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「前、向いてこっ」



 自分の足音にもう一つの足音が重なる感覚には、まだ慣れない。

 ぴったりと寄り添ってくる。

 俺が立ち止まると、同じように立ち止まる。

 一度全力で走ってみたこともあるが、全く問題なく後ろを追従されたときは参った。

 あの時は、もっと体力をつけようかなと真剣に考えてしまった。



「……」



 溜息は、夏の空に溶けて消える。

 振り返ると、電柱の陰に身を潜ませた影が俺をじっと見つめていた。

 視線に物理的な力があったら、俺はとうにこの世にいないだろう。

 あまり気にしないようにしながら、学び舎へと足を向ける。

 背後の気配を頭の隅に追いやるため、俺はいかにして午前中の授業を寝て過ごすか考え始めた。





     *





「ストーカー?」



 鈴の鳴るような声。

 大きくくりっとした目が、俺を上目遣いに見つめてくる。

 トレードマークのポニーテールが微かに揺れた。

 クラスメイトの宮口・晴香。

 俺が友人と呼べる数少ない一人だ。



「ああ、それでちょっと困ってるんだ……」



 仰々しく溜息をついてみせる。



「実際に何をされたの?」と、宮口。

「通学中ずっと後をつけてくる。帰るときも、駅まで付いてくる」

「あとは?」

「……いや、それだけかな」



 宮口は卵焼きをくわえたまま首をかしげた。



「それって、ストーカーなの?」

「……」



 言われてみればそうだ。

 俺は別に何か危害を加えられたわけじゃない。

 病的な文章が書かれた手紙が送られてきたりはしないし、無言電話の類もない。



「まあ、そのせいか伊吹とは顔を合わせることが多くなったかな」

「あ、ストーカーって伊吹ちゃんなんだ」



 しまった、と思う。

 つい口が滑ってしまったが、名前を出すつもりはなかった。

 出来ることなら、自分だけで穏便に事態を究明し、解決するつもりだった。

 ただ、付きまとってくる=ストーカー=恋愛感情がある? と考えると、

 誰か――出来れば女の子――の相談相手が欲しかった、と思ったのは否めない。

 と、宮口はどこか悪戯っぽい笑みを浮かべた。



「これは女の勘なんだけどね」

「おう」

「伊吹ちゃんは、きっと賀川くんと仲良くなりたいんだよ」



 座っていたベンチからずり落ちそうになった。



「……言ってなかったけどな。あいつ、俺が振り返ると咄嗟に隠れるんだぞ?」

「伊吹ちゃんは恥ずかしがりだから」



 その笑顔を見て、何を言っても無駄だと悟る。

 しかし、その言い方には何か引っかかるところがあった。

 それが何なのかと思案を巡らせたと同時、



「あだっ!」



 後頭部に衝撃。

 遠くで何かが弾んで転がっていくのが見えた。

 ――軟式のテニスボール。

 後方で「っしゃあ命中!」という声が上がった。

 振り返るまでもなく、誰なのかわかってしまった。

 ただでさえ、俺は友人が少ないのだ。



「有紀……悪ふざけも大概にしとけよ」

「何の話だよ。俺はいつだって大真面目だっつーの」



 長い前髪を掻きあげながら歩いてくる小柄な少年。

 整った顔立ちはどちらかというと少女のよう。

 だが、その性根は気持ちいいくらい腐っていて、腹黒さで右に出る者はいない。

 天使の顔をした悪魔、それが俺の友人、柚木・有紀だった。



「やっほーゆっきー。ゆっきーも今からお昼?」

「うんっ、そうなんだー。良ければ一緒していいかな?」



 宮口の返答も待たず、有紀は俺のすぐ真横に座った。

 菓子パンの包みを開きながら、ふと身を寄り添わせてくる。

 うなじに吐息のかかる距離。

 宮口は頬を赤らめてきゃっきゃと笑っている。

 何がそんなに楽しいのか、俺には全くわからない。



「なあ、光太郎……」

「な、なんだよ……」



 耳元で囁かれた言葉に、俺は思わず心臓を高鳴らせた。



「テメエなーに晴香と二人きりで素敵なランチタイムと洒落込んでんだよ。

まあ言い訳は聞いてやるからとりあえず死ねや。炎天下で天日干しにして

