第五十五話「再会」


 ククルーの体を抱いて泣き叫ぶイリスを、サーザイトはやり切れない思いで見つめていた。



「助けて……! 誰でもいいから、助けてあげてぇ……っ」



 悲痛な叫びが、森に吸い込まれて消える。

 今、この場にいるサーザイト、イリス、ユユ、コルバート。

 その中の誰も、治癒の術を持ち合わせてはいなかった。

 イリスも、それは承知している。

 だからこそ、叫ばざるを得なかった。

 自分自身の愚かさと、無力を。



「……思い出さないか、コルバート」

「思い出すまでもねえよ。ありゃ、あの日の俺達だ」



 目に映るイリスが、かつてパートナーを失った時の自分に重なる。

 死なせたくない、助けたい、なのに何もできない。

 どんなに力が強くても、大切な人一人守れない。



「お前は、これで満足なのか? これまでに、これと同じ光景を数え切れないほど作ってきたんだろう?」

「……否定はしない。それに、謝る気もねえよ。謝ってどうなるもんでもないしな」

「よくそれで俺のことを許せないなんて言えるもんだ」



 コルバートは、ナイフのような目でサーザイトを睨みつけた。

 だが、言葉はない。

 ちょうどコルバートも同じことを感じていたためだ。

 ただ、たとえそうであっても、サーザイトの口からは聞きたくなかった。



「……興が削げた。じゃあな、サーザイト」

「どこに行くつもりだ?」



 立ち上がったコルバートの背に声をかける。

 黒衣は血に染まり、その色をより深いものにしている。

 まるで星一つ見えない曇り空のような色。

 コルバートは、サーザイトの質問に答える代わりに、



「少しだけ、お前にも邪魔されずに考えたいことが出来た」



 そう言い捨てて、夜の森に身を溶け込ませていった。

 その姿は、数々の悲劇を生み出してきた殺戮者には到底見えず、

 まるで知らない町に迷い込んだ一匹の猫のように淋しげに思えた。

 それを見送ってから、再びサーザイトはイリスとククルーに目を向ける。

 喉が潰れてしまったのか、イリスの声はもう声と呼べないほどかすれたものになっていた。

 辛うじて聞き取れるのは、「助けて」、「クーちゃん」の二つのみ。

 あまりの痛々しさに、サーザイトが思わず目をそむけたときだった。



「どういうことですの、これは?」



 反射的に声のした方を向く。

 見慣れた紫の縦ロール、丸い金具のついた服の羽。



「エンジェレット? どうしてここに……いや、そんなことはどうでもいい。それより、ククルーを」



 理由を追求するより、サーザイトはまず言った。

 エンジェレットがどうしてここにいるのか、そんなことは後回しでいい。

 それよりも、今はこの幸運に感謝すべきだ。

 サーザイトが受け持ったクラスの中で、回復魔法が使えるのは、ククルーを除けばエンジェレットしかいないのだから。

 サーザイトの言葉を受けるまでもなく、エンジェレットはすぐさまククルーの傍らに座り込んだ。

 ぼそぼそと呪文を唱えると、その手から淡い光がククルーに注がれていく。

 が、青白くなりつつあった体にはいつまでも血の気が戻らない。



「エンジェちゃん、クーちゃんは、クーちゃんは」

「落ち着きなさいイリス。……やれるだけのことはやりますわ」



 流石に、時ここに至ると、エンジェレットの言葉には力強さがあった。

 その影響があるのか、イリスの呼吸も徐々に落ち着いてくる。

 だが、やはりその姿には全く覇気が感じられない。



「この傷……時間がかかりそうですわ。もっと落ち着ける場所に移動した方がいいですわね」



 処置を続けながら、エンジェレットはサーザイトに視線を投げかける。

 意思疎通には、それだけで十分だった。



「国境を越えるとなると手続きで時間がかかりすぎる。少し距離はあるが、ブレイヴァニスタまで戻るぞ」



 エンジェレットは軽く頷く。



「イリス。ククルーを背負って。出来るだけ頭は動かさないようにそっとですわ」

「う、うん」

「一度ソルトシュワに向かおう。そこから馬車で出るのが一番早い」



 サーザイトが先に立ち、ククルーを背負ったイリスがゆっくりとその後を追う。

 再会を喜ぶ暇もなく、ククルーの顔をエンジェレットは心配そうに見つめる。

 その思考の脇で、ふと別の人物の顔が浮かんだ。



(途中までは、確かに一緒に来ていたはずだったのですけど)



 同行者――リズ・アルベール。

 洞窟を同時に抜け、森に入り込んだときには確かに隣にいた人物。

 だがエンジェレットがサーザイト達に接触する直前、その行方を眩ましていた。

 彼女の実力を考えれば、何も心配がないだろうとは思う。

 ただどうして姿を消したのか、それがエンジェレットにはわからなかった。

 何か。

 優先しなければならない目的でもあったのだろうか?











