「青葉の唄」
「お、音羽くんっ。わ、わわ私、音羽くんが好きなの! つ、付き合って、くださいっ」
ついに、言っちゃった。
不肖春日青葉、十七歳、一世一代の博打に出てしまいましたっ。
一つの傘に身を寄せ合っているせいか、六月の雨の中でも体が火照ってしまう。
明日から定期試験ということで、早く家に帰ろうと思った矢先の雨。
普段携帯してる折り畳み傘を忘れてることに気付いた時は、自分の間の悪さに呆然としたけど、
たまたま帰るところだった同じクラスの音羽直樹くんが声をかけてくれたときは、むしろこれは幸運なんじゃないかと思った。
「……」
音羽くんは、私の突然の告白に驚いたのか、目を大きく見開いていた。
その口は半分開いたまま、何事かを告げようとする途中で止まっている。
私は、音羽くんが何を言おうとも受け入れる覚悟で、音羽くんを強く見つめた。
強い雨音すら、私の耳には届かないほど、自分の鼓動の高鳴りは強くなっていた。
「どう、して? 僕が好き、なの?」
「お、音羽くんは、音羽くんはっ。口下手だからか、あんまり喋らないし、ちょっと無愛想なところあるけど、
でも、でも時々――吹奏楽の部活の時とかで、優しく笑ってるのを見るの。それが、一年の頃から気になってて。
しばらく見てるうちに、音羽くんのことが頭から離れなくなって、それで、それで……っ」
"好きだ"という気持ちを、誰かに伝えていくということが、こんなにも切なく、恥ずかしいものだったとは。
告白というものを、少しばかり甘く見ていたかもしれない。
単に私が小心者なだけかもしれないけど、とてもその場の勢いだけでは言い切れない。
思いだけははちきれそうなくらい大きいのに、上手い言葉が出てきてくれなくて、それが凄くもどかしい。
心と心が触れ合って、この思いが言葉じゃない何かで、全部伝わってくれればいいのに。
そんな都合のいいことを考えていたら、不意に音羽くんが口を開いた。
「あ、ぅ……その、春日さんのこと、全然嫌いじゃない。だけど、返事は……少しだけ、待ってもらえる?」
一つ一つ、慎重に言葉を選んでいるみたいだった。
明らかに、私の告白に動揺を隠せないらしく、少しだけ申し訳なかった。
「うん、それでいいよ。ごめん、いきなりこんなこと言って」
「いや。……明日からのテスト、お互い頑張ろう」
それから、音羽くんはわざわざ遠回りまでして、私を家まで送り届けてくれた。
私が傘を持っていなかったとはいえ、彼の心配りが嬉しかった。
帰ってからも、なかなか音羽くんの顔が離れてくれず、部屋に閉じこもって一人で悶々としていた。
好きで好きでたまらない気持ちだけが溢れ出して、全身が燃えるように熱かった。
しかし、二人きりで密着していた状況が私に過度の緊張を与えていたのか、
部屋に戻って布団にくるまっていた私は、いつの間にやら眠ってしまっていたのだった。
その夜、久し振りに、夢を見た。
普段は熟睡してしまって、夢なんて滅多に見ない私にしては珍しい。
内容はよく覚えていないけど、音羽くんが出てきたのだけは覚えていた。
それがなんとなく嬉しくて、私はいつまでも夢を見ていたい気分に浸っていた。
そして、ふと目が覚めて目覚まし時計を見ると――
「……っ、し、しまったああああー!!」
普段家を出ている時間を半時ほど過ぎていて、私は跳ね起きた。
大慌てで着替えを始める。
こういう日に限って、テスト一日目なのだから、困る。
一時限目は確か、日本史。
得意科目だし、今から急いで学校へ行けば、望みはある。
「遅刻は確定だけど、テストには間に合ってみせる!!」
着替えを終わらせて、いつもよりは大雑把に髪をすく。
寝癖が完全には治らなかったが、時間がないので見なかったことに。
筆記用具が入っていることを確認してから学生鞄を持ち、焼いてないトーストを口にくわえて、家を飛び出した。
幸いなことに、昨日とはうってかわって爽やかな空模様だった。
朝日がきらきらと水たまりに反射して、見慣れた風景も、普段よりずっと綺麗に見える。
生憎今の私に景観を楽しむ時間的余裕なんてなかった。
でも、慌ただしく一日がスタートしてくれたおかげで、音羽くんのことをあまり意識せずにいられたのも、事実だ
った。
*
「――で、あんた、まだ返事もらってないの?」
「う、うん」
定期テストが終わってから、週末をはさんで、一週間が経ったある日の昼休み。
