第五十七話「すれ違う心 前編」


 ククルーが目を覚ましたのは、傷を負ってから四日目の早朝のことだった。

 首だけを動かして辺りを見回し、自分が白い部屋にいることを確認する。

 どうやらここはターミナルの一室らしい。

 ククルーは自分で回復魔法が使えることもあってここに入るのは初めてだったが、

 クエスターズ入学の際にもらったパンフレットにその施設内容と内装が紹介されていたことを覚えていた。

 冒険者を志す者にとっては、ターミナルの存在は知っておいて損はない。

 そこまで考えてから、ククルーは自分がブレイヴァニスタにいることを知る。

 頭がしっかり回っていることを確かめてから、上体を起こそうと腕に力を込めた。

 体が重い。

 関節の一つ一つが錆付いているようで、上手く動かせない。

 まるで自分の体ではないようだった。

 それでも必死に体を起こそうと努めてみる。

 そのときになって、ようやくククルーは誰かが自分の手を握っていることに気が付いた。

 首を微かに持ち上げて、その主を視界に入れる。

 自分の膝の辺りで、エンジェレットが規則正しい寝息を立てていた。



(……もしかして、ずっと看病してくれてたのかな)



 どのくらいの間眠っていたのだろう。

 目に映るエンジェレットの自慢の縦ロールの形はすっかり崩れていた。

 思うに、少なくとも数日間は自分についていてくれたのだろう。

 ククルーは空いている方の腕を伸ばして、その紫色の髪にそっと触れた。



「ん……」



 長いまつげが微かに動いたが、エンジェレットは目を覚まさなかった。

 起こさないように気を付けながら、優しくその頭をなでる。

 指先に感じる感触は若干ぱさついていたが、それでも指の間を髪が通っていく感触はどこか心地よかった。

 エンジェレットから手を離すと、ククルーは改めて部屋を見回す。

 起き上がろうかとも思ったが、自分の手を握るエンジェレットの力が意外に強く、

 無理に振り解くのも気が引けたのでやめた。

 それに、自分の手を包む暖かさと柔らかさをもう少し長く感じていたかった。

 その願いは、部屋の外からの微かな足音によって破られた。

 何の前触れもなくエンジェレットの目が開く。

 目が合った。



「……おはようございます。エンジェさん」



 返事はない。

 代わりに、息が詰まるほど強く抱きしめられた。



「寝坊にもほどがありますわ」



 ククルーを解放すると、エンジェレットはふいとそっぽを向きながら言った。

 それが彼女なりの照れ隠しであると気付いたククルーは、思わず口元を緩めてしまう。



「すみません。低血圧なものですから」

「少しずつ克服するよう努めるべきですわ。誰かと行動を共にするとき、迷惑をかけることになりますわよ」

「……努力はします」

「結構ですわ」



 エンジェレットの笑顔に、ククルーも笑顔で応えた。











 ククルーが目を覚ました。

 そのニュースは、宿で朝食中だったサーザイトたちに伝えられた。

 サーザイトとユユの二人は、朝食を早々に切り上げ、ターミナルのククルーがいる部屋を訪れていた。



「ククルー、調子はどうだ? ……うっ」



 口元を押さえながら、サーザイトは言った。

 ここまで急いで走ってきたため、胃の中がひっくり返りそうだった。

 ユユはよくわからない力でぷかぷかと浮いていたので、大丈夫そうだったが。



「体力は回復してませんけど、気分は悪くありません。……先生の方がよほど悪そうに見えます」

「……気にするな。すぐ治まる」



 そう言いながら、サーザイトはククルーから顔を背けた。

 直後、再び軽い吐き気を催し、呼吸を止める。



(全く、とんだ失態だな)



