言葉が途切れた。瞼がもう一段階伏せられたのは、気のせいではないと思う。

 少し呆れられたのだろうことは容易に想像出来た。

 慌てて言葉を続ける。



「昨日、何度も読んでみましたけど。読んでみた限りでは、悪戯じゃないと思います。あのラブレターは本物です。

 信じられませんが、この俺に好意を持ってしまった酔狂な女の子は存在すると思われます」

「なるほど。でも、その言い方は良くないよ。橋本くんは、橋本くんが思っているよりはずっと魅力的な男の子だと思う」

「それはありません」



 さっきと同じ言葉を、今度はより強くはっきりと口にする。



「もし自分が女の子だったら、今の自分を好きになるなんて絶対ないと思います」

「それは、橋本くんが自分のことを好きじゃないからだよ。もっと自分のことを好きになってあげればいいのに」

「その言葉、そっくりそのまま先輩に返します」

「私は、好きになってもらえる要素ないから」

「俺だってそうですよ」

「それはありません」



 俺の真似をするように、先輩は真顔できっぱりと言い切った。

 そんなに当たり前のように言われしまうと、こちらも反論する気にならなくなってしまう。

 つい口をつぐんで視線をそらすと、先輩がまた頬を綻ばせたのか、空気が微かに緩んだ。



「ラブレターのことだけど。どうしたらいいかじゃなくて、どうしたいか、が問題だと思うよ」

「……その通りですね」



 膝を組み替えて座り直す。

 貯水塔は秋の涼しさにすっかり冷えて、制服越しにその冷たさを伝えてくる。

 秋風に乗って、どこかから談笑が耳に届いてきた。穏やかな時間が過ぎていく。

 不意に先輩が口を開いた。



「橋本くんはどうしたいの?」



 あのラブレターに関してだろう。

 先輩の唐突な語り口にももう慣れてきた。



「丁重にお断りしたいと思います」



 自然にそう答えが出ていて、自分でも驚いてしまった。



「相手が誰なのかもわからないのに、断るって決めてるんだね。恋愛、興味ない?」

「そういうわけじゃありませんけど」



 半分無意識に口にしていたので、追求されると困ってしまう。

 しかし、さっきの言葉が本心であることは間違いない。

 眠たい頭を抱えながら、適当な理由を探り始める。



「相手がわからないからこそ、OK出来ないんですよ」

「それじゃ、相手がきちんと申し出てきたら、OKしちゃうんだね」

「……いや、しません」



 言われてみて気付いた。

 ラブレターを出してきた相手が誰であろうと、俺は断るつもりでいたのだ。

 なぜだろう、と思ったのと、予鈴が鳴ったのはほぼ同時だった。

 先輩がゆっくりと立ち上がる。



「またね」



 俺の返事も待たず、先輩は背を向けて歩き出す。

 そのまま行ってしまうかと思ったが、ふと先輩は振り返った。



「思ったのだけど」

「はい」

「そのラブレターを送ってきたのが、男の子だって可能性も否定出来ないよね」



 ずるっ、と体ごと滑って、後頭部を貯水塔に強打した。目の前がちかちかする。



「大丈夫?」

「大丈夫……じゃ、ありません……」



 何を隠そう、俺もノーと言える日本人だ。

 大丈夫でないのに、相手のことを気遣って「大丈夫」と言えるほど人間は出来ていない。



「そんなおぞましい現実は、想像の外でした」

「そう。私も、そういう可能性もあるなと思って口にしただけ。それじゃ、また」



 今度こそ先輩は屋上から出て行った。本当に掴めない人だ。

 会話のテンポも行動パターンも独特で、知り合ってから半年以上経つ今でも翻弄されっぱなしな気がする。

 そして、それを楽しんでいる自分がいることに気付いて、思わず嘆息してから、先輩の後を追うように屋上を後にした。











     *











 何の進展もないまま、ラブレターを受け取ってから一週間が過ぎていた。

 しかし、俺の心はかなり軽くなっていた。

 それは、自分がラブレターの返事をどうするつもりかはっきり出来たのが大きい。

 やはり先輩に相談して良かったと思う。

 この間は先輩にお礼を言い忘れていたので、今日はきちんとお礼を言っておこう――

 そう思って屋上へ行くと、先輩の姿はまだなかった。