完全に水分が抜けてミイラ化したらすり鉢で粉末状にして最終的に魚の餌として川に放流してやる」



 死んだら言い訳できません先生。



「相変わらず沸点低いな。つーか落ち着け。宮口にはちょっと相談に乗ってもらってただけだ」

「相談?」



 天使の仮面を被り直した有紀は、目をぱちぱちさせて宮口に視線を向ける。

 この変わり身の早さだけは俺も素直に尊敬してしまう。

 しかも、天使バージョンの有紀ってその辺りの女子より余程レベル高……はっ、いかんいかん。



「えっとね、伊吹ちゃんが賀川くんと仲良くなりたくて、最近話しかける機会を窺ってるらしいの」



 宮口フィルターのせいで話のほのぼの度が十倍増しくらいにはなったと思う。



「伊吹って、クラスのあの髪の長い子? 無口で変わった子だなって思ってたけど、光太郎みたいのがいいなんて変わってるねー」



 こいつの柔らかそうな頬を思い切りぶん殴ってみたい衝動に駆られたが我慢した。

 どんなに可愛い顔をしようとも、やはりこいつは悪魔に他ならない。

 それが逆に「刺激的で素敵!」って思う人が多いらしく、有紀は女子に人気がある。

 ちなみに俺は近寄り難いと大絶賛され、女子どころか友人も満足に作れない始末。

 間違ってるだろこの世界。



「変わってなんかないよ。賀川くん優しいもん。だから伊吹ちゃんも友達になりたいんだよ」

「優しくなんて……ねえよ」

「そうそう光太郎が優しいなんて、そんなことないってー。夕立来ちゃうよ晴香ちゃん」



 他人に言われるとこんなにむかつくのはどうしてなんだろうか、とつい真面目に考えてしまう。



「とは言っても、友達はなろうと思ってなるもんじゃないだろ。気付いたらなってるもんだ」

「それは一理あるかも」

「それに、まだ伊吹がどうして俺に付きまとうのかはわからん」

「心当たりないの?」

「ないな」

「本当に?」



 実を言えば、全く無いわけではなかった。

 だからこそ俺は唯一の女友達である宮口に相談を持ちかけたのだろう。



「まあ、それはいいや」



 言いよどんでいると、宮口は軽い調子でそう言った。

 俺が言いたくなさそうにしていたのがわかったのだろう。

 お前の方こそ優しいじゃないか、と声には出さずに思った。



「とりあえず、賀川くんは一度伊吹ちゃんと話をしてみるべきだと思うな」



 クスっと可愛らしく笑んで、広げていた弁当を片付け始めた。

 いつの間にか食べ終わっていたらしい。

 宮口は、去り際にちょんと俺の鼻の頭をつついて、それじゃまた、と校舎の中に消えた。

 人懐こい奴だ。

 しかもその仕草に、およそ媚びに当たるものは見られない。

 まるでこの夏の太陽のようにカラッと清清しい光を放っている、それが俺の友人、宮口・晴香だった。



「……オイ、光太郎」



 その宮口とは対極にいるであろう有紀が目を血走らせていた。

 不幸なことに、俺と有紀はそれなりに長い付き合いだ。

 目を合わせただけで、互いに何を考えているのかある程度はわかる。

 有紀の目は、「コロス」と言っていた。



「晴香に直接触れたな? 今からお前には地獄に落ちた方がまだマシだと思えるような……って逃げんなァー!」



 午後の授業が始まる直前まで、俺は決死の鬼ごっこを続ける羽目になった。





     *





 今の俺の心境をわかりやすく表現すると、50Gと棒切れを一本渡されて「世界を救って来い」と言い渡された勇者だった。

 しかも、世界を脅かす魔王は、ご苦労なことに城の入り口で俺を待っていてくれるのだ。

 クソゲーにもほどがある。



「……」



 長い髪の毛の隙間から覗く目に見つめられた瞬間、俺の意識は別世界へトリップしていた。

 が、それも一瞬のことだったらしく、俺の耳には学校から解き放たれたクラスメイトの喧騒が戻ってくる。

 目の前の女子――伊吹は、ホームルームが終わっても全くその場を動こうとしなかった。

 恐らく、俺が教室を出ていってからそれとなく後をつけてくるつもりだったのだろう。

 今日は打開策を見出すためにあえて先制攻撃をかましたわけだが



(話をしてみるとはいっても、何を話すべきなんだ?)



