どうやって家に帰ってきたのか、自分でもよく覚えていない。

気付いてみたら、誰もいない薄暗い部屋の隅で、一人膝を抱えていた。

視線を上げてみると、小さな丸テーブルの上に紙のケースが載っているのが見える。

仮にも8000円もしたケーキを置き去りにするのは、身体が勝手に拒んで、拾っていたらしいことに、何となく安堵した。

まだラウラと別れてから、ほんの30分程度しか経っていない。

それなのに、胸にはぽっかり穴が空いたかのような空虚さがあった。

1時間も前には、ラウラと一緒に食事をしていたなんて、今となっては悪い夢のようだった。

それとも、今こうしていることが悪い夢なのだろうか。

それすら、隆也には曖昧になってきていた。

何のやる気も起きず、ただぼうっと、カチ、コチ、と時を刻み続ける時計の秒針を目で追っていた。



カチ、コチ、カチ、コチ



この時計の針が、魔法のように突然止まりでもすれば、ラウラとは別れずに済んだかもしれないと思ったが、今更そんなことを考えても無駄とはわかっていた。

それでも、考えるのをやめるのは何よりも難しいことのようだった。

思考を止めれば、頭にはラウラだけが浮かんでくるのだ。

これっきりでもう二度と会えないならば、当人にとってその相手は死んだも同然だ。

しかし、なぜか涙は流れなかった。

現実味を感じられないからか、それとも自分で思っている以上に自分はそんなにも冷たい人間だったのか。

時計の秒針が、何十万週目かを回り切った。



『……これで、うまくとれてるんですかね?』



突然、目覚ましが喋りだした。

しかも、あろうことか、ラウラの声で。

隆也は思わず目を見張った。

いつ録音したのかと思う間もなく、耳を澄ませて、それに耳を傾ける。



『こほん。えー、貧乏なはずのタカヤが録音機能付き目覚ましなんて高尚なものを持ってやがるのは癪なのです、そういうわけで、この録音機能は私が使うのですよ。別に、ちょっと興味が湧いて使ってみてるわけではないのです決して。って、あわわ、急がないと卵が焦げ付いてしまうのです』



内容から察するに、朝食の前……隆也が起きる前に、こっそりと録音していたようだ。



『隆也は、寝てるときは余計にバカ面ですね。平和ボケしてそうで、泥棒が入ってきても気付かずに寝てそうです。見ててほのぼのするくらいですね。まあ、別に嫌いじゃないですけど。……さて、それじゃ今日一日を元気に過ごすために、ほっぺたが落ちるようにご飯を作ってやるのですよ!』