 光も差さない漆黒の中に、ひっそりと佇む影があった。

 コルバート・ブラッドリィ。

 一際大きな木の根元に腰を下ろしたまま、彼は呆けたように空を見上げていた。

 見上げる先には、何も見えない。

 そんなことにも苛立ってしまう自分自身にすら、コルバートは苛立っていた。



(何をやってるんだろうな、俺は)



 誰かを傷つけるのも、殺すのも、ただ楽しいから続けてきた。

 それが悲しみを生み出していることも、承知していたはずだ。

 なのに、どうして今、自分はこんなにも嫌な気分になっているのか。

 ――もしかして、と思う。



(良心の呵責だ、とでも……?)



 発作的に、コルバートは自らの膝元にナイフの刃を突き立てた。

 一瞬の衝撃の後、焼けるような痛みと一緒に血が滲んでくる。

 今まで、こんな気分になったことは一度もなかった。

 相手が知っている人間だったからだろうか?

 だとしたら、それはそれで自分は最低の人間だ。

 今までも褒められた人間でないことは自覚していたが、それ以下。

 悲しみと後悔ばかりを生み続けるクズ。

 それはちょうど、コルバートの知るサーザイトと同じだった。



「お悔やみですか?」



 顔を跳ね上げた。

 目の前に白い女性が立っていた。

 箒に、エプロンドレス。

 ちりん、と鈴の音が聞こえる。

 立ち上がり、腰の剣をすぐさま引き抜いた。

 物思いにふけっていたとはいえ、声をかけられるまで全く気配を感じられなかった。

 この女――できる。



「ねーちゃん、どこの誰かは知らねえが、こんなところを一人で歩いてると危ないぜ」

「あなたみたいな人に襲われちゃうですか? コルバート・ブラッドリィ」



 返事をする代わりに、コルバートは剣を構えた。

 コルバートは、裏――主に殺しや窃盗、人身売買など、後ろ暗いことばかりしている悪党共の世界では名高い『なんでも屋』だった。

 条件次第で、どんな危険な仕事もこなしてくれる凄腕の用心棒、あるいは暗殺者。

 前回の雇い主が今回のターゲットだった、などというのはざらだった。

 そんな生活をしていたためか、そんな彼を疎ましく思う者も決して少なくない。

 彼を亡き者にしようと、これまでにも何度か刺客が送り込まれてきたこともある。

 今回もそういう手合いだろう――そう思った。



「そんなに怖い目をしないでほしいですか。私は少しあなたとお話に来ただけですか」

「……話だと?」

「そうですか」



 にっこりと笑顔を向けてくる。

 コルバートはほんの一瞬視線に力を込め、直後に張り詰めていた空気を緩めた。

 相手の目的がわからないため、相手の話を聞くのがまず先。

 そういう思考もなくはなかったが、自分の殺気に晒されて尚も平然としている女性に興味を持った、ということもあった。

 今まで出会った中で、そんな人物はたった一人しか彼は知らない。



「いいぜ。付き合ってやるよ」

「ありがとうございますか」



 ふわり、と女性の笑みが柔らかくなる。

 無音の森、漆黒にありながら、彼女だけが一瞬輝いたように見えて、コルバートは思わず言葉を失いかける。



「さっきの光景を見て、どう思いましたか?」

「さっきのって……」

「イリスちゃんとククルーちゃんですか」



 あいつらの知り合いか、と思う。

 と同時に、思い出した。

 確かこの女性は、リズ・アルベール。

 サーザイトの仮住まいの管理人だ。

 どうしてここにいるのかはわからないが、力のある人物が自身の隠れ蓑として、

 ごくごく一般的な職に就いているというのはさほど珍しいことではない。

 大方、元々管理人というのは仮の姿で、実際は百戦錬磨の戦士だったのだろう。

 誰かの命令を受けて自分を消しに来たのだろうか。

 それなら話は早いのだが、それにしても今の質問の意味がわからない。



「見てたのかよ。趣味が悪いな、アルベールさん」



 素直に答えない代わりの、冗談のつもりだった。

 その言葉に、しかしリズはなぜか押し黙る。

 様子がおかしいことに気付いたコルバートの愛想笑いが消えた。

 耳が痛くなってきそうな沈黙が、僅かに流れる。



「……今は、リズ・アルベールではありませんよ。コルバート」



 その口調が、明らかに変わった。



「あ? どういう意味だ」



 訝しげな目でコルバートは女性を見る。

 頭の先から爪先までを眺めてみるが、確かに彼女はサーザイトの記憶にあるリズ・アルベールだ。

 双子の姉か妹という可能性はゼロではないが、そうなると「今は」というのがわからない。



「まさか」



 コルバートは呟き、ニヤリと笑った。

 そして、言い放った。



「婚姻でも結びやがったか」

「……」



 呆れた顔で固まってから、女性はぷっと噴き出す。

 あとは崩れるように、腹を抱えて笑い始めた。

 あまりに気持ちよく笑われたものだから、苛立ちよりも気恥ずかしさが先に立つ。



「な、んだよ! 笑ってんじゃねえ!」

「ご、ごめん。笑わないもう笑いませんよ。……う、ぷぷぷ」

「笑ってんじゃねえか! ああもう死ね! 今すぐ死ね! 軽やかに死ね!」



 なんだか調子が狂っている。

 ついさっきまで、メランコリーな気分になっていたためだろうか。

 それだけではないような気がする。

 なにかこう、目の前の女性から感じる妙な雰囲気のせいだ。

 あまりに無防備すぎる笑い方。

 それを見ていると、先ほどとはまた違う苛立ちが沸々と湧いてくる。

 が、そのことをコルバートはどこか懐かしく思った。

 こんな気持ちは、いつかどこかで感じたことがある。

 ……どこで?

