第五十八話「すれちがう心 後編」
ククルーの病室を出たイリスの足取りは軽かった。
言うまでもなく、心配していたククルーの傷が、命に関わるものではないと知ったためだ。
自らの手でククルーを傷つけてしまったことを忘れたわけではないが、
しかし、長く冒険を続けていればそういうこともあるに決まっている。
今回のことを決して忘れずに、また同じことを繰り返さないように学べばいい。
イリスは物事を考えたり、覚えたりするのは苦手だったが、
半ば感性で動いているためか、一度経験したことに対する理解力は高かった。
(クーちゃんの怪我が治ったら、今度はどこに行こう? クーちゃんに聞いとけば良かったな)
そう考えながら、静かなターミナルの通路をてくてく歩いていく。
次の冒険のことを考えると、イリスの思考は別の世界からなかなか出て来られなかった。
そのため、目の前の曲がり角の先の誰かの気配に気が付かなかった。
「どういうことですの!?」
ターミナル全体が震えたのでは、そう思わされるほどの怒声が耳に飛び込んできて、イリスは数瞬歩みを止める。
今の声は、聞き間違えようもない、エンジェレットの声だ。
イリスはその先に歩みを進めるのを、少しだけ迷った。
記憶が少し曖昧だが、エンジェレットにも多少なりとも迷惑をかけてしまったのはわかる。
エンジェレットと面と向かって話すまでに、もう少しだけ心の整理をつけたかった。
しかし、エンジェレットの本気の怒声など初めて聞いたため、
イリスの好奇心は、その原因を探る誘惑には勝てず、曲がり角から少しだけ顔を出して、先の様子を窺うことにする。
曲がり角の先、テーブルと椅子の乱立する休憩室のようなところで、使用されているテーブルが一つ。
テーブルを囲んでいるのは四人、エンジェレット、それにサーザイトとユユもいる。
三人の視線は、栗色のロングヘアの女性に向けられていた。
着ている服から察するに、ターミナルのヒーラーだろう。
廊下で何人も同じ服を着た人とすれ違っていたので、イリスにもそれは察しがついた。
サーザイトやユユがいることもあって、その場に出て行かなくて良かった、などと思いながら耳をそっと澄ませる。
「落ち着け、エンジェ。お前が冷静さを欠いてどうする」
「落ち着いていられるはずありませんわ! こんなこと、認められるはず……」
「『エンジェ。心を静めて欲しいですの。私も先生も、少なからず動揺してますの』」
「……っ」
ユユのその言葉に、エンジェレットは幾分落ち着きを取り戻したようだった。
だが、浮かしかけた腰を下ろしたものの、まだ視線はあちこちに移り、定まらない。
並びの良い歯をぎりと噛み締め、明らかに冷静とまでは言い難かった。
その顔に、行き場を失った怒りがまだ浮かんでいる。
エンジェちゃんらしくないな、などとイリスは思う。
「いいかしら? もう一度言うけれど」
ヒーラーの女性は、三人の顔を順番に見つめてから、口を開いた。
「ククルーちゃんは、もう冒険者としてはやっていけないわ」
思考が、途絶えた。
(――え?)
聞き間違えだろうか、とイリスは思う。
自分の頭が悪いことは、イリスはもちろん自覚している。
しかし、まさか耳まで悪いとまでは思っていなかった。
そう思いたかった。
出来損ないの耳と頭に、次々と言葉が飛び込んでくる。
「だから、それがどういうことかって聞いてますのよ……! ククルーは治るんじゃなかったんですの?」
ともすれば噴き出しそうになる感情を押し殺したように、エンジェレットは問う。
その視線で人が殺せるのではと思わせるような、そんな目をしていた。
そんなエンジェレットの視線を正面から受けながら、あくまでヒーラーの女性は平静を保ちつつ言葉を続ける。
「確かに、傷は治るわ。体力が回復すれば、ターミナルを出ても問題ない。
でも、彼女……ククルーちゃんは、神経にまでダメージがいってるの。
傷は治っても、失われた身体機能までは戻ってくれないわ」
「どうにもならないのか?」
サーザイトが口を開く。
一片でも希望があれば、それをどこまでも追いかけんとする覚悟が見て取れた。
しかし、その希望はあっさり打ち砕かれる。
「時間をかければ、手の力は以前の八割程度までは回復するかもしれないけれど……自分の足で歩くのは、もうほとんど無理ね」
「あなた……あなた、ヒーラーでしょう? なんとか出来ませんの?」
エンジェレットの声にも悲痛なものが若干混じる。
栗色の髪が、左右に小さく揺れ動いた。
「失われた腕や脚を生やすのが不可能なように、失われた身体機能を取り戻すのは、私たちにも出来ないわ。
……少しでも助けられる方法があるなら、私たちだって、なんとかしてあげたいわよ」
