『なあ、ラウラ――――風呂、一緒に入らないか?』



確かに、隆也はそう言った。

もちろん、本気だったわけじゃない。

ほんの少しだけ妄想してしまったことは否定しないが、半ば冗談だったのだと声高らかに喧伝したっていい。



『それは、『命令』です?』



しばらく間をおいて、そんな声が聞こえてきた。

ちゃんと聞いてみると、微妙にイントネーションのおかしな日本語。

嘘を言っても仕方が無いので、隆也は気の無い声で、



『命令じゃねえよ。まあ、個人的なお願いっていうか、ちょっとした提案』

『…………』



沈黙、そして訪れた静寂に、隆也は少しだけ焦りを覚えた。

まずい、本気で怒らせてしまったのだろうか。

ざーっと浴槽をシャワーですすぎ終わってから、「冗談だよ」と振り向きざまに言おうとした瞬間のことだった。

今度こそ、隆也は「やっぱり夢なんじゃないか」と思った。

そうでなければ、脳か耳がおかしくなったのではないかと思った。

だってラウラは、何だか改まった風な、凛とした声で、



『別に、私は構いませんですよ』



なんてことを言ったのだ。――――、――――――――、



グシャグシャと、いつもより多目にシャンプーを使ってみる。

全く意味の無い泡が大量発生して、目に入って滅茶苦茶痛かった。

じんわりしみる目の痛みまでシャワーで洗い流しながら、しかし隆也の頭は真っ白だった。

思考しているつもりなのだが、ごちゃごちゃと頭はいわゆるごった煮状態で、結果的に何も考えられていない。

心臓は爆発しそうな勢いで脈打っていて、主人である隆也の意見などお構いなしとばかりに4ビートを刻んでいる。

髪を洗い終わって、気持ちを落ち着ける意味も込めて、ゆっくりと息を吸い、同じくらいゆっくり吐き出す。

既に身体は洗い終わっているので、足からゆっくりと湯船に浸かった。

下半身をタオルで覆ったままだったが、今日だけはその所業を許してくれ、と見知らぬ誰かに言い訳する。

今日は、湯の温度は普段よりやや低めに設定していた。

そのためすんなりと入ることが出来たが、それでも12月の寒空に冷蔵されていた身体はほんのりと温まってくる。

だが何より、身体の内で暴れている熱いビートが隆也を不自然に昂ぶらせていた。



(どうして? 何がどうなってこうなった? そもそもこれは現実なのか?)



軽く頬をつねってみた。

ぐい。痛かった。

もう一度、今度はより強く。

ぐいい。やっぱり痛かった。

たとえ今がどんな状況であれ、これが夢でないことはもう決定事項のようだった。



「……タカヤ? もう洗い終わりやがりましたか?」



曇りガラスの向こうで、鈴の鳴るような声が聞こえてきて、隆也はどきっとした。

それでも平静を装って、出来るだけ優しい声が出るように喉の調子を確認してから、



「ああ。もう湯船に浸かってる」

「そうですか。……それじゃ、私も入りますね」



からり、と。

隆也とラウラを隔てていた唯一の壁は、ラウラの手によってあっさりと除かれた。

慎ましやかにそっと浴室に入ってきたラウラは、ぐるぐるとえんじ色のバスタオルを身体に巻きつけていた。

サンタ服や隆也の貸したトレーナーは身体のラインが出ないデザインだったので全く確証は無かったのだが、隆也の予想通り、ラウラはまだほとんど起伏の無い華奢な身体をしていた。

しかし肌は雪のように白く、一点の曇りも見られない。

その肌も、今は僅かに桜色に染まっているように見えるのは、隆也の目の錯覚ではないだろう。

ラウラはその視線に気付くと、所在無さげに立ち止まってから、フイと隆也の視線を振り切るようにそっぽを向いて、



「……身体を洗うから、向こうを向いていやがれ、です」

「あっ、わ、悪い」



指摘されて、慌てて背中を向け、その上で尚且つ目まで閉じる隆也。

それを確認したような間を置いて、しゅるしゅるとタオルが解かれていく衣擦れの音がする。

ぱさ、と何かが落ちたような音がした。

恐らく、ラウラがタオルを解き終わったのだ。

そして、ざーとシャワーの音。

ほう、とラウラは僅かに柔らかい溜息をついた。

やはり身体は底冷えしていたのだろう、などということを思いながら、隆也は浸かっている湯の温かさすら忘れてしまいそうなほど緊張していた。

最後に異性と入浴したのはいつだったか、今から十数年前に、母親と入ったのが最後だったように思う。

それが、今一緒に入っているのは家族ですらない。14歳の少女だ。

14歳ともなれば、大抵は第二次性徴が始まっているだろうし、



(その、イロイロと、マズイんじゃないか?)