私は、以前から恋愛相談を受けてもらっていた親友の笹本美奈ちゃんと一緒にお昼を食べていた。
笹本美奈→笹美→ササミと友達には呼ばれているけど、本人はその呼ばれ方があまり好きじゃないらしいから、
私は名前で呼ぶことにしてる。
美奈ってば、冗談でも"ササミ"って呼ぶと、すぐ不機嫌になるんだもんなあ。
面倒臭そうなくせに、結局私の相談に乗ってくれるあたり、面倒見が良くてすごくいい子なんだけどね。
「実は、音羽君あんたの告白のことなんて忘れてるんじゃない?」
「そっ! そんなことない! ……と、思うけど」
正直、そこまで私自身が音羽くんの印象に残っている自信は、全く無かった。
シュンとうなだれる私の頭を、美奈はぐしゃぐしゃと乱暴に撫でまわして、
「あー、ごめんごめん冗談だからそんなに落ち込まない。音羽くんがそんな薄情な奴じゃないってことくらい、あん
ただって知ってるでしょ?」
「そ、そうだよね」
「でも、返事は出来るだけ早くもらった方がいいわよ。音羽君結構モテるし。
ほら、見た目がイケてる奴は他にもいるけど、音羽君みたいに寡黙で知的なキャラとなると、希少価値がつくもの。
唾つけてくる女なんて、それこそ吐き捨てるほどいるわよ。……あー、ほら、また女子が話しかけてる」
と、美奈が窓の外を見下ろして言った。
私もその視線を追うと、その先には男子達の一グループが購買で買ったパンを食べていて、その中に音羽くんの姿
もあった。
他の男子達がかすんで見えてしまうくらい、私には音羽くんが輝いて見える。
恋は盲目という言葉があるけど、こうして自分で恋をしてしまうと、その言葉の意味が深く実感できる。
その人のこと以外は、容易に自分の中に入ってこないんだ。
今回のテストの結果が散々だったことも、きっとそれが原因に違いない。
数学が赤点すれすれだったのも、きっとそうだ。
――高次方程式のバカやろう。
「それで、どうするわけ? 青葉」
自分の世界に入り込みかけていた私の意識は、美奈の言葉で現実へ引き戻された。
そのくらい誰かを好きになるっていうのは、凄く強い気持ちだってことだと思う。
「もう夏休みも近いわよ。あんただって、一ヶ月以上も生殺しは嫌でしょ?」
「そ、それはもちろん……」
「夏休み。音羽くんと一緒に過ごしたいんでしょ?」
「……う、……うん」
「それじゃ、慎ましくしてないで話し掛ける! アタックする! 待ってるだけで実るほど、恋は甘くないわよ」
そう、思いが強いからって、それが実るわけじゃない。
思いの強さは、それだけじゃ意味が無い。
その強さを力に変えて、勇気を持って言葉に、行動に移していかないと、意味が無いんだ。
相手に伝えて、そして相手からも、気持ちを――心を伝えてもらわないといけない。
恋の形は色々あるけれど、一方的に押し付けるだけの思いじゃ、欲張りな私には満足できない。
だから今ある関係を壊してでも、胸に秘めた思いをぶつけていくしかないんだ。
賽は投げられた。
恋は、私が音羽くんを好きになった瞬間から、もう始まってるんだ。
「うん……ありがとっ、美奈。私、頑張ってみる」
「おう、頑張れ恋する乙女。ささやかながら応援するからさ」
にっこり笑ってくれた美奈が嬉しくて、私も力強く微笑んでみせた。
*
放課後。
私は、普段は滅多に通らない廊下を一歩一歩踏みしめるように歩いていた。
明らかに、体がガチガチに強張っている。
空は微かに赤く染まっていて、カラスが一匹カアと鳴いて遠く飛んでいる。
深い溜息をついた。
『返事、保留しててごめん……放課後、部活が終わった頃に、音楽室に来て』
帰りのホームルームが終わった時、音羽くんが私に言ったセリフだ。
音羽くんに自分から話し掛けようと思っていた私は、もうそれだけで驚天動地、しばらくその場に固まってしまった。
まさか、相手の方から話し掛けてくるなんてことは、想像にしていなかったんだ。
窓に薄く映る自分自身と向かい合う。
何だか泣きそうな顔が、そこにはぼんやりと浮かんでいて、私はぶんぶんと首を振った。
「……いいかげん覚悟を決めろ、春日青葉。告白したあの日、もう逃げないって決めただろ。気を強くもて。
たとえ振られたって、好きって気持ちに変わりはない。その気持ちに嘘は絶対にない。
それなら、どんな結果に終わったって悔いはないはずなんだから、下を向くな、前を見て、進むんだっ」
気弱な自分に向かって、そう言い放つ。
それは、改めて私自身に覚悟を宣言することでもあった。