録音は、そこで終わっていた。

しばらくしてから、再び目覚ましが録音内容を繰り返し始める。

それは、別にどうということはない内容だった。

愛の告白が入っていたわけでもなく、彼女のいつもの悪口と、ささやかな思いやりが吹き込まれていただけだ。

それなのに、隆也はしばらく目覚ましを止めることが出来なかった。

耳に入ってくるラウラの声は、耳から身体の中へ入り込み、隆也の一番奥の方までを揺さぶっているようだった。

隆也が目覚ましを止めたのは、録音が七回ほど繰り返されてからだった。

はあ、と自分の溜息が妙に多きく聞こえる。

なかなか粋なことをしてくれたラウラに苦笑したくなる自分と、それに対して、より寂しさを募らせる自分とが共存している。

カチ、コチ、と再び秒針の音が時を刻み始めた。

ふと、隆也はケーキの箱を開けることにした。

せっかくラウラが買ってくれたのだから、せめて24日のうちに、一口だけでも食べておこうと思い立った。

だが箱を開けてみて、思わず息を呑んだ。

そこには、クリームまみれになったチョコレートの上に、ホワイトチョコのひび割れた文字で、『Be with you』とか筆記体で書かれていた。

てっきり、『Merry Christmas』と書かれていると思ったのに。

不意打ちを食らった気分だった。

内側の壁についていた生クリームを指ですくって、おもむろに一口なめてみた。

ココアパウダーが混じっていて、甘くもあり、ほんの少しほろ苦くもあった。

ぽたり、と。

ケーキの上に、水滴が落ちてきた。

雨漏りでもしたかと思い見上げてみるが、天井にそれらしき跡は見受けられない。

はて、と首をかしげてから、はたと気付いた。

その滴は、自分の双眸からこぼれ落ちた涙粒だった。

ぽた、ぽたり、と。

一粒が流れてからは、本人の意思とは関係無しに、それは止め処無く溢れだした。

初めは動揺を隠せなかった隆也は、涙は流れるままに、泣くことをやめようとも思わなかった。

カッコ悪いとか、ダサイとか、そんなことも少しは思ったが、無理に泣き止もうとするのは、もっとカッコ悪いような気がした。

ほろほろと、つうと頬を伝っていく涙は、そこだけ妙に熱く感じた。

ずっと一緒にいたかった――――そんな気持ちが、涙ごと全部自分の中から流れ落ちてしまえばいいのに、と思いながら。



駆け抜けていった夢のようだった聖夜が終わり、元旦が目の前まで迫ってきた12月31日の深夜。

とはいえ、コンビニは元旦だからといって休みになるわけもなく、翌日もバイトのある隆也は、毎年何となく見ている紅白歌合戦もつけずに、相変わらずぼんやりとしながら、年越しそばをすすっていた。

一週間が経っても、まだラウラのことは全く忘れられそうも無かった。

恐らく、これからもずっとそうなのだろう。

そもそも、そう簡単に忘れられるくらいなら、ずっと一緒にいたいなどとは思わなかった。

もう数時間もしたら、フィンランドでも新年のお祝いをやるんだろうかと、遠い空の下にいるであろうラウラの面影を、窓から見える空に探していたら、日付の変わり目にセットしておいた目覚ましが鳴った。

まだラウラの声は消していない。

女々しいかもしれないが、これが唯一ラウラが夢ではなかったと実感できるものなのだから。

それに、この録音機能は私が使うのだ、とラウラ自身も言っているのだから、これでいいではないか、とか隆也は自分で納得していた。

12時になり、2008年になった。

すぐに風呂場に立ち、鏡の中に映る自分自身に向かって、「あけましておめでとう」と声に出して言ってみた。

我ながら、なんて寂しい奴なんだろうかと、一瞬自己嫌悪に陥りかける。

いくら一人暮らしがそれなりに板についてきたとはいっても、第二の自分にリアルで話し掛けるのは、精神的によろしくないのでやめることにした。



ごーん  ごーん  ごーん



どこか遠くで、除夜の鐘が打ち鳴らされている。

こんな都会の方にでも、そんな風習がまだ残っていたのかと少しばかり感慨深くなりつつ、それでも煩悩は無くならないのだろうなとぼんやりと思っていたら、鐘の音に交じって不意にインターホンが鳴った。