 普段はどんなに急いできても先輩の方が早いので、珍しいこともあるものだと思いつつ貯水塔の陰に腰を下ろす。

 購買で買ってきたパンの包みを開き、かじり始める。

 安い割にそれなりの味を提供してくれるこの学校の購買は、個人的には気に入っている。

 本当は学食を活用したいところではあるが、あんな混み合った場所に一人で行きたくはないし、

 第一、先輩と顔を合わせる時間がなくなってしまう。その時点で魅力半減だ。

 一度だけ先輩を学食に誘ってみたことがあるが、「私、お弁当組だから」の一言で一蹴されてしまった。

 言われてみればその通りで、自身の浅慮さ加減にその場から消えてなくなりたい衝動に駆られたのを覚えている。



「……先輩、遅いな」



 パンを食べ終わってしまい、手持ち無沙汰になったので携帯を開いてみると、もう昼休みは半分以上過ぎていた。

 ひょっとすると、今日はもう来ないのかもしれない。

 屋上の住人とはいっても、授業が長引いたとか、委員会の会議とかで、都合が悪くて来られない日くらいあるだろう。

 そう思うと、心地よかったはずの静寂が途端にもの悲しく感じられた。

 一人静かに過ごせる場所を探して辿り着いた場所は、

 今では同じ時間を共有したい人との出会いの場所となっていたことを、今更ながら実感する。

 先輩が来ないのなら帰ってしまおうか――

 そんな考えが頭を過ぎったが、屋上以外に静かに過ごせる場所の当てなんてない。

 それにもしかすると、もう少し待っていれば先輩が来るかもしれないし。

 ……俺にラブレターを送ってきてくれた人も、今の俺と同じような気持ちを、俺に対して持ってくれているのだろうか。

 そんなことを思いながら、ぷかぷかと浮かぶ雲を眺めて、

 それに飽きると、俺は耳を澄ませて、遠くの喧騒をBGM代わりにしたまま、静かに瞼を下ろした。





 まどろみの中で、鐘の音が聞こえてくる。

 予鈴だ。起きなければ。緩慢な意識の中で、誰かが囁いた。

 目を開く。



「おはよう。橋本くん」

「……おはようございます」



 目を開くと、先輩がいた。

 いつもと変わらない様子で、手に持っている弁当は半分ほど残している。

 いつの間に来たのだろう。目を軽くこすりながら、そんなことを思う。



「先輩……来てたなら起こしてくださいよ」

「起こしたよ? 予鈴鳴ったから」

「そうじゃなくて。もっと早く起こしてくれてよかったんですけど」

「気持ちよさそうに寝てたから、起こしたら悪いと思って」



 つまり、不器用なはずの先輩が珍しく気を遣ってくれたということか。

 その心配りはとても嬉しい。タイミングの悪さもさすがだ。少しだけ泣きたくなった。



「今度からは、来たらすぐ起こしてください。先輩との時間は、その、大切にしたいので」



 そっぽを向きながら、本心を語る。

 こんなことを言っても先輩は少しも動じないと思うが、こちらの問題だ。

 いくら本当のこととはいえ、このセリフを面と向かって言う勇気は俺にはない。



「……どうしようかな」



 思わず先輩の方を見てしまった。

 先輩が答えに窮したのは、もしかしたら初めてかもしれない。



「橋本くんの寝顔、かわいかったから。起こすのはもったいない気もする」

「か、かわいいって……すぐ起こしてくださいよ」

「私は、橋本くんの寝顔を見てて楽しかったよ」

「俺は全然楽しくないです」

「……写メール、する?」

「しません!」



 やはりこの人は相変わらずだった。

 呆れると同時に、なんとなく嬉しくもある。

 俺も相当末期だな、と自分で思い、溜息をついた。



「ところで橋本くん」

「なんですか」

「授業」

「あ」



 ――結局その日はそれ以上会話は出来ず、俺たち二人は教室への全力疾走を余儀なくされたのだった。











     *











 あのラブレターの送り主が誰であろうと断るつもりでいた。

 誰かに好意を伝えてもらうことで、自分自身と向かい合うことが出来た。

 どこの誰かは知らないが、ラブレターの送り主には感謝している。

 そしてその正体がもしもわかったら、断り方はもう決めていた。



「なんて言うの?」