 「いい天気だな」? いや、意味無いなこれは。

 「その髪鬱陶しそうだが切らないのか」? 喧嘩を売ってるのか俺は。

 「ストーカー行為はやめろ」? もしそんな意図が無かったら恥ずかしくて死ねる。



「……少し話がある」



 それだけで伊吹も俺の言いたいことがある程度わかったのだろう。

 軽く頷くと、席を立って荷物を背負った。

 教室を出る間際、宮口が笑いながらグッとサムズアップしたのが見えた。











「どうして俺の後ろを付け回すんだ?」



 切り出したのは、校門を出てから五分ほど、駅へと続く河川敷の上だった。

 もうすっかり日は長く、もう四時は過ぎているのに空は僅かに夕方の兆しを見せているだけ。

 伊吹は無言のまま、ぼうっと虚空を見つめていた。

 足取りも確かとは言えず、まるで幽霊のようだ。



「俺の勘違いなら謝る。でも、お前のここ一月ほどの行動は、明らかにそうとしか思えない」



 臨機応変、という言葉がある。

 状況に応じた対応をするというのが大まかな意味だが、ぶっちゃけて言うと行き当たりばったりに近しい。

 俺が今やっているのは、つまりそれだった。

 何がいるかわからない草叢を棒切れでつつくかのような行為。

 鬼が出るか蛇が出るか。



「どうなんだ、伊吹」



 ざあ、と夏の風が俺達の間をすり抜けていく。

 いつの間にか、歩みは止まっていた。

 伊吹の視線が上がる。

 その澄んだ目は、心の奥底まで見透かされるような感覚がした。



「あなたは……」



 予想していたよりも、伊吹の声音はずっと落ち着いていた。

 俺は呼吸をするのも忘れて身構えていた。

 その口からどんな言葉が飛び出そうと、正面から受け止めるだけの準備は整っていた。

 静かに、一言一句を聞き漏らすまいと耳を傾ける。

 伊吹の唇が微かに開き――



「あなたは神を信じますか」



 予想の斜め上だった。



「……なんだって?」

「ですから、あなたは神を信じますか、と聞いています」

「……えっと」



 こいつは一体何を言ってるのだろう。

 第一、元は俺の方がこいつに質問していたはずなのに、どうして質問を返されているのか。

 ひとしきり考えてはみたが、予想外の状況に混乱した頭がついてこない。



「その神っていうのは、どの宗教だ?」



 って、違う! 俺が言いたいのはそんなことじゃ……



「広義的な意味で捉えていただいて構いません」



 落ち着きの上に、はっきりと意志が乗っていた。

 じっと俺の返答を待ちわびている。

 久しくゲームをやっていなかったものだから、すっかり忘れていた。

 魔王から逃げることは出来ないのだ。



「信じてはいない、が……もし仮にいるとすれば、そいつロクな奴じゃないだろうな」

「後半は私と同意見ですね」

「それじゃ、お前は神はいると信じてるのか?」



 伊吹ははっきりと首を横に振る。



「信じているわけではありませんが、いてくれないと困ってしまいます」

「……その心は?」

「実在してくれないと、殴れないじゃないですか」

「運命なんてややこしいもん作るなって?」

「そもそも人間を作り出したこと自体愚かではないですかね」

「神なりの遊びなのかもしれんぞ。何の障害も無いRPGなんてつまらんだろ?」

「RPGというより、むしろこの宇宙を舞台にした箱庭ゲームかもしれません。ほら、シ○シティみたいな」

「ってことは、地球は上手く発展した都市部か?」

「かもわかりませんね」



 真剣な表情で顔を見合わせ、――直後、二人して弾けるように笑い合った。



「お前、変わった奴だなとは思ってたが」

「私も、全く同じことを思ってましたが」



 神が本当にいるのなら、俺は生まれて初めて、神の小粋さに笑んだ。



「「思った通り」」



 それ以上言葉はいらない気がしていた。

 言葉というのは、これ以上無いコミュニケーションツールだ。