 そんなことを考えられる程度には、既にサーザイトは心の余裕を取り戻していた。



「クス……『クー、元気そうで何よりですの。これは朝食に出ていたフルーツですの。ここに置いておきますの』」



 かごいっぱいのフルーツが窓際の棚の上に置かれる。

 カタン、と軽い音を立ててその脇に小さなナイフが添えられた。



「ありがとうございます」

「『気にしなくていいですの』」

「今食べるなら、私がむいてさしあげますわよ」

「……いいですよ。食べたくなったら自分でやります」



 そう言って断ったククルーに、エンジェレットは不満そうな顔をする。



「食べたくないならいいですけれど、あなたはもう少し人に迷惑をかけるべきですわ」



 そんな無茶苦茶な。

 口にも態度にも出さず、ククルーは思った。

 しかし、それと同時に今の彼女らしい発言だとも思った。

 初めて会ったときは、こんなに優しい人ではなかったような気がする。

 そもそも彼女と最初に会ったとき、自分はそこまで他人のことを見てはいなかったとも思う。

 なぜ今更になってそんなことを考えているのだろう。



「ところで、イリスは?」



 その名前を出した瞬間、僅かに沈黙が訪れた。

 ククルーは三人の顔を順番に見つめる。



「もしかして、イリスの身になにか……」

「いや、そういうわけじゃない。今は宿で休んでいる」

「……そうですか」



 ククルーは安堵した。

 この場にいないこと自体は残念だが、無事でいてくれたならそれでいい。

 互いに生きていれば、すぐにでも会うことが出来るから。

 そう思うククルーは、イリスが自分から「会いたくない」と言って、

 自分の眠っていた四日間の内に一度たりともターミナルを訪れていないことを知らない。



「はいはい。ちょっといいかしら」



 部屋の扉が勢いよく開いたかと思うと、一人の女性が部屋に入ってくる。

 色素の薄い栗色の長髪をなびかせながらククルーの傍に歩み寄る。

 彼女はローレンシアの口利きでククルーの治療をすることになった熟練のヒーラーだった。



「ちょーっと『見る』からね。じっとしててちょうだいね」



 そう言ったかと思うと、彼女はククルーの胸元にそっと掌をつける。

 一流のヒーラーは、相手の体に触れることで相手の体の状態を直接把握出来るらしい。

 触れる部分はどこでもいいはずなので、胸元を触るのは単に彼女の趣味だろうと、なんとなくサーザイトは思っていた。



「うん。傷も大体治ってるみたいだし、あとは体力が戻ればこの辛気臭い部屋とおさらば出来るわよ」



 他人の体を治す仕事についている割に、気遣いの欠片も見当たらない口調でヒーラーは言った。



「そういうわけで、ちょっと話したいこともあるから、部屋出てもらえるかしら。

おチビちゃんも、今はもう少し寝てなさい。そうすれば少しは胸も育つかもしれないわよ」



 余計なお世話です――ククルーがそう言おうかどうか迷っている間に、

 ヒーラーはサーザイトを連れて部屋を出ていった。

 ドアの外から聞こえてくる喧騒が少しずつ離れていく。

 なんとなく淋しさを感じながらも、普段通りのテンションにククルーは溜息を漏らした。

 自然と頬が綻んでしまう。



「……あ」



 くう、とお腹が鳴り、小さく声を漏らした。

 食欲が戻ってきたのは良いことだ。

 目に入ってきたのは、ユユが持ってきてくれたかごいっぱいの果物。

 爽やかな香りが微かに鼻腔をくすぐってくる。



(せっかくもらったものだから、遠慮なくいただこうかな)