バイト仲間が遊びにでもやってきたのかもしれない。

深夜のコンビニのバイトなんてものをやっている隆也と同じくらいの年代の野郎共は、大抵独り身の淋しい奴らなのだ。



ピーンポーン ピーンポーン



ああもうやかましい。

ひっきりなしに鳴り響かせてもらっては、他の階の方々にも迷惑がかかってしまうではないか。

慌てて鍵を開けて、「はいはいどちらさ、」ま、と言いかけて、最後の方は、ちゃんとした言葉にならず、息だけが白く空に溶けていった。

そこにいたのは、白と黒のコントラストが可愛らしい服を着た、青い髪と瞳をした少女だった。

少女は、――――ラウラは、にっこりと優しく笑うと、

「わざわざ来てやったんですから、せめて一回目のインターホンで出やがれです。このうすのろが、です」



一週間前と同じ、しかし口調は極めて柔らかく、隆也を罵った。



「な、なんで……どうして?」



何が何だかわからず、隆也は混乱してしまう。

今生の別れとばかり思っていたのに、予想以上にあっさりと再会を果たしてしまったことが、余計に隆也の思考に収集をつかなくさせていた。

んー、と顎に人差し指を縦に添えて可愛らしく首をかしげて、ラウラは「えっとですね」と一息置く。



「迷惑でしたか?」

「……迷惑だよ」



思わず、そう口走ってしまい、少しだけ隆也は後悔した。

こんな軽口は、自分らしくない。

毒舌は、ラウラのような少女こそ似合うもので、自分のようないい歳をした野郎が言って気持ちのいいものではなかった。

だがラウラはそれを聞いてにんまりと笑うと、



「タカヤ。そんなに嬉しそうな顔してやがるのに、そんなこと言われても信じられませんよ」

「えっ?」



自分の頬に手をあててみる。

意識していたつもりはあまり無かったのだが、無意識のうちに、そんな腑抜けた顔をしてしまっていたのだろうか。

慌てて顔を引き締めようと試行錯誤していたら、ラウラがぷっと吹き出してから、してやったりといった表情で、



「まあ、嘘ですけどね」

「なっ、お、お前な!」

「まったく、タカヤは本当に単純です。だから頭が残念なつくりだというんです」

「こ、この野郎……」



と、玄関で立ち話もなんなので、部屋に上がってもらい、改めて腰を据えて向かい合う。



「それで、どうしてまた俺のところに来たんだ?」



いざ話を始めると、知らずにうちに自分の語調が強まっていることに隆也は気付いた。

楽しい夢を見させてくれたがために、過酷な現実を突きつけられたことに対する憎しみが無いと言えば嘘になる、そのためだ。

来てくれたのは、確かに、正直に嬉しく思うし、やはりラウラを愛しく思う気持ちには何ら変わりは無い。

だからこそ、可愛さ余って憎さ100倍ではないが、その理由次第では、二度と会いたくないとまで思った。



「あの、タカヤは、24日の日、ずっと一緒にいたいって私に言ってくれました。その気持ちに嘘はないですか?」

「……ねえよ。何を今更、嘘なんてつく必要ねえし、嘘つくんだったら、もっと笑える嘘をつくってーの」



そうですか、とラウラは苦笑して、



「でも、24日は、すぐに別れなくちゃいけないことがわかっていたから、それで、……あんなことを言った、そうですよね?」

「ああ、そうだ」



ラウラが『あんなこと』と言ってその言葉をぼかしたのは、24日に隆也に言われたことは、やはりラウラにとってはショックだったのだろう。

その時に流した涙も、そう語っている。

そう思うと、隆也は何だか自分自身を滅茶苦茶に傷つけてやりたくなるような、自虐的な気持ちになりそうだった。

ラウラはそのことを責め様という素振りが全く無かったので、隆也の中で妙な後ろめたさは強まるばかりだ。

そうと知ってか知らずか、ラウラの口調は凛としたものになった。



「だから、今日はあの日と違います」

「違うって?」

「24日はサンタクロースとして来ましたけど、今日は、ラウラ・アホとしてやって来たってことです」



それがつまりどういうことなのか、隆也にはよくわからなかった。

はて、と首をかしげてみせると、ラウラはむすっと不機嫌な顔になって、



「わかりやがりませんか! ずっと一緒にいてやるってことですよ! 無理言っておじいちゃんに頼み込んでここまで来たんですから、ありがたいと思いやがれです!」

「……え? それって、どういう、」

「あ、うー、その、ですね。だから、一旦フィンランドに帰ってから、おじいちゃんに24日の報告をして、それから、タカヤと一緒にいたいって……いつかは別れることになるから、出会うのは確かに辛いかもしれません。でも、幸せな夢があるからそうでない現実が辛くなるのと同じように、私は、不幸な現実があるから幸せな夢が確かにあることを信じたいです。だから、タカヤと一緒に……ごにょごにょ」