 人は互いにわかりあうためにこれを駆使する。

 が、言葉を使わずとも互いに理解し合えたら、それはどんなに素敵なことだろうか。

 無言の会話は、伊吹も俺と全く同じことを考えているであろうことを容易に想像させてくれた。



「話し相手が欲しかったんです」



 伊吹がそう言ったのは、駅へ到着し、ちょうど到着したばかりの電車に俺が乗ろうとしたときだった。

 一瞬なんのことかと考えて、すぐに保留されていた質問に対するものだと気付く。



「お前、根暗そうだもんな」

「入学当初は、自分から友達を作ろうと努力もしたんですが」

「どうせ『生きるということについてお話しませんか?』とか言って盛大に引かせたんだろ」

「……」

「ちょっと待て、図星? 図星なのか?」

「わ、心を読まれた。もうお嫁にいけない。責任取ってください」

「……明日の昼にジュースでも奢ってやるから」

「レモンティーでお願いします。ペットボトルじゃなくて紙パックの方で」



 思った以上に厚かましい女だった。

 駅のアナウンスが鳴る。

 そろそろ電車が出る頃だ。

 戸が閉まる前に振り返り、俺は一つだけ気になったことを言おうとする。



「おい、ところでさっきお前が言った『友達を作ろうと努力した』って話だが」

「無駄でしたね。友人とは作るものではなくて、気付いたら既になっているものですから」



 ……プシュー、と音を立てて戸が閉まる。

 セリフの続きは、続けなかった。

 なにせ、その続きは他の口に引き継がれてしまったから。

 窓の向こう、顔の前にだらりと下がった髪をほんの少しだけ掻き分けて、伊吹はぎこちなく手を肩くらいまで上げた。



「……じゃ、また明日」



 そう言ってはにかんだ顔は、不覚にも――ほんのちょっとだけ――かわいいな、とか思ってしまった。





     *





「オウオウ光太郎さんよう。昨日はなんだかお楽しみだったみたいじゃありませんか?」



 翌日、教室に来た俺をまず迎えたのはいやらしい笑みを浮かべた有紀だった。

 オウオウってお前はオットセイか、とツッコミたくなるのを堪え、ひとまず自分の席に荷物を下ろす。

 既に宮口も来ていたようで、俺の姿を見つけると小動物のようにトコトコと寄って来た。



「や、おはよー」

「はよ」

「むっふふぅ。昨日は上手くやってくれちゃいましたようで」



 宮口までおかしな日本語を使い始めた。

 俺には全く話が見えてこない。



「お前ら、さっきから何の話だよ」



 まさか昨日の伊吹との会話を盗み聞きされていたのか。

 ……それはない。

 盗聴器の類を疑うなら話は別だが、そこまではしないだろう。

 後を付けてきていたとしても、あの見晴らしのいい河川敷で姿を見落とすとは考えにくい。

 それでは何故、と思った俺の疑念は、次の瞬間晴れた。



「昨日の夜伊吹ちゃんにメールしてみたら、『楽しく話せた』って返ってきてね」



 情報は張本人からリークされていた。



「伊吹のメルアド知ってたのか」

「うん。だって友達だし」



 宮口は何の臆面もなく言ってのけた。

 そこには打算も虚偽も感じられない。

 だからこそ、俺は宮口を友人だと信じられる。



「これで賀川くんも伊吹ちゃんと友達だよね」



 それは違う、と口をついて出そうになった。

 が、宮口の曇りの無い笑顔を見たら、言い出せなかった。

 思わず嘆息してから、俺の視線はふと右斜めを向く。

 喧騒に巻かれた空の席、そこは伊吹の席だった。

 賑わう教室で、そこだけ影を落としたようにいつも静かだ。

 ホームルームまであと五分ほどしかないが、伊吹の姿は無い。

 奴は、極端に早い時間か、遅刻ギリギリの時間にしか登校してこない。

 前者の場合は教室でゆっくりと睡眠か読書をし、後者の場合は授業中に居眠りをこくのだ、と昨日本人に聞いた。

 おかしな気分になる。