 いつものように他愛ない話をしてから、俺は先輩にそのことを話していた。

 先輩は相変わらず興味なさげな風で、視線だけは向けた無表情のまま弁当箱をつついている。



「俺には他に好きな人がいます。だからごめんなさい。……って言うつもりです」



 一瞬、先輩の箸が止まった。



「そうなんだ」



 先輩はそれだけ言うと、再び食事を再開する。

 自分としてはそれなりの勇気を用いての発言だったので、

 その素っ気無さは淋しく思ったのみならず、ほんの僅かだけ気に障った。



「俺の好きな人、気になりませんか?」

「なるけど、聞かない方がいいと思う」

「どうしてですか?」

「私の女としてのカン」



 ……似たようなやり取りを以前にやったような気がする。

 が、今日は何を言われたとしても、ある程度までは踏み込んでみるつもりだった。



「俺の好きな人は先輩です……って言ったら、信じます?」



 冗談交じりに言ったはずなのに、やはり気恥ずかしさが勝り、俺は先輩から目をそらしていた。

 十秒、二十秒。痛いほどの沈黙が流れる。今の自分には拷問に等しい。

 こんなときに限って、今日は校舎内が比較的静かな気にさえなってくるのは、軽い被害妄想だろうか。



「冗談が下手だね、橋本くん」



 やっと言ってもらえた言葉は、なんとなくいつもと違う響きだった。

 先輩は食べかけの弁当箱を素早く片付けると、すっくと立ち上がり屋上を出て行こうとする。

 まだ予鈴も鳴っていないのに、一体どうしたのだろう。俺の発言に気を悪くしてしまったのか。



「先輩。あの、どうしたんですか? 俺、何か変なこと言いました?」

「橋本くん。冗談でも、さっきみたいなことは言わない方がいいと思うよ」

「ち、違います! さっきのは冗談なんかじゃないです!」



 真剣に言ってみても、先輩は振り向こうとすらしてくれない。

 遠ざかる背中を追い、小さな肩を思わず掴んでしまう。



「待ってください! 先輩、俺は真面目に言ってるんですよ」

「そう。だとしたら考え直した方がいい。私と違って、橋本くんはもっといい人、見つけられると思う」



 俺の手をそっと振り払って、先輩は屋上の扉に手をかけた。

 キィと小さく扉の擦れる音がする。華奢な体が開いた隙間に吸い込まれる。

 扉が閉まる直前、先輩は躊躇うように立ち止まり、言った。



「しばらく、会わない」



 決定的な拒絶。その一言は俺の心に強烈な衝撃を与えた。

 何か言おうとするが、言葉が出てこない。

 呼吸が上手く出来ていない気がする。リズムがおかしい。心臓が早鐘を打っている。

 急な体の変調に驚いている間に、気付くと屋上の扉は閉まっていた。

 冷たい秋の風は、僅かに残っていた先輩の残り香と体温を、あっという間にかき消してしまったように思えた。

 一体、どうしてこうなってしまったのだろう。

 自分自身にそう問いかけてみても答えが出るわけもなく、取り留めのない気持ちは苛立ちとなって、

 俺はふらふらとした足取りで貯水塔まで歩くと、思い切り右手を叩き付けた。

 ずきりとした右手の痛みよりも、胸の内に去来した空しさだけが、ただただ悲しかった。











     *











 しばらく会わない。

 あの佐藤・珠子先輩がそう言ったということは、つまり先輩は俺に会わない、そういうことだ。

 先輩は自分の気持ちを率直に口にする。

 言葉で飾ろうなどとはしないし、嘘をつけるほど柔軟な性格でもない。

 俺が先輩を好きになった最初のきっかけは、その不器用とも取れる素直さだから、よくわかる。

 今回だけはそうでなければいい。そう思っていたが、そうではないことにすぐ気付かされることになった。

 俺が先輩に告白めいた話をしてから、早三日。

 あれ以来、先輩は一度も屋上に姿を現していない。

 味気ない学食パンをかじる。水気のないパンは、まるで砂の塊を食べているような気になった。



「……はあ」



 こんなことになるなら、告白なんてしなければ良かった。

 先輩を好きだということに気付いて、それを伝えたいなんて思わなければ良かった。

 俺は先輩と恋人になれなくてもいい。ただ、これからもずっとにいたい。それだけだった。

 だがそんなことを思っても、もう遅い。