返答は、重々しかった。
思わず、エンジェレットも視線を再びそらし、口をつぐんでしまう。
その視界に、不意に見慣れた髪が力なく垂れていたことに、気付いてしまった。
「イリス……」
「なんだと?」
サーザイトとユユも、エンジェレットの視線につられて顔を向ける。
イリスは、もう姿を隠していなかった。
表情もなく、ただ今の会話だけを反芻し、その上で否定しようとしていた。
「嘘……だよね、今の話。だって、さっきクーちゃんに会ったけど、元気そうだったよ?」
「……彼女、自分の足で立ち上がれた?」
思い出してみると、ククルーはほんの少し離れただけのイリスの近くに寄るためだけに、わざわざ魔法を使用していた。
あまり意識していなかったが、自分で歩けなかったからと考えるとつじつまは合う。
聡明なククルーのことだ、目が覚めてすぐそのことには気付いただろう、とイリスは思う。
それなのに、なぜそれを自分に言ってくれなかったのか。
なぜ。
なぜ。
なぜ。
――決まっている。
イリスのことを、
(私を、気遣ってくれたんだ……)
そんなことにも気付かずに、ククルーのことを次の冒険に誘っていたのだ。
ククルーには、もう次なんてなかったのに。
それでもククルーは――また一緒に、と――そう言ってくれた。
全てはイリスのために。
そう思い至ったとき、イリスの心は、完全に凍りついた。
先ほどまでの熱さなど、遠い日の夢のように思えた。
「イリス……イリス!」
「イリス、しっかりなさいませ!」
「『イリス』」
皆の声も、粘度の高い空間の向こう側で響いているようにしか聞こえない。
こんなにも消えてなくなりたいと思ったのは、イリスは初めてだった。
一度は怒りによって、狂気と闇に支配されたイリスの心。
そこに今住み着いたのは、どこまで落ちても底が見えないほどの、空虚だった。
そして、再びイリスがターミナルを訪れなくなってから、更に一週間が経った。
「具合はどうですの?」
ハーブティーにそっと湯を注ぎながら、エンジェレットはククルーに目を向ける。
以前に比べて、明らかに血色が良くなってきている友人の姿に、
エンジェレットは多大な安堵と、僅かな申し訳なさを感じていた。
それに気付いているのか、ククルーはほんのりと柔らかな笑顔を浮かべて
「随分良くなりました。毎日お見舞いに来てくれて、本当にありがとうございます」
「水臭いこと言わないでくださいませ。あなたと私の仲じゃありませんの」
頬を薄く染め上げたエンジェレットは、フイとそっぽを向きかけてから、ククルーに芳香漂うカップを静かに差し出す。
「私とエンジェさんの仲、ですか……」
ククルーはふと窓の外の空を見やる。
その視線の向こうに誰を見ているのか、エンジェレットにはすぐにわかった。
「イリス、まだ部屋から出てこないんですか?」
「……ええ」
あれからすぐ、エンジェレットはククルーに、イリスがククルーの体のことを聞いてしまったことを教えた。
ククルーは多少驚いたものの、意外なほど冷静にその事実を受け入れた。
エンジェレットが気になったことといえば、そのときのククルーの表情が驚きというよりも、むしろ後悔の色が強いように見えたことだ。
自分よりも三つ下とはいえ、自分以上に思慮深い友人が何を思ってそんな顔をしたのか、
そこまではエンジェレットの想像は及ばなかった。
ただ、イリスがククルーの顔を曇らせているという事実が、強くエンジェレットを苛立たせていた。
エンジェレットの苛立ちの理由は、それだけではなかったにしても。
「エンジェレットさん、お願いがあるんですけど」
「なんですの? なんでも言ってくださいませ」
「そこに、私のマントがあると思うんです」
部屋の隅に置かれているかごの中に、綺麗に畳まれたククルーのマントがあった。
ククルーがターミナルに入った際に一度洗濯をしてあるので、青みがかった黒が一層鮮やかに見える。
「そのマントを、イリスに渡しておいてほしいんです。
私はもう冒険に出られないけど、せめて私のマントだけでも、イリスと一緒に、イリスに着てみてほしい。
私には少し大きすぎるくらいだったから、きっとイリスにはぴったりだと思うんです」
「……なんでも言って、って言いましたものね」
「え?」
ククルーの声を聞こえなかった振りをして、エンジェレットは立ち上がる。
「わかりましたわ。確かにイリスに届けますわよ」
「はい、ありがとうございます、エンジェさん」
「お礼なんていいですわ。それじゃ、また来ますわね」
エンジェレットはククルーのマントを大切に抱えながら、その嬉しそうな声から逃げるように病室を出た。