 それはまるで、俺と同じ行動パターンだったからだ。

 ほどなくして、教室に担任が入ってくる。

 それに追従して伊吹は登校してきた。

 その姿はやはり幽霊のようだった。











 目を覚ますと、伊吹が俺を見下ろしていた。

 死ぬほどびっくりしたが、努めて平静を装う。

 取り乱すのはかっこ悪い。



「……おそようございます」



 謎の挨拶きた。



「おう……」



 体を起こす。

 既に教師の姿は無く、クラスメイトの姿もまばら。

 どうやらいつの間にか昼休みに突入していたらしい。

 宮口は教室の真ん中で他の女子達に混じって談笑していた。

 あいつは俺と違って友人が多いらしいから、今日は付き合わせるのはやめておこう。

 有紀はというと、恐らく授業が終わると同時に購買部に飛んで行ったに違いない。

 一声くらいかけていってくれてもいいのに、とつい思ってしまう俺もまた購買派だった。

 今日は売れ残り必至か……



「それじゃ、行きましょう」

「おう……て、待て。どうしてお前と一緒に行かなきゃならん」

「購買に行くんじゃないんですか?」

「購買には行くが」

「レモンティー奢ってくれるんでしょう?」



 そういえば、自動販売機は購買部の隣だったか。



「はあ……お前も現金な奴だな」

「それが何かいけないんですか」



 ふてぶてしい奴だ。

 そういう奴は、はっきり言って嫌いじゃない。



「暗い奴だと思ってたけど、話してみると案外素直なんだな」

「それは皮肉ですかね」

「別にそういうんじゃない。素直な奴は好きだ」



 瞬間、伊吹が言葉に詰まったのを俺は見逃さなかった。

 どうもこいつはストレートな物言いには慣れていないらしいな。



「私も……」

「とっとと行こうぜ。落ち着いて食う時間がなくなる」

「あ……そうですね」



 その場をさっと切り上げて、教室を出る。

 危ないところだったなと素直に思った。

 直接感情をぶつけられるのは、俺も苦手とするところだったからだ。

 狼狽する姿を見られるのは気恥ずかしいものだ。

 そんなことを考えていた俺は、女の子と肩を並べて教室を出て行くという愚行をしたことに気付かなかった。



「ん、メール……?」



『From.宮口 件名.non title 12:43

 がんばってねー。』



 早退したくなった。











「ねえねえ賀川くん」



 今日の授業も終わり、さてとっとと帰るかと思っていたところに宮口が寄って来た。

 相手が宮口だったからか、その時の俺は無防備に過ぎたと思う。



「おう、何か用か」

「明日の土曜って空いてない? 良ければちょっと付き合って欲しいんだけどー」



 ぶっちゃけ暇だった。

 俺の休日風景と言えば、コンポで微妙に流行でないロックを垂れ流しながら本を読むといった超絶インドアだった。



「空いてないことない」

「そっかー。それじゃ明日プール行かない? 市民プール」



 ギラリ! と聞き耳を立てていた有紀の目が光ったのがよくわかった。



「……まあ、別にいいけど」



 許せよ有紀。

 宮口の水着姿は、正直なところ俺も興味がある、男だからな。

 しかし、どうして突然宮口は俺を誘ってきたのか。

 宮口は向日葵のような笑顔になって



「伊吹ちゃん。賀川くん一緒にプール行ってくれるって!」

「グッジョブだハルカ。持つべきものは友達だな」



 戦果報告を始めた。

 図られた。



「待て待て待てちょっと待て。もしやと思うが俺と伊吹の二人で行くとか言うんじゃないだろうな」

「いえーす、ざっつらーいと」



 ふざけたことを抜かす伊吹の髪を無言で引っ張った。

 ふわりと甘い香りが鼻腔をくすぐり、俺はわけもなく恥ずかしくなってすぐに髪から手を離す。

 これが女の子の香りなのかなと感じた自分を殺したくなった。



「前言を翻すようで悪いが、伊吹と二人きりなら俺は行かんぞ。