 最後に会った先輩の面影を思い出して、幾度目かわからない溜息を漏らす。

 それに思い当たったのは、ほんの思い付きだった。



「『私と違って』……って、言ったっけ。先輩」



 あの日別れる直前、先輩が言った言葉が不意にフラッシュバックした。

 『私と違って、橋本くんはもっといい人、見つけられると思う』と、先輩は口にした。

 先輩が言葉にしたということは、何の混じり気もない、百パーセント本心からの言葉のはず。

 その言葉をそっくりそのまま信じるとするならば。



「先輩は、どうなんだ……?」



 逆説的な解答。

 『私と違って』は、『私にとって』。

 『もっといい人が見つかる』は、『これ以上はない』。

 あの先輩の性格を考えれば、その考えが正しい可能性は――ある。

 その思考に辿り着いた瞬間、俺は屋上を飛び出していた。

 そもそも、来ないとわかっている先輩が来ると信じて、

 あんな寒々しい場所に根を張っていたこと自体が間違っていたのだ。

 会わないと口にした先輩は屋上へは来るはずがないし、そんな人を待ち続けるなんて、俺の性に合っていない。

 どうすればいいか、ではなくて、どうしたいかが大事。そう教えてくれたのは先輩だ。

 なぜ忘れていたのか、と自分自身を激しくなじりながら、階段を一気に駆け下りる。

 普段はまず通らない廊下を抜けて、目的の教室に辿り着いた。

 そういえば、実際に来るのは初めてだ。



「すみません。佐藤・珠子さんがいたら呼んでください」



 入り口近くで談笑にふけっていた上級生に声をかける。

 彼らは突然現れた俺を物珍しそうな目で見てから、視線を教室の奥へと移した。

 その視線を追った先に、先輩はいた。

 教室の隅で、一人ぼっちで小さな弁当箱をつついている。



「…………」



 ほんの一瞬、目が合った。

 しかし、先輩は俺の存在など意に介していないかのように、再び弁当箱へ目を落とす。

 足が自然と動いていた。見知らぬ教室に入ることへの抵抗感は半ば忘れていた。



「こんにちは、先輩。少し時間いいですか? 話したいことがあるので、屋上にでも」

「今、お昼ご飯中だから」

「弁当食べながらでいいですから、来てください。それとも、嫌ですか?」



 先輩は箸を口元にやったまま、動かなくなった。

 嫌なら嫌だと先輩ははっきり口にする、そういう性格の人だ。

 俺の申し出を遠回しに断ろうとしているのに口を開かない理由は、

 断ろうとしている理由が『俺に付き合うのが嫌だから』ではない、ということ。

 それさえ確認出来れば十分だ。



「先輩、失礼します」



 先輩の空いている方の手を掴んだ。

 少しひんやりとしていて、それでいてすべすべでぷにぷにだ。

 最後に女の子と手を繋いだのは何年前だったか。

 その柔らかさに、思わず感動してしまう。

 それも一瞬のことで、俺は腕に力を入れて、先輩を無理やり立たせた。

 弁当を落とさないようにしながら、先輩はじいっと批判的な視線を向けてくる。



「橋本くん、乱暴」

「すみません。でも今日だけは許してください。行きますよ」



 ぐいぐいと無理やり先輩を引っ張っていく。

 抵抗しようとしていた先輩だったが、力の差は歴然としていて、

 教室を出た頃にはもうすっかり抵抗は諦めて、俺についてきてくれていた。

 そのまま先ほど下りてきた階段を上り、先輩と一緒に屋上へと出る。

 今日もいい天気だ。弱々しい光と涼やかな風が体の隅々までしみ込んで来る。



「どうして教室まで来たの?」



 背中から聞こえる声に、俺はいつもと変わらない調子で返す。



「言ったじゃないですか。話があるって」

「橋本くんがこんな自分勝手な人だなんて知らなかった」

「先輩の前じゃ、こういう部分は見せる機会が今までなかったので。幻滅しましたか?」

「……そんなことはないけど」



 先輩にしては、珍しく歯切れの悪い返事だった。

 少し意地悪な言い方をしてしまったかもしれない、とちょっとだけ反省する。

 先輩をいじめたくてここまで連れてきたわけじゃない。

 昼休みも残り半分くらいだろうし、早々に本題に入らせてもらおう。



「先輩。この前俺に言いましたよね。先輩と違って、俺はもっといい子を見つけられるって」