 思い出そうとするのと同時に、ふと笑い止んだ女性が口を開く。



「いざ核心に迫るってときに限って、真面目な顔で間の抜けたこと言っちゃう癖、全然治ってないんですね」



 その通りだった。

 意識しているわけではないが、コルバートはここぞという場面で見当外れのことを言ってしまうことがよくある。

 そういうこともあり、彼は、あまり必要以上に誰かと親しくなろうとはしない。

 現に、彼のその癖を知る者もほとんどいないはずだった。



「お前、誰だ?」

「わかりませんか?」

「わからないから聞いてるんだよ」



 苛立ちを隠せないコルバートを、楽しそうな表情で見つめる女性。



「その察しの悪いところも相変わらずです。まあ、良いところも沢山ありますよね。

乱暴に見えて、実は結構優しいですし。それに約束はちゃんと守ろうとしてくれる。

相手が守らなくていいって言っても、そんなのお構いなしに」



 フッと、その笑顔に物悲しげな影が差した。



「そんなあなただから、私は――あなただけは、どうしても好きになれませんでした」



 あ、と。

 コルバートの口から、ほとんど呼気に近い小さな声が漏れる。

 脳裏に、鮮烈に蘇る光景があった。

 笑顔を浮かべたまま、自分に殺された、ある女性の笑顔。

 そして、その唇が辿った最後の形は、目の前の女性と全く同じ。



「私は、『勇者』。全ての人に害なす一切を討つ者」



 その宣言には、感情らしいものが何もこもっていなかった。

 一瞬にして目の前の女性が別人になってしまったかのような錯覚に陥る。



「コルバート・ブラッドリィ。多くの人命を奪ってきたあなたに問います。

これからは今までの行いを悔い改め、無為に人を傷つけないと誓いますか?

この問いにNoと答えるなら、私はあなたを討たねばなりません」



 誰かを殺すことには、必ず何かしらの感情が混じる。

 単純な殺意や、憎しみ、動物や魔物の捕食にすら、本能的な意志がある。

 だが、目の前の彼女からは、何も感じない。

 そこには彼女という存在自体を感じることが出来なかった。

 コルバートは、思わず身を震わせる。

 恐ろしさのためではない。

 あまりの切なさに。



「その問いには、俺はYesとは答えられねえよ」



 コルバートは剣を静かに収め、力なく笑みを浮かべる。



「お前に殺してもらえるならそれでも良かったけどな。それは無理なんだよ、リーズ」

「……」



 リーズの目に、光が戻る。

 その光はコルバートを映しながら、哀しげにゆらゆらと揺れていた。



「やっぱりあなたは、サーザイト・ルーヴェインなんですね」

「……認めたくはなかったけどな。根源的には、そうらしい」

「それじゃ結局、私ではあなたに何もしてあげられないということですか」

「そうでもない。少なくとも、姿は違うが、こうして生きていてくれただけでも……」



 嬉しい、と言葉にするのは躊躇われた。

 そう口にするには、自分は血に汚れすぎてしまっている。

 その代わりに、コルバートは笑った。

 素直に笑うのなんて何年振りだろう。

 少なくとも、記憶にある限りでははじめてのような気がする。



「コルバート。もう一度聞きます。もう無闇に命を奪うのはやめてくれませんか?」

「リーズ。さっきも言ったが、俺は」

「勇者としてではなく、リーズベルト・スケアクローとして聞いています」



 シンと静寂がそっと寄り添ってくる。

 一歩、リーズは踏み出し、はっきりと問い詰めてくる。



「約束、してくれますか?」

「……お前には敵わないな」

「それじゃ」

「だけどリーズ。一つだけ」



 言葉を遮って、コルバートは目を鋭くさせる。



「たった一人だけ、俺は殺すかもしれない。それだけはたとえお前でも約束してやれない」

「その一人っていうのは、サーザイトのことですね?」

「ああ……」



 リーズは、しばらく淋しそうにコルバートを見つめていた。

 かと思うと、唐突に満足そうに頷き、両手を後ろに回してにっこりと笑う。



「仕方ありません。それはあなた達自身の問題ですから、私が口を挟む資格も、その余地もないみたいです」



 ありがとう、と言いそうになるのをコルバートは堪えた。

 それを言うのは、自分がサーザイトを殺すか、あるいはサーザイトが自分を倒すか、どちらかが果たされてからだ。



「そういえば、コルバート」



 ふと、リーズが思い出したように口を開く。



「私の剣、知りませんか?」