クーラーの効かない部屋で哲学書片手に己の生き方を見つめ直す方がまだましだ」

「うわ、根暗発言きたよこれ」



 伊吹にだけは絶対に言われたくない。



「そう言わないで行こうよー。それなら私も行くから、ね?」



 宮口からの申し出は、正直嬉しいものではあった。

 だが、女の子二人とプールなんて気恥ずかしいというレベルを遥かに逸脱している。

 折角の話だが断ろうかと思っていた矢先、背中から声がかかった。



「あ、それじゃ良ければ俺もついていっていいかな?」



 有紀だった。

 いつでも俺を殺せるように、背後に忍び寄っていたらしい。

 調子よく今の話を了承していたら、俺の命はなかった。



「もちろんだよ。ね、伊吹ちゃん」

「かもーんべいべー」



 無表情の伊吹は何を考えているのかさっぱりわからない。

 が、有紀はそんなことを気にしている風ではなかった。



「よっしゃああどさくさに紛れてダブルデートに持ち込んでやったぜちくしょー」

「余計なことを……俺は断るつもりだったのに」

「いいか、よく聞けよ光太郎」

「なんだよ」

「人の迷惑より俺の幸せ。お前の幸せより俺の幸せ」

「……よくわかった」

「俺は晴香ちゅわんとちゅっちゅしたいだけなの。ぶっちゃけお前のことなんぞどーでもいいわ」



 清清しいくらい黒かった。



「好きにしろよ」



 こんな奴を友人だと思ってるんだから、俺も相当な変人なんだろうな。

 自分のことを客観視してみて、思わず苦笑いし、直後憂鬱な気分になった。

 明日はどうなることやら……楽しみよりも不安の方がずっと大きかった。





     *





 待ち合わせ場所は、学校に一番近い駅と決まった。

 時間より十五分早く来たのだが、既に宮口はホームの柱の影に佇むように立っていた。



「おはよう」

「おはよーん。早いねー賀川くん」

「お前ほどじゃない」



 宮口はカッターシャツにミニジーンズ、背中にリュックサックというラフな格好だった。

 少し意外な感じがしたが、思いの外よく似合っている。

 俺の視線に気付いたのか、宮口は白い歯を見せた。



「普段はスカートとか全然はかないんだー。ヒラヒラした服って、なーんか気になっちゃうんだよね」

「へぇ、宮口は女の子っぽい服好きだと思ってたけどな」

「まさかまさか! 多分賀川くんが思ってるほど私女の子っぽくないよー」



 おかしそうに笑う宮口は、しかし魅力的な女の子だと思う。

 一般的にも、そして個人的にもだ。



「そんなことはないだろ。十分女の子っぽいって」

「ふーん。それじゃ」



 なにやら宮口の目の奥に妙な色が見えた気がした。



「私のこと彼女に出来る?」

「いや、それは無理だな」



 即答だった。

 宮口はぽかんとした顔から一転、再び笑顔になる。



「ちょっと賀川くん。いくらなんでも早すぎ! 失礼だなー」

「ああ、ごめんな。別にお前がダメってわけじゃない。ただ、お前のことは友達だなって思うだけだ」

「えーと、それは、ありがと、う?」



 なんとなく二人とも無言になる。

 まだ待ち合わせ時間には十分ほどあった。

 不意に宮口が俺の顔を覗き込んでくる。



「ちょっと聞いてみたいことがあるんだけどさ」

「なんだ?」

「賀川くんが彼女にしてもいい女の子の条件って、何かある?」

「……んー」



 簡単なようでいて難しい質問だと思った。

 俺はホームを流れていく人波や、フェンスの向こう側の空と雲を眺めながら思考を巡らせる。

 ひとしきり考えてから、宮口の目をしっかり見て、口を開いた。



「そうだな、強いて言えば――」





     *





 全員集まってからプールを目指す電車内で驚いたことといえば、二つある。

 一つは、伊吹が真っ白なワンピースに麦藁帽子、ミュールという格好だったことだ。

 イメージ的にゴス系でびしっと(?)決めてくるとばかり思っていた。