「ん? なんだって? 最後の方、よく聞こえなかったんだけど」



隆也が身を乗り出した瞬間、ラウラが爆発したように、



「ああもうわかりやがれです! わっ、私も、タカヤのことが絶対的に嫌いじゃないってことです! ずっと一緒にいてやっても別に構いやしないって程度には、嫌いじゃないですよ! こんなこと、年頃の女の子に言わせやがるなです! 察してくれよです! この無神経男なのです!」



ああ、そういうことか。

鈍感でもあった無神経男=隆也は、ようやく笑みを取り戻した。

照れているのか、今度は逆にラウラが笑ってくれなくなり、唇をとがらせて睨んでくる。

一週間前の、出会って間もなかった24日の深夜未明のような感じがした。



「身体、冷えたんじゃねえか? 今そばあっためてやるから、その辺にある布団でも被ってろよ」

「あ、はいです。あ……待ってほしいですタカヤ」

「ん?」

「実は、24日に渡しそびれたクリスマスプレゼントがあるです」

「ほほう」



大抵の人がそうであるように、隆也はプレゼントの内容より、貰えるということ自体に価値を感じる人間である。

だから、その言葉は素直に嬉しく思った。



「きっと驚くですよ。そういうわけで、目をつむって待ってるです」

「はいはい、わかったよ」



言われた通りに目を閉じる。

ごそごそ、と布団の音。

服はサンタ服ではなかったが、あの白い袋をどこかに隠し持っていたのだろうか。

あの袋だけは出所が不明なので、想像の域を出ない。



「絶対、絶対に目を開けちゃダメですからね?」

「わかってるって」

「絶対に絶対に絶対ですよ? 開けたら怒りますからね」

「だから、わかったって。しつこい奴だな」



なんて、そんなに開けるなと言われたら、こっそり開けてみたくなるのが人間の性というものだ。

流石にラウラもまだ14歳、そういうある種人間の根源的な心理までは読めないらしい。

そういうわけで、何秒かはしっかりと瞼を重く閉ざしていたタカヤは、ラウラにバレないようにゆっくりと薄目を開けてみて、



ちゅっ



あまり聴き慣れない、軽い音がしたのは、ほぼ同時だった。

ほのかなあたたかさを唇に残して、一瞬見えたのは、微かに震えるまつげと桜色に染まった頬。

何をされたのか理解するまでに、短いながらも果てしなく密度の濃い時間を要した。

ぱちっとラウラも目を開いて、呆然としていた隆也とばっちり目が合ってしまい、



「あ、……あ、ああああ! あれほど言ったのに、目、開けてやがりましたねタカヤ! バカ、バカバカバカ、バカタカヤっ! 豆腐の角で頭打ってぶち殺してやるです!!」

「ぶ、物騒なこと言うな! 第一、いきなり何すんだこの野郎! う、嬉しいけど」

「黙れです黙れです黙れやがれです! それ以上何か言いやがったら綿で首を締めてぶち殺してやるです!」

「だ、だからそういうこと言うなっての!」

「それじゃ、何を言えばいいって言いやがるですか!」

「……あー、好き、とか」

「っっっっ、っっっっっっっ、……!」



ぼっと真っ赤になって、ラウラは口を金魚のようにぱくぱくとさせている。

あ、その表情グッド、と一週間振りに思った。

すると、一週間前と同じように、ばすんっ、と顔面に凄まじい衝撃を受けながら、



「バカタカヤ! こっ、の……悔しいけど、大好きですよバカー!」



何だか最後の最後まで素直じゃないなとか思って、隆也は綺麗に放物線を描いて、エロゲタワーに頭から突っ込んだ。



余談ではあるが。

隆也は1月から、バイトの数を2つに増やし、参考書なら何やらを買うからと、無理を言って仕送りを多目に出してもらうようにした。

色々とキツイ面はあるが、仕方無いことではないか。



何しろ、同居人が出来たのだから。

それも、サンタクロースの。

新年は、何だか去年よりはずっと楽しく過ごしていけそうな、そんな予感がした。



FIN



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