ここまで来たら、怖いものなんて無い。
唯一怖いものがあるとしたら、傷つくことを恐れて、今この場から逃げ出してしまうことだけだ。
「……失礼しますっ」
音楽室に着いた私は、少し控え目に扉を開いた。
吹奏楽部は人数が多いため、音楽室の他校庭の隅や部活棟の一部などで練習しているのだけど、
もう部活は終わっている時間なので、音楽室には静寂があり、さやさやと小さく風と草の音が聞こえるだけ。
そして、音楽室の一番奥のグランドピアノのところに、音羽くんは当たり前のように座っていた。
音羽くんはピアノ奏者なのだから、当然といえば当然だった。
「こ、こんにちは、音羽くん」
「……うん」
「えっと、そのー、今日はいい天気だねっ」
って、何を言ってるんだ私は。
でも、やっぱり本人を目の前にすると緊張しちゃって、何を言っていいものやらわからない。
それにしても、場をもたせるために、どうして日本人は天気の話をしちゃうんだろう。
「ん、今日はいい天気だ。風も気持ちいい。草の、においがする」
前髪が風に撫でられるのがくすぐったいのか、音羽くんは目を細めた。
草のにおいと言われてみると、確かに窓から入り込んでくる風には、瑞々しい草花の香りが混じっていた。
青々と茂る深緑に、花壇にちらほらと花開き始めた向日葵。
もう夏も始まってきているのだと、その時になってようやく私は実感した。
「本当だ……意識してみると、風って香るものだったんだね」
「意識してみないと、わからないこと。たくさんある。人の気持ちだって……」
「え?」
音羽くんは何か言いかけたみたいだったけど、思い直したように口をつぐんだ。
それが気になったけど、あんまり無理に聞き出すのもどうかと思って、あまり訊き返さないようにした。
ピン、と音羽くんがピアノの鍵盤を適当に一つ叩いた。
かと思ったら、それを皮切りにして、音羽くんの指が、流れるように鍵盤の上を動き始める。
幾つもの音が合わさって、気付けばそれは音ではなく旋律になっていた。
その優しい音色は、風と草の音を包みながら溶け合い、一つの調和を生み出しているようだった。
生き生きとしながらも、その音色を聞いていると、どこか穏やかな気分になってくる。
夏というよりは、どちらかというと、青葉の囁く季節――春の日の、木漏れ日のような、そんなイメージの曲だった。
「――」
ポロン。
曲がある程度進んできて、いよいよ最初の盛り上がりかと思うと、何故か音羽くんは弾くのをやめてしまった。
表情は変わっていないけど、何となく困っているような、そんな印象を受ける。
「優しい綺麗な曲だったけど、途中だったよね? どうかしたの?」
私は、音楽にそれほど興味があるわけじゃないけど、そんなの関係無しに心に染み入ってくる良い曲だった。
目の端に涙が溜まり始めていることに気付いて、気付かれないように指先でそっと払う。
音楽を聴いて感動するなんて、何年ぶりだろう、やっぱり音羽くんは凄いと思った。
それなのに、音羽くんは凄く申し訳無さそうな顔をして、
「今の曲は、まだ今弾いたところまでしか出来てないんだ」
「そうなの?」
「うん。僕は、進学は音楽科を目指してるから、夏休み中に、短くてもいいから一曲、作曲をしてこいって言われてて。
それで、今弾いてみせたのが、その曲なんだ。イメージだけが先行してて、単調なところが結構残ってるんだけど……」
「そんなことない。優しくて穏やかで、なんていうか……そう、春って感じがして、いい曲だったよ」
「そっか……ありがとう、春日さん」
安心したのか、少し強張っていた音羽くんの表情が、不意に柔らかく崩れた。
私は思わずどきっとして息を飲む。
その笑顔こそ、私が初めに音羽くんを好きになった原因なんだ。
それが、今一瞬とはいえ、私だけに向けられたんだから、鼓動が高鳴らないわけがない。
「え、えっとね。そうだ、音羽くん、今の曲のタイトルはどうするの?」
顔が赤くなっているのは、もう誤魔化しようがなかった。
せめて二人の間に沈黙が流れないように、自然な流れで会話が繋がる話題を振ってみる。
音羽くんは、音楽関係の話をしてる時はかなり話してくれるし、これなら大丈夫だろう。
「今の曲のタイトルは……実は、もう決めてあるんだ」
「そうなんだ。何て名前にするの?」
何気なく言った一言だったけれど、
「"青葉の唄"……ってタイトルに、しようと思ってる」
それは、私の思考を止めるには、十分過ぎる威力を持った一言だった。