そんなことを脳内メモリの残りで辛うじて思ってみたが、しかし既に遅すぎる。

今、こうしてその14歳の少女と風呂に入っているという事実は、誰にも曲げられない隆也の現実なのだ。

1メートルと離れていない場所に、一糸纏わぬ姿の少女がいるというのは、精神衛生上なんともよろしくないことだ。いや別の意味では非常によろしいのだが。



「……タカヤ」

「……なんだ」

「見やがったら、ぶち殺しますからね」

「……見ねえよ」



隆也も、さすがに命は惜しいのだった。

仮に、こんな状況は金輪際訪れないとしても、命を粗末にしてまで見たいものではない、と思う、多分。



「そうですよね。巨乳好きのタカヤは、私みたいな洗濯板には興味ありやがりませんもんね」



なんだか、その口調は隆也をからかうような調子だった。

やはり、あの壁紙は、誤解されるのに十分な説得力を持っていたらしい。

うーん、Eカップ恐るべし。

少しだけ言葉を交わしていたら、動悸が治まってきていた。

ラウラの語調があまり変わらなくて、変に意識し過ぎずに済んだのが幸いした。



「……別に、俺は巨乳好きでもなんでもねえよ」



呟くように、そんな言葉が漏れていた。

風呂に入っているためか、隆也には少しずつ心にゆとりが出来始めていた。

だがそのせいか、普段なら自動的にシャットアウトされて絶対に言わないような余計な一言まで漏れ出た。



「俺はむしろお前くらいのサイズが嬉しいぞ」



そこまで言ってしまってから、ようやく隆也は「ん? 何か俺、ちょっとアレなこと言ってますか?」と思ったが、口から飛び出した言葉を引っ込めることなど出来るはずがない。

一瞬、ラウラはきょとんとして「え?」と言ってから、ぼっと頬を真っ赤にして、間髪入れずに、



「や、やらしいです。不潔です」



なかなかに痛いところを突いてくる。

だが、隆也は半ば開き直ったように大っぴらな声で、



「俺くらいの男はみーんなやらしいんだよ。やらしくない奴なんて、きっとそいつは不能だ不能」

「……それじゃ、タカヤは私のカラダで興奮しやがりますか?」

「ああ、するね。大いにする。さっきから心臓がバクバクいって言うこと聞きやしねえし、まともな思考が保てねえよ」

「前半はともかく、後半の方は、きっと元からですよ」



優しい声で、ラウラが毒を吐いた。

「かもな」と返して、隆也はニヤリと苦笑する。

もう隆也は、自分で言うほどの緊張はしていなかった。

なんだか和やかな気分で、少し歳の低い妹と会話しているような感じがした。

唐突に、シャワーの音が途切れた。



「……入るから、もっと隅の方に縮こまりやがれです」



和やか気分が、一瞬にして終わった。

過ぎ去ったと思っていた緊張はあっさり舞い戻ってきて、胸が内側から破れそうになる。

激しく狼狽した隆也は、わざとらしく何度も咳払いをした。



(おおおお落ち着け俺。だから、緊急事態にこそ必要なのは冷静な思考と適切な判断だ。よし、まずは深呼吸。ひっ、ひっ、ふぅー。ってこれは違ったぁー!)



ものの見事に混乱しながら、隆也はラウラが入れるように出来るだけ詰めてやった。

浴槽の大きさは、隆也一人だけでも膝を折り曲げずに入ることは出来ないほど狭いのだ。



「後ろ向きになりやがれです。互いに背中合わせになれば、少しは恥ずかしくないですよ」



ちゃぷり。

隆也も浸かっている湯の中に、ラウラが足を差し入れてきた。

そのままぱしゃりと小さな飛沫をあげて、全身が水に埋まる。

現在の状況を一言で表現するなら、窮屈の二文字ほど適切な表現は無かった。

どんなに二人が身体を縮こまらせても、どうしても互いが互いの身体を背中で押し合うような形になってしまう。

相手の心臓の拍動まで、肌を通してじかに伝わってくるようだった。

そんな状況でも、照れ隠しなのか何なのか、ラウラの毒舌は健在だった。



「まったく、狭い風呂です。予想は出来てましたけど、さすがにボロアパートです。築五十年にもなるのに、部分部分で改築したりするから、時代に取り残された技術がこんな風に現役だったりしやがるです。でもきっと家賃は高いんですよ」