 そう思って、ベッドから起き上がろうと足を下ろす。

 ククルーが自分の体をしっかり動かせたのは、そこまでだった。

 立ち上がろうと足に力を込めた瞬間、上体がぐらりと揺れたかと思うと、そのまま床に崩れ落ちてしまう。



「痛い……」



 転んだ際に打ちつけた右肩が鈍く痛んでいた。

 起き上がろうとしてみるが、腕にも力が入らない。

 自分の体を支えることが出来ない。

 その事実をぼんやりと自覚しながらも、ククルーはさほどの衝撃を受けなかった。

 口元でぼそぼそと呪文を唱え、ふわりと舞い上がった風がククルーの体を再びベッドの上に持ち上げる。

 ククルーは自分の掌を見つめてから、ぎゅっと力いっぱい握り締めた。

 その力は、卵も握り潰せそうにないほど弱い。

 目覚めたときから、なんとなく『そんな』気はしていた。

 溜息が部屋の空気に溶けていく。

 軽い虚脱感に襲われて、背中からベッドに倒れ込んだ。

 と、そのとき、部屋の扉が控えめに叩かれる音が耳に届いた。

 緩慢な動きでなんとか上体を起こそうと試みてはみたもののそれは敵わず、

 不躾かとは思ったが、仕方なくククルーは寝転がった状態で「どうぞ」と声だけを発する。

 ほとんど音もなく扉から体を滑り込ませてきたのは、



「……イリス」

「…………」



 返事もせず、イリスは俯いたまま視線を合わせようともしない。

 その小さな背中で、パタンと扉が閉まる。

 前髪に隠れたイリスの表情を窺い知ることは出来なかったが、

 なんだかイリスが今にも泣き出しそうな、そんな風にククルーには思えた。

 目の前の友人が、自分よりも小さく見えた。



「イリス……近くに来て」

「……ここでいいよ」

「イリスの顔を見て話したい」



 ククルーの声に、イリスは再び黙りこくる。

 その意志が堅いと見たククルーは、ぼそぼそと呪文を口ずさむ。

 途端、ふわりと風が舞い上がり、ククルーの小柄な体をイリスの目前に運んだ。

 イリスは驚き、白い喉を微かに上下させる。



「そんなに暗い顔しないで、イリス。私は元気だから」



 小刻みに震える小さな肩に、ククルーはそっと声をかける。

 手袋が今にも破れそうなくらい、イリスの拳が強く握られた。



「……なの……そんなの、無理だよ……!」



 顔を上げたイリスの目尻には、大粒の涙が光っていた。

 それをこぼさんと必死に我慢して、イリスは大きな目にぐっと力を込める。

 嗚咽をもらしそうになる度に、唇をきゅっと噛み締める。



「クーちゃんがこうなったのは、私のせいだもん……。私がクーちゃんを傷つけて、そのせいで」

「イリス」



 強い視線がイリスを真っ直ぐに見つめていた。

 金色の瞳に映る自分自身を、イリスも見つめ返す。

 そうしているだけで、不思議と落ち着きを取戻し始めている自分にイリスは気付く。

 窓の外から、穏やかな風がふっと舞い込んでくる。

 部屋の中の時間だけが緩慢になったような錯覚にイリスはとらわれた。

 しかし、息苦しさはなく、むしろ心地良ささえ感じる。

 気が付けば、涙はすっかり引いていた。



「もし、私がイリスに同じことをしたら、イリスは私を怒る? そんなことをしたら、もう友達じゃない?」

「そんなわけないよ!」



 即答だった。

 きっぱりはっきりとした声が、部屋の外に漏れる勢いで響く。

 にっこりとククルーは笑顔になる。



「うん……そうだよね。私もそう思うよ」

「あ……」

「だから、イリス」



 そしてまた、ククルーは心からの願いを口にする。



「笑って」



 あえて言わなくても、以前は叶えられ続けていた願い。

 仲間を失い、自分も傷つき、自らの手で友人をも傷つけてしまったことで、途絶えてしまった願い。

 前回はついに叶えられなかった願いは、



「……うんっ」



 そうなるのが当然だったかのように、あっさりと叶えられた。











「でも良かった。クーちゃんが元気そうで」



 心から安心したといった感じの声をイリスは漏らす。

 実際、ククルーの怪我は命に関わるものではなかった。

 そのことを理解したイリスの顔も、自然と綻ぶ。

 それにつられて、ククルーの表情も穏やかなものになる。

 自分が望んでいたものがここにある、そのことからククルーは確かな充足感を得ていた。

 だからだろう。



「怪我が治ったら、また一緒に冒険に出ようね!」



 イリスのその言葉に、素直に頷くことが、ククルーには出来なかった。



「……うん、また、一緒に」



 ぱあっとイリスの顔が明るくなる。

 その顔は、真夏の太陽のように明るく眩しい。

 そのせいだろうか、ククルーはイリスのその笑顔から、つい視線をそらした。



「あっ、ごめんね、あんまり話してたら疲れちゃうよね。今日はそろそろ帰るね」

「うん……またね、イリス」

「うん、またねっ、クーちゃんっ」



 右手を大きく振り上げて、イリスは扉を蹴破らん勢いで部屋を出て行った。

 その足音が遠のいていくのを耳にしながら、ククルーは自問していた。



 ――言うべき、だったのだろうか。



 喉まで出かかっていた言葉。

 それは間違いなく、イリスの顔から笑顔を奪い去る力を持っている。

 ククルーがそれを口にしなかったのは、自分の意志でイリスの笑顔を奪うことに、強い抵抗を感じたためだ。

 イリスがククルーを大切に思っているのと同じく、ククルーもイリスのことを本当に大事な友人だと思っているから。

 つまりそれは、優しさなどではなく、単なるエゴ。

 そのことに気付いていながら、ククルーはついに自らの口からイリスに伝えるべき言葉を届けられなかった。



 それが二人の長い別れの始まりになるとは、まだ気付かないまま。