 もう一つは、話している最中に伊吹が淡々とした調子で

 「私、今日はすげー気合入ってるんですよ。その証拠にほら」と言ってワンピースの裾をめくり上げたこと。

 ワンピースの下に、既に水着を着込んでいた。

 わかったからしまえ、と叫んだのは多分俺だった。

 公共の場所であんな大声を上げてしまって死にたい気分は既に充填率八割を超えようとしていたのと時を同じくして、

 気温は三十度を突破したらしいと携帯をいじっていた有紀が辟易とした顔で告げた。

 この暑さでは天使の仮面を被る余裕も無いらしかった。



「それじゃ、また後で」



 市民プールに到着し、受付で券を買った俺達は更衣室前で別れた。



「いやーしっかし驚いたね。なんつーの伊吹って原石じゃね?」



 有紀のはしゃぎようは凄かった。

 服を脱いでいる間も口が止まらない。



「胸は控えめだし髪はうざったいけどバランスは良さそうだし。日陰者だからか肌真っ白だしよお」



 天使の顔をした悪魔というよりは、そのまんま少女の顔をしたおっさんに成り下がっていた。



「ちょっとどころか、物凄く変わってるけどな」



 そうでなければ、いくら水着を着ているとはいえスカートの裾をめくったりしない。



「お前も相当な変わりもんだろ? 正直お似合いなんじゃねーのお前には」

「さあ、わからないな」



 少なくとも嫌ってないことだけは確かだ。



「ま、どうでもいいけどよ。俺は最初から晴香狙いだし。つーわけでお前も協力しろ」

「協力だ?」

「簡単だよ。お前は伊吹と適当に水死体ごっこでもしてろ」

「……本格的に泳ぐ気はないから別にいいけど、宮口が許すかねぇそんなこと……」











 俺の心配は杞憂に終わった。



「ふわー……」



 ぷかりぷかりと水面に浮かんでいるのは、伊吹。

 長い髪は四つ折にしてまとめてゴムで縛ってあるらしく、出来損ないのポニーテールみたいになっていた。



「それじゃ悪いけど賀川くん、伊吹ちゃんはお願いね」



 宮口は有紀と一緒に逆側のプールサイドに行ってしまう。

 軽く手を上げてから、俺は気持ち良さそうに浮かんでいる伊吹に目を向けた。

 さっきから身動き一つせず、ただぷかぷかと漂っているだけだ。

 見ているのも何なので、俺もプールに入って天井を見上げる。

 真夏の太陽よりずっと弱い照明が俺達を照らしていた。



「……賀川さん。そこにいますか?」

「ん、どうかしたか?」

「こうして目を閉じていると、色んな音が聞こえますよ」

「音?」

「子供の声や、監視員の笛の音、水の音、誰かがプールサイドを走る音」



 同じように耳を澄ませてみると、確かにそんな音が聞こえてくる。

 普段は聞き流しがちな音も、この世界が奏でる音楽として響いてくる気がした。

 これがたとえロクでもない神の遊びだとしても、俺は決して嫌いじゃないと思った。



「賀川さん。昨日私に言いましたよね。どうして後を付け回すのかと」

「ああ」

「話し相手が欲しかったからと言いましたけど、その話し相手にあなたを選んだ理由は、もうわかっているんでしょう?」

「六月に傘貸してやったときのことか」

「私は遠慮したのに、勝手に傘を置いて雨の中に走っていたときは、あの人バカなんだろうなって思いました」

「まあ、正直言って優等生とは程遠いな」

「しかも、その時になんて言ったか覚えてますか?」

「なんだっけな」

「『俺は俺の自尊心を満たしたいためにお前に親切を押し売りしてるだけだ。

だから別に感謝しなくていいし、お前はただラッキーだと思って傘を使えばいい』」

「嫌な野郎だ」

「今なら言えます。変人きたこれ」



 せめて捻くれ者と言ってくれ。



「まあ、それであなたに興味が湧いたわけです」

「なるほど。でも、俺を付け回した理由にはならないんじゃないか?」

「あれはハルカの提案でした」