「ほっとけ!」



どうせ四畳一間に風呂トイレ付きで月10万だよちくしょう。

だが、風呂と共用じゃないトイレがついていて、しかも都心には近いという立地条件から考えると、これでもそれなりに安い方なのだ。

日当たりも結構良く、晴れた日には洗濯物がよく乾く。

これ以上文句を言ったなら、大家さんにしばかれてしまうではないか。



「タカヤ。ところで、少し湯が熱すぎるです」

「熱い? マジか」



設定温度は40℃にしてある。

正直な話、普段隆也が入っているよりも3℃は低い。



「別に、水入れてもいいけど、少しぬるくなりすぎやしないか?」

「私の家では、もっと入りやすい温度だったです。口答えしやがるなです」



きゅっとひねった蛇口から勢いよく水が流れ出す。

跳ねた水が少しかかったのか、「ひゃあ」とラウラが小さく声を漏らした。

ちくしょうめ、かわいいぞ。



「でも、やっぱり冷えた身体には風呂が一番です。この時期浴槽に湯を張らないなんて、正気の沙汰とは思えんのですよ」

「わかってないな。目先の利益より、後々に先立つものを残しておくためには、あえて狂気に身を置かなくちゃならねえこともあるんだよ」



先立つもの=生活費

どこか哀愁を漂わせる口調で言うと、ラウラはそれを鼻で笑った。



「明日のために今日を犠牲にするなんて、哀しい人間の性です」

「そうは言うけどな、ラウラ……」

「私は、今日だって、幸せでいやがってほしいですよ」



隆也の言葉を制するように、ラウラは一瞬語調を強めた。

その言葉の響きは他と違って聞こえて、隆也は思わず言葉を失う。

ぴちゃん、と水滴が落ちた。

あれほど暴れていた心臓はいつの間にか落ち着きを取り戻していて、互いの息づかいだけが強く意識される。

せっかくの風呂だったが、もう湯よりも体温の方が高くなっているような気がした。

一秒が一分のように感じられ、そして一分は一秒のように感じられた。



「……タキャヤ」



かんだ。

それはもう、誤魔化しようがないほどに。

二人とも黙っていたため、その言葉は風呂場に思い切り響いた。

ブフッと隆也が思わず吹き出すと、静かだった空気は粉々に砕け散っていった。

二人の間で、初めから静寂などというものはサドンデスの状態だったらしい。



「わ、笑ってんじゃねえよです! タカヤが急に黙り込みやがるからいけないのですよ! だから、な、なにか、こう――――」

「どきどきした?」

「っな!? そ、そんなわけないです! 自意識過剰も大概にしろよです! 私をからかいやがるなんて、お前には100億万年早いのですよ!」



その反応から、ラウラが赤面しているであろうことは容易に想像できた。

ふっと。

まるで月が雲から顔をのぞかせるように、隆也の中である衝動が湧き上がろうとしていた。

後ろ向きてえ。

ありていに言うと、ラウラを、見たかった。

余すところなく、その透き通るような肌を、肢体を、眺め回したかった。

その衝動を、思ったよりは強かった理性で必死に抑え付ける。

もしかしたら、単に意気地が無かっただけかもしれないけど。



(うう、さっきは見ねえとか言ったけど、正直、本当は見たい。見たいさだって男の子だもん。見たら多分ぶち殺されるんだろうけど。ラウラって有言実行タイプだろうしな。わざわざ自分から死亡率100%の選択をするのは常識的に考えて馬鹿げてる。それはわかってる。でも据え膳食わぬは武士の恥って言葉もあるんだよな。く、くそ、俺は一体どうしたらいいんだ? 誰か、誰か教えてくれ! 神様、仏様、※××様ー!!)



※読者



隆也は、しばらく理性と本能の間で激しく揺れていた。

こんなに葛藤したことが今までにあっただろうか、いやない。

まさに今、隆也は自分自身の人生の分岐に立ち会っているのだった。

そして、ついに隆也は覚悟を決めておもむろに立ち上がり、



「……俺、出るわ」



電光石火の速度で浴室から退却した。

『選択:見ない → 甲斐性無しルート確定』

そんな文章が頭の中に浮かんできた。

ゲームのやりすぎだと自分でも思う。

でも鬼畜ルートよりは数百倍マシだろうと自分を納得させた。

浴室の外は、滅茶苦茶寒かった。



「タカヤ? もういいんです?」



何がもういいのか聞き返す余裕は、今の隆也には残されていなかった。



「ああ、残り湯は洗濯に使うから、栓は抜くなよ。あとお前の着替えを持ってきてやるから、もうしばらく入ってろ。全部俺の服で悪いけど、少しはマシなのを着させてやるから。でも下着だけは俺のお古で勘弁しろ。この時間に女の子用のショーツをコンビニに買いに行く勇気は、残念ながら俺には無い」

「それが懸命です。それに私も、タカヤの買ってきたパンツなんて、死んでもごめんです」



それじゃ俺のパンツをはくのはいいのかよ、とか思ったが口には出さなかった。

静かな水面に、自分から小石を投げ落とすこともない。

適当に全身にタオルをかけて、洗い終えていたトランクスを足に引っ掛けると、ひとまず隆也はラウラの着替えを急いで見繕うことにした。



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