「……、……あー、……え?」
何だか、どこかで聞いたことのあるタイトルだった。
なるほど、春の日の青葉をイメージした曲なら、あんな優しく包み込むような曲調になるのも、納得がいく。
問題なのは、そこじゃない。
春の日の青葉。
随分見慣れた言葉が並んでいる気がする。
そんな思考がまとまりきる前に、音羽くんは私を真っ直ぐ見て、次の言葉を発していた。
「春日青葉、さん。告白の返事……これでわかってもらえた、かな?」
「え……、と、言っちゃうと?」
「……」
と、普段はほとんど表情を変えない音羽くんが、真っ赤になってうつむいてしまった。
男の子なのにこんなに可愛いなんて、もう反則だよ。
「この曲を書き始めてから、ずっと春日さんのことを考えてた。
でも、僕は口下手で、話すのが苦手だから、自分の思いは、全部この曲に託そうと思ってたんだ。
だから、その、つまり……」
ポロポロンと、気を紛らすためか鍵盤を適当に叩いてから、その音の余韻が消えてしばらくして、
「僕も、春日さんのこと、好き……みたいなんだ」
その一言は、今まで生きてきた中で一番重たく、ズン、と胸に響いてくる言葉だった。
全身を振るわせるほどの、衝撃。
嬉しいやら驚いたやらで、何も言葉が出て来ない。
ただ、膝に微かな湿り気を感じたから、雨だと思って外を見てみた。
雲一つない空が、そこには広がっていた。
音羽くんの少し驚いてる顔が、なんだかぼやけて見える。
――ああ、なんだ、私が泣いてるだけか。
そう気付いたら、もう止まらなかった。
この強い気持ちを言葉にして出せなかったから、それが涙として、私の中から溢れてきてしまったらしい。
あれだけ何を言われても動揺しないって覚悟してきたのに、それがあっさりと崩れてしまった。
やっぱり、私は根っこのところから小心者なんだろう。
「……」
音羽くんは、そんな私に何も声をかけてこなかった。
その代わりに、またあの曲――"青葉の唄"を、何度も何度も弾いて聴かせてくれた。
きっと、それでいいんだと思う。
音羽くんにとって、音楽は言葉以上に、自分の気持ちを伝えてくれる手段なんだろうから。
だから、音羽くんは、まず初めに"青葉の唄"を私に聴かせてくれたんだろう。
私の一番好きな人が、私のことだけを思って、私のためだけに作り、思いを込めて弾いてくれた曲。
それは、音羽くんの思いが直接私の中に流れ込んでくるような気さえした。
「音羽くん」
「……ん?」
「告白した時より、……もっとずっと、好きになっちゃったんだからねっ」
泣きながら笑って、私は恥ずかしげも無く叫んだ。
彼と違って、私が思いを伝える方法は、この強い気持ちを、言葉と行動で示すしかないから。
驚いて硬直している隙に、二人の間の距離をゼロにして、
「……っ!?」
ぱっ、と。
"それ"が重なり合った瞬間に、私は体を離す。
初めてだったけど、案外何でも無いものだと思った。
それでいて、こんなに幸せな気分になれるのだから、本当に不思議だと思う。
意識してないと、自然と顔がにやけてしまって。
「……一緒に帰ろう、音羽くんっ」
私は、私の好きな人に手をそっと差し伸べた。
その日の帰り道、私達とすれ違った人たちは、私達二人を不思議そうに見ていた。
まぁ、それも当然だろう。
私が、もし今の私達みたいなことをしている人たちに出会ったら、やっぱり不思議に思うはずだ。
こんなにいい天気の日に、二人で傘を差して歩いてるんだから。
「……か、春日さん」
「青葉、だよ。直樹くん」
「あ、あお、ば。その、やっぱり、これ、恥ずかしい……」
「ダメだよ。告白を引き伸ばしたバツなんだから、私の家に着くまではこのままっ。
……どうしてもっていうなら、一つだけ条件があるなあ」
「条件?」
「うん。あの曲……"青葉の唄"が完成したら、一番初めに、私に聴かせてくれること。……お願いしても、いい?」
「……そんなの、条件にならない。初めから、そのつもりだった、から」
「あ、あは、そっか」
二つの影が並んで伸びている。
あの頃の雨模様も、今は綺麗に晴れて。
これから、すれ違うことも、きっとあると思う。
そんな時は、今のこの気持ちを思い出すようにしよう。
優しく包まれるような、あの旋律を忘れないようにしよう。
寄り添ったもう一つの体温の、このあたたかさを刻みつけよう。
お互いに顔が真っ赤なのを、夕日のせいにしながら、そんなことを思っていた。
終