「うん」

「それじゃ、先輩にとって俺はどうなんですか?」



 先輩は、何も答えない。

 レンズの向こう側で何度か目をぱちぱちさせる。

 どう答えようか迷っている、そんな心中がありありと見て取れた。



「俺の自惚れでなければ。先輩は俺のこと……」

「やめて」



 今度は強い言葉が来た。思わず言葉を途中で区切ってしまう。



「それ以上は言わないで」

「それは、俺の思っている通りってことでいいんですね?」



 何も言わず、先輩は俺の横を通り過ぎて、貯水塔の方へ歩いていく。

 俺に背中を向けたまま、不意に俯いた。二つのお下げがだらりと垂れる。



「私は色んなことに無関心でいることが多いけど、

 嫌いな人とずっと同じ時間を過ごしていられるほどじゃないよ」



 不器用な先輩の、遠回しな肯定だった。



「でも、だめ。橋本くんは私みたいな変な子じゃなくて、もっと喋るのが上手くて、明るくて、笑顔が素敵で、

 気立てが良くて、友達もたくさんいる。そういう可愛い子を見つけるべきだよ」

「それは俺が決めることです」



 一歩足を踏み出す。



「確かに、先輩は口下手だし、地味な上に根暗で、表情にも乏しいし、

 人を気遣う気持ちが足りてなくて、せっかくの洞察力も宝の持ち腐れにしてる人です」

「……はっきり言うね」

「でも、俺はそんな先輩を、好きになったんですよ」



 先輩が後ろを向いていてくれたおかげか、それとも心からの言葉だったからか、

 俺は先輩から視線を外さずに、そう言い切ることが出来た。



「そんなこと言っちゃだめだよ」



 それでも、まだ先輩ははっきりと拒絶する。

 強情もここまで来ると立派だ。



「なんでですか! 俺が、先輩が良いって言ってるんですよ!」

「それでも。そんなこと言わないで。私の考えは、さっき言った通りだから」



 そんな言葉で納得出来るわけがない

 断られるにしても、もう少しくらいまともな理由がほしかった。

 先輩の背につかつかと歩み寄って、肩に手をかけようと腕を伸ばす。

 触れる直前、ぎりぎりで俺は気づいた。

 先輩の小さな肩は、僅かに震えていた。



「せん、ぱい……?」



 手を引っ込めて、そっと呼びかける。

 震えている肩が静かに上下した。ふう、と僅かに呼吸を整えるのが聞こえる。



「あんまり私に優しい言葉をかけたりしたら、だめだよ。橋本くん」



 穏やかに注ぐ陽の光が、先輩の膝に落ちる滴を綺麗に照らし出した。

 その輝きは、なにか切ない感情を掻き立てるものがあった。

 先輩の声はしっかりとしていて、普段通りの響きだった。

 それが逆に、俺の胸を強く締め付ける。



「そんなに優しくされたら……好きって気持ち、抑え切れなくなっちゃうでしょ」



 今度は躊躇わずに先輩の肩に手をかけた。力任せに自分の方を向かせる。

 先輩は、普段と変わらないクールフェイスだった。

 唯一違うのは、その頬を大粒の涙が伝っていること。



「離して」

「嫌です」



 体をよじって逃げようとする先輩を、両手でしっかりと掴む。

 先輩は俺と目を合わせない。あくまで平静を装っている。

 それは既に虚勢でしかないのに、頑固な人だ。



「やめて……今ならまだ、私は橋本くんと距離を保てるから」

「そんなことしなくていいです。俺はもっと先輩と一緒にいたいし、先輩のことを知りたいんです」

「距離が近くなればなるほど、今まで見えてなかった部分は確かに見えてくるよ。

 橋本くんも、今はそうじゃなくても、私の中の汚い部分に気付いたら、きっと私のことが嫌いになる。

 一緒にいたいなんて思わなくなる。友達のままでいいんだよ。

 私はあなたを望まない。私があなたを望んだら、私はきっとあなたを独占したくなる」



 声のトーンが一段階落ちる。

 先輩の声が、ほんの微かに、震えた。



「最初は、一緒にいるだけで良かったのに。隣にいてくれるだけで、嬉しかった。

 でも、ずっと見つめているうちに、私の中にあたたかい感情が生まれていることに気付いた」



 それを聞いたとき、自分の中でバラバラだったパズルのピースが、ぴったり合わさった気がした。

 そのフレーズは、つい最近目にした覚えがある。