「……なんだって?」



 水音で思わず聞き逃しそうになったが、ちゃんと聞き取った。



「賀川くんは直接アタックするより、搦め手を使った方が効果的だと。

だからまずは相手の意識を自分に向けることに専念すべきだと言って、ストーカー紛いのことをしてました。

そのことは今この場でお詫びします」

「いや、別に気にしてない」



 しかし、となると俺は宮口の手の上で踊らされていたというわけか。

 俺が相談を持ちかけたとき、宮口は心の底ではガッツポーズをしていたわけだ。

 悪意が全くない分、有紀なんかよりも遥かに恐ろしい相手かもしれない。



「賀川さんはおかしな人です。昨日の会話で確信しました。今まで私と会話出来る人自体ほとんどいませんでしたから」

「そりゃお前、会話の始めに『神を信じますか』はねーよ。俺だって困惑したわ」

「でも、あなたはちゃんと話してくれました。あなたのことをもっとよく理解したいと思いました」



 俺はなぜか安らかな気持ちでその言葉を聞いていた。

 正直、伊吹が何を考えているのかはさっぱりわからない。

 俺を異性として見ているのか、それとも本当に話し相手が欲しかっただけなのかすら判断がつかない。

 しかし、それでもいいと思っている自分がいた。

 相手のことを百パーセント理解するなんて、それこそ不可能なことなのだから。

 それはなんて素晴らしいことだろう。



「はっきり言って、俺はお前のことがちっともわからん」

「わからないからこそ、人は知りたがるのですよ。賀川さん」

「……昨日も少し思ったんだけどよ」

「はい」

「俺達の思考って、結構似てるらしいな」

「光栄です」



 少しだけ目線を横にやる。

 ちょうど伊吹もこちらを見ていたようで、互いの視線がぶつかり合った。

 髪を上げた伊吹は、どこにでもいそうな少女の顔で微笑んでいた。

 つられて俺も笑い、最大限の親しみを込めて告げる。



「なあ、俺達って、本当に友達でもなんでもないよな」

「はい。お互いのことなんて何もわからない。多分、全部これから始まって、そして終わっていくんでしょうね」



 それから宮口が俺達を呼びに来るまで、俺達はずっと話をしていた。

 家族のことや学校のことを始め、人との関わり方についてや、将来の話。

 言葉で全てが伝わるとは到底思えない。

 最後に、俺達はまた神の話をした。



「もしも神がいたら、絶対にロクでもないって言ったけど、私はそうでもないと思う」

「どうしてだ?」

「その前に質問。私達が理解し合えないのは、私達が別々の存在だからだとは思いません?」

「そう考えたことはある」

「なのにどうして、神は私達という存在を分けたのだと思いますか?」

「出会いと別れを生み出したかったんじゃないか」

「……なるほど。それも悪くない答えですね。私は、こう思うんですよ」



 ほんの僅か。

 水面の下、力なく漂うだけだった俺の手に、伊吹がそっと触れてきた。



「温もりを感じさせるため」

「……言ってて恥ずかしくないのか?」

「本心ですから」



 とても目を合わせられるだけの余裕は無かった。

 それでも伊吹の目は、ずっと前を向いているんだろう。



「そ、そういえば一つ聞きたいんだが」

「なんでもどうぞ」

「物凄く今更なことかもしれないが、怒らないな?」

「なんですか、もったいぶって」

「……フルネーム教えてくれ」

「……は?」



 呆れたような視線が突き刺さってきた。



 伊吹・千里です。

 せんりか。

 はい。

 変な名前。

 個性的と言ってください。



 お互い、まだまだわからないことが多すぎる。

 しかし焦る必要は全く無い。

 夏も、俺達の関係も、まだ始まったばかりなのだから。



「あ」

「どうした?」

「……パンツ」

「は?」

「忘れました」



 とりあえず、伊吹が思った以上に抜けているというのは、今日だけで十分よくわかった。