あの聡明な友人に、自分の心の中に燻り始めた青い炎の存在に気付かれるわけには、いかなかった。
イリスは布団に包まったまま、ぼんやりと天井を見上げていた。
何をする気にもなれず、部屋から一歩も外に出ていない。
食事は、サーザイトやユユが運んできてくれていたような気はしていたが、ほとんど手をつけていなかった。
食欲というものがなんなのか、それすら今のイリスには理解し難いものになっていた。
今ここにいる自分が、本当にここにいるのか。
それすら次第にわからなくなっていた。
(……クーちゃん)
時折思うのは、ククルーとの思い出。
無表情の中に垣間見える笑顔や恥じらいを見つけ出すのが、イリスは楽しかった。
あの子のことを楽しませたい、喜ばせたい、もっと好きになりたい。――仲良くしていたい。
そう願っていたはずの相手の未来を、自分の手で奪ってしまったのだ。
そんなことを考えそうになり、またイリスは思考のスイッチを切る。
また眠ってしまおう、そうすればなにも考えなくて済む。
そう思い、瞼を下ろそうとしたときだった。
「イリス、入りますわよ」
ノックもなしに、エンジェレットが部屋に入ってくる。
入ってきてから言うセリフじゃないよ、と頭の中で誰かが言った気がしたが、
それが自分の無意識だということに今のイリスが気付くことはなかった。
「まったく、そういつまでも引きこもっていたら、そのツインテールもカビますわよ」
軽口を叩きながら、エンジェレットはベッドのすぐ傍にやってくる。
お喋りしにきただけなら早く帰ってくれないかな、などと思っていたイリスの前に、すっと何かが差し出された。
深い、それでいて滑らかな黒。
自分は、これを知っている。
風に翻るイメージが、一瞬にして脳裏をよぎる。
「ククルーが、あなたに渡してほしいと。あなたに着てほしいと言ってましたわ」
「……受け取れないよ」
喉から絞り出した声は、か細い。
一週間も食事を取らず、水分もほとんど取っていなかったためか、喉がすっかり乾いていたためだ。
「私に、これを着る資格なんて、ないよ……」
「ククルーが、あなたに着て欲しいって言ってますのよ?」
「クーちゃん……。どうして、私に優しくするの……? 私は、クーちゃんにひどいことしちゃったのに。
私、もうクーちゃんに合わせる顔なんて、ないよ」
「だから見舞いにも行かずに、こんなところに閉じ篭ってますの?」
返事はない。
乾いたイリスの目が、僅かな湿り気を帯びた、気がした。
エンジェレットがそれを意識出来たのは、本当に刹那だった。
「もう……消えちゃいたいよ」
甲高い破裂音が、部屋中に瞬時に広がった。
イリスの視界がぐらぐらと揺れる。
視線を戻すと、エンジェレットが、右手を振り切っていた。
そこで初めて、イリスはエンジェレットに平手打ちされた事実に気付く。
叩いた側のエンジェレットの方が、心苦しそうな、苦痛な表情を見せていた。
「ふざけたことを言ってるんじゃありませんわよ! あなたがそんな軟弱者だとは思ってませんでしたわ!」
怒り、というよりは、それは落胆に近い響きを持っていた。
「確かに、あなたにククルーのマントを着る資格なんてありませんわ。
でも、今のあなたには、それを受け取らない資格もありませんのよ!」
「え、エンジェちゃん……」
キッとエンジェレットはイリスを睨みつける。
イリスが初めて直接目にする、エンジェレットの本気で怒った目。
友人だというのに、体が思わず震えた。
「情けない、なんて覇気のない顔かしら。それが戦士の、冒険者の顔ですの?」
その目には、怒り以外に、落胆や悲しみや、様々な感情が見え隠れしている。
「イリス、故郷に帰りなさい。そんな顔のまま、二度と私の前に立たないでくださいませ」
イリスは、何も言い返せなかった。
何も言い返せないまま、ククルーのマントだけを抱えて、覚束無い足取りで部屋を出るしかなかった。
残されたエンジェレットは、イリスの使っていたベッドに目を落としていた。
まだ微かに暖かい。
その名残が、まるで自分たちの思い出のように確かで、それでいて儚く、
今にも消え入ってしまいそうで、エンジェレットは奥歯を強く噛み締める。
「エンジェ? 今、イリスが出て行ったみたいだが……何があったんだ?」
エンジェレットの声が届いたのか、今頃になってサーザイトがやってきた。
その後ろに、ユユの姿も見える。
ユユの暗く淀んだ瞳が、小さくくりくりと動いた。
「『エンジェ……泣いてますの?』」
「……わけのわからないことを!」
振り返ったエンジェレットの顔は、いつにも増して精悍な顔つきだった。
「ククルーのことは残念ですけれど、その分も私が頑張ってしまいますわよ!
