閑話休題「涙の理由」
ユユがサーザイトと出かける、五分ほど前。
イリスが自分がどこにいるのか思い出すのには、かなり長い時間が必要だった。
天井の木目をしばらく見つめて、自分がベッドの上にいることを確認してから、
ブレイヴァニスタの宿の一室にいることをようやく自覚する。
どうやら眠ってしまっていたらしく、寝起きの頭が重たかった。
上体を起こしてみると、部屋にはイリス以外には誰もいない。
開いた窓の外から吹き込む風がカーテンを揺らす音と、イリスの息づかいの他に音は存在しなかった。
眠ってしまうまでの経緯を思い返そうとする。
「痛……」
途端にずきりと頭の奥に針が刺さったような痛みがはしった。
それはイリスが生まれて初めて経験する頭痛だったが、その未知の痛みに意識を向けたのは一瞬で、
イリスは必死に記憶の糸を手繰り寄せていく。
――自分は、走っていた。
仲間を殺した男を追いかけていた。
あの男を殺そう。
胸の内から湧き上がるその思いに突き動かされて、走り続けた。
そして、見つけた。
あの黒い男を見つけた。
考える間もなく、自分は剣を振りかぶって彼を殺そうと駆け出して。
そして。
「……ああ…………」
自らの手で、ククルーを傷つけてしまった。
その事実を改めて思い出したとき、意外なほど冷静な自分がいることに気付いたイリスは、
自分がひどく冷たい人間になってしまったような気がした。
いや、ただ単に、それ以外に何かを考える余裕がなかったから、そう感じただけかもしれない。
ふと、ブレイヴァニスタに向かう馬車の中で、ククルーをターミナルに入れてもらえるようローレンシアに頼んでみよう、
サーザイトがそう言っていたことを思い出す。
(クーちゃんに……会いたい)
意識するより先に、イリスはそう思った。
だがそれ以上に、ククルーに会うのが怖かった。
彼女の性格は知っている。
ククルーは、今回のイリスの行動を何一つ咎めはしないだろう。
優しく微笑んで、「いいんだよ」と言ってくれる、そんなことはわかっていた。
それはイリスの一番望むことではあったが、一番恐れていることでもあった。
イリスは、自分のしたことをひどく後悔していた。
その自分の行動を許されるよりも、むしろ罵ってほしかった。
どうしてあんなことをしたのか、そう言われる方がずっと気が楽だと思った。
そう思っていながら、大好きな親友にそんなことを言われたくないとも思っていた。
許してほしい。許してほしくない。
笑ってほしい。怒ってほしい。
別々の感情がぶつかり合い、イリスは自分でも自分が何を考えているのか、どうしたいのかの判断がつかなかった。
珍しく思考に耽っていたせいか、ドアがノックされたことに気付くのに数秒かかった。
「『イリス。起きてますの? よろしければ一緒にお茶でもいかがですの』」
ユユの声だった。
せっかくの誘いだったが、今はそんな気分になれなかった。
返事をしようと口を開き、そのまま固まる。
ククルーを傷つけてしまったうしろめたさが、イリスに返事をためらわせていた。
「……『起きているかどうか知りませんから、これは私の独り言ですの。
結果はこうなってしまいましたの。でも、私がイリスでも、同じことをしたと思いますの』」
それだけ言ってから、ユユの気配がドアの外から離れていくのをイリスは感じた。
ユユが自分を慰めようとしてくれたことだけはわかったので、それについては感謝しておく。
それでも心に出来た暗い陰が晴れることはなかった。
再び布団にくるまり、自らの体を抱きかかえる。
眠りに落ちる瞬間、一筋の涙が頬を伝った理由すら、イリスにはよくわからなかった。
結局その日、イリスがその部屋を出ることはなかった。