「もしかして、あのラブレターは……」

「本当に、橋本くんは察しがいいね」



 少しだけ先輩の口元が綻んだ。

 ただそれだけで、詰まっていた息が戻り、緊張が幾分ほぐれる。

 自分がこんなに単純な人間だったことに素直に驚かされた。



「私、橋本くんと恋人になんてなれなくて良かった。

 だけど、この気持ちを伝えたいとは思ったの。でもそのまま伝えたら、この関係が終わっちゃう気がして。

 受け入れてもらえるなんて考えられなかった。だから必死に考えた。

 それで、名前のないラブレターを出すことを思いついたの」



 自分が出したことには気付かなくていい。

 どんな形であれ、自分の思いを相手が知ってくれさえすれば満足。

 そんな『自分勝手さ』。それがあの名前のないラブレターの正体。

 先輩の誤算はただ一つ。ラブレターのおかげで、俺が先輩に対する好意に気付いてしまったこと。



「だから、私は橋本くんの告白は受け入れられないよ。橋本くんは、私にはもったいないから」



 あっさりとした言葉。それは確かに先輩の本心なのだろう。

 一年足らずの付き合いだが、先輩と過ごした時間の全てが、その言葉を嘘ではないと言っている。

 そして、先輩が自分で言った言葉を翻さないであろうことも。

 だから俺は、すっかり諦めることにした。



「わかりました……受け入れてくれなくていいです」

「ありがとう。ごめんね」

「いいんですよ。先輩」



 言ってから、先輩の足を自分の足で払った。

 バランスを崩した先輩の頭を庇いながら、素早くコンクリートの上に横たわらせ、自分の体で押さえ込む。



「受け入れてくれないなら。もういいです――俺が先輩を、無理やり奪います」



 何が起こったかわからないといった顔で、先輩は目をしぱしぱさせていた。



「え。……え? ま、待って、橋本くん、落ち着いて」

「俺は落ち着いてます。冷静に、合理的に考えて、こうするのが一番だと判断したまでです」

「だ、だめ。だめだってば。私なんかにこんなことしたらいけないよ」



 先輩はだめ、だめと何度も言ってくる。冷静さを欠いているのは先輩の方だ。

 こんなに慌てている先輩は初めて見る。それだけで心が沸き立つのがわかる。

 先輩の言う通り、俺は落ち着いていないのかもしれない。頭の裏側で冷静な自分がそんなことを思う。

 しかし、もう自分の行動を止めることなど出来そうになかった。



「先輩が嫌ならやめてあげます。嫌なら嫌って言ってください」

「そ、それ、は……」



 先輩の言葉を、動きを止めて待つ。

 動悸が激しい。息も詰まっているし、微かに吐き気も感じる。緊張のためだろう。

 それなのに、頭の中だけは異様に冷静で、慌てている先輩は可愛いなとか、

 潤んだ瞳が綺麗だとか、鎖骨の形が色っぽいなとか、そんなことを思う。



「嫌……じゃ、ない、よ」



 ぷいっとそっぽを向いた先輩の頬は、りんごみたいに赤くなっていた。

 胸に去来した衝撃のほどは、把握し切れないほどだった。

 なんだか急に恥ずかしくなってきて、俺も思わず顔を背けてしまう。



「先輩、その……。俺の唾液が先輩の口に入ることに拒否感を覚えますか?」

「私は別に。橋本くんが気にしないなら」

「気にするなら、こんなこと言いませんよ。本当に変な人ですね、先輩は」

「私なんかを選んじゃう橋本くんには負けるよ」



 どちらともなく、俺たちは笑い合う。

 全然似ていないのに、妙なところだけ似てしまっている二人だ。

 あの名前のないラブレターを読んだとき、俺と同じで変わり者なのだろうと思ったことを思い出す。

 それはその通りだった。答えは目の前にあったのに、俺が気付けなかっただけだった。



「先輩。俺たちって、バカですね」

「今の発言で、橋本くんには鈍感も追加だね」

「手厳しいですね」



 不意に会話が途切れる。

 視線だけがぶつかった。心臓が口から飛び出してきそうだ。エアハートをごくりと飲み込む。

 レンズの向こうで、先輩がそっと目を閉じた。目の端に光る滴が綺麗だった。それを指ですくい取る。

 俺も目を閉じて、ゆっくりと先輩との距離を縮める。

 触れた瞬間、どこか遠いところで、予鈴が鳴り響くのを聞いた。



 ――皆勤賞は、諦めよう。