泣いている暇なんてこれっぽっちもありませんわ!」
イリスの分も、とは言わなかった。
それは、イリスに対して強烈な怒りを感じていたためか。
それとも。
「クス……『やっぱり、泣いてますの』」
「ユユ?」
「……『エンジェの心が泣いているのが、私にはわかりますの。私も、なんだか胸が痛みますの。
これが、悲しいってことですのね。そうでしょう、先生?』」
「ああ、そうなんだろうな……」
ぼさぼさの頭を右手でくしゃりと潰して、サーザイトはそう相槌を打った。
何も出来ない自分自身に、サーザイトも自身の無力さを実感していた。
「まあ、今日もひとまず休もう。もう少し落ち着いてから、今後のことは決めればいい」
「『ですの。エンジェも、早く部屋に戻って一眠りするといいですの』」
「……ええ、そうしますわ。ありがとう、二人とも」
そう言いながらも、しばらくエンジェレットはその場を動かなかった。
頭の中で、自身の考えを整理するためだ。
ククルーに関しては、本人がしっかり現状を受け入れているようだから、自分たちがこれ以上騒ぐのは、本人に悪い。
イリスに対して厳しい態度を取ってしまったことも、あのままではイリスはダメになってしまうだろうし、
仮に戦場に立たせたとしても、あの状態ではまともに戦うことも出来ないまま命を落とすのは必至だ。
現状では、故郷に帰らせてしまうのが一番安全。
そこでゆっくり休養を取るといい、と思う。
戻ってこなくても、それはそれでいい。
残念ではあるが、あんなしょげた顔を見せられるより、数倍マシだ。
ククルー、イリスのことはいい。
エンジェレットにとって問題だったのは……自分自身。
「……っ!!」
鈍い音。
エンジェレットは、自身の膝に力任せに拳を叩き付けた。
「未熟……この、未熟、未熟者……!」
エンジェレットは、悔いていた。
コルバートと初めて対峙したあのとき。
そこでコルバートを打ち倒せるだけの力があれば、そのときにククルーを取り戻すことが出来たはずだった。
今のこの状況も、なかったはずだ。
ククルーもイリスも、助かっていた、何事もなく二人は冒険を続けていけた。
(私が――未熟だったせいで!)
友人を助けられるだけの力を得る、ただそれだけのために戦いに身を投じるようになっていた。
もう、ククルーもイリスも、自分の傍にはいない。
けじめをつける必要があった。
「コルバート=ブラッドリィ……私は、あなたを許しませんわ」
あの黒衣の男は、必ず自分が打ち倒す。
例え、勝つ可能性がゼロパーセントでも、必ず。
それも、命と引き換えにすることなく。
覚悟を心に刻み、エンジェレットは再び思考する。
コルバートと自分の実力の差は歴然としている。
まともに戦っては、一太刀浴びせる程度のことは出来ても、到底勝つことなど出来はしない。
それに、コルバートが今どこにいるのか知る術が、エンジェレットにはなかった。
コミュニティか、あるいはまたローレンシアを頼ることになるのだろうか。
結論を出しかけた、そのときだった。
「やあ、ご無沙汰だね」
ばっと顔を上げる。
窓の縁から、ひょっこりと顔を出している少年がいた。
エンジェレットは警戒を強める。
思考にふけっていたとはいえ、その少年の気配に全く気付くことが出来なかったためだ。
間違いなく、只者ではない。
じりじりと後退しながら、いつでも迎撃できるように右手で鉄扇の感触を確かめる。
「そんなにこわがらないでよ。何もしないからさ。っていうか、僕のこと覚えてない? ああ、自己紹介はまだだったかな?」
少年はニヤリと笑みを浮かべる。
その幼い外見には似つかわしくない、まるで爬虫類のような気味の悪い笑み。
エンジェレットが少年の顔を思い出すのには、少しだけ時間がかかった。
そういえば、前に一度だけ会ったことがある。
「あなたは、確か……」
「ねえ、エンジェレットちゃんって言ったよね。コルバートの居場所が知りたいんだろ? 案内してあげようか」
その言葉は、天使の施しだったか、はたまた悪魔の甘言だったか。
エンジェレットにとっては、どちらでも良かった。
こくりとエンジェレットが頷いたのを見て、少年は卑屈な笑みを一層深くする。
少年の名はマルス・サラマンド。
エンジェレットがリズと共に襲撃した盗賊団『竜子』の頭領だった。