第五十四話「笑顔」


 本気で殴り合ったのなんていつ以来だろう、そんなことをサーザイトは思った。

 口の中を舌でゆっくりとなぞると、鋭い痛みがその動きに追従する。

 何箇所か殴られた拍子に切れているらしい。

 鉄の味がどこか懐かしかった。

 迫る拳を、考えるより早くスウェーバックでいなす。

 と、そこへ追い打ちをかけるように裏拳が飛んできた。

 避けるのは無理だ、と思うと同時に肘を跳ね上げていた。

 肘鉄。

 骨と骨がぶつかり合い、鈍さと鋭さを合わせたような痛みに二人は顔を歪める。

 が、硬直は一瞬だ。

 歯を食いしばり、同時に体勢を整える。

 牽制も何もあったものではない。

 ただ全力で拳を突き出す。

 目の前が真っ白になり、直後に断続的に視界が戻る。

 頬に残る強烈な痛みだけが、殴られたという事実を告げている。

 お互いにぼろぼろのぐちゃぐちゃだった。

 全身に感じる痛みが、次第に麻痺してくる。

 思考もだんだんと埋め尽くされていく。

 ただ、殴る。

 拳に自らの思いを乗せるように、殴る。

 殴り続ける。



「枯れてた割には、頑張るじゃねえか」



 血反吐と一緒に吐き捨てられた一言には、やはり怒りがこもっていた。



「それでも、リーズを見捨てたお前には絶対に負けねえ!」



 既に皮がずり剥け、血が滲み、その拳は朱に染まっている。

 それでもその一撃は、今までのものよりずっと重かった。

 思わず膝が折れそうになる。

 しかし、踏みとどまる。

 ここで倒れるわけにはいかない。

 拳を硬く握り締め、がむしゃらに体をひねった。

 遠心力のままに飛んだ左がコルバートの顔面をふっとばす。

 ぐちり、と潰れたのは拳の方だった。

 ピンク色の肉が見えてしまっている。

 力を抜くと痛みがより際立つので、より固く握り締めた。

 拳が壊れてるから、だからなんだというのか。

 そんなものはこの戦いを止める理由にならない。

 まだ体は動く。

 なら、やめない。

 どちらもが動けなくなるまで、この戦いはやめられない。

 なぜなら、これは自分自身との戦いだから。

 ――そこに割って入る影があった。

 大剣を振りかぶり、勢いよく落下してくる。

 イリスだ。



「!」



 コルバートは気付いたが、サーザイトと殴り合ったダメージの抜けていない足が言うことを聞いてくれない。

 咄嗟にその場で体勢を整える。

 だが、あのイリスの一撃を生身で受け切れるのか。

 不可能だ。

 防御した腕は瞬時に叩き潰され、頭蓋くらいは叩き割られるだろう。

 コルバートとサーザイトは、一瞬の内に全く同じ予想に辿り着いていた。

 いくらコルバートが『死に損ない』だとはいえ、あれに耐え切れるのか。

 思うと同時、サーザイトはコルバートの前に飛び出していた。



「なっ――」



 驚くコルバートの顔は見ない。

 飛び込んでくるイリスの表情に僅かな曇りが見えたが、それはすぐに殺意に塗り潰された。

 死ぬわけにはいかないし、死ぬつもりも全く無い。

 イリスの力が並でないことは承知しているが、サーザイトは本気でそう思っていた。

 目の前の攻撃に集中さえしていれば、一発くらいは受け切れる。

 いや、出来るかどうかじゃない、受け切る。

 そんなことを考えていた。



 その一瞬が、命運を分けた。

 イリスの刃がぶち当たる直前、サーザイトの目の前に滑り込んできた体があった。

 目の前の相手に集中していた三人は、誰一人反応できない。

 さらりと流れた髪は、深い空の色。

 イリスの前に立ちはだかったのは、ククルーだった。

 激突の瞬間、手を大きく掲げる。

 風の壁が生じると同時に、大剣が振り下ろされた。

 圧縮された空気の層を、ぎちぎちと断ち切っていく刃。

 力に任せて放った一撃を止めることは、イリス本人にすら出来なかった。



「どうして……!」



 悲鳴のような声がイリスから漏れた。

 ククルーはその視線を真っ直ぐに受け止める。



「私は、イリスの笑顔を取り戻したいだけだよ」



 そこにかつての無表情は無い。

 ククルーは、大好きな友達に向かって穏やかな笑顔を浮かべてみせた。



「私に笑顔をくれたあなたの笑顔を、私の大好きなあなたを取り戻したい。それだけ」



 ずっと日陰にいた自分を連れ出してくれた友達。

 いや、その友達――イリス自身が、ククルーにとっては日溜りだった。

 一緒にいるだけであたたかい気持ちになれる、そんな人。

 だから、今までもらった笑顔には足りなくても、



「だから、イリス。……笑って」



 いつか言った言葉と同じ言葉と一緒に、屈託の無い笑顔を浮かべた。

 イリスは思わずはっとなって目を見開く。

 奇しくも、ククルーのその笑顔は、かつてのイリスに重なるものがあった。

 自分にだけに向けられた、優しい感情。

 誰かに思われている、その意識に包まれ、ふとイリスの頬を涙が伝う。

 雪解けのように、殺意の呪いに縛られていた心が解放されたような気がした。

 上手く言葉が出てこない。

 圧倒的な感激と感謝の気持ちだけが胸中に渦巻いていた。

 その気持ちを、出来ることなら全部ありのままに伝えたかった。

 だからイリスは、それをそのまま言葉にしようとした。



「あ、ありがとう。クーちゃ」



 目の前の景色が、一瞬にして弾け飛んだ。











 気が付くと、その場に立っているのはイリスだけだった。

 自然とイリスはククルーの姿を探していた。

 視線を前に向けると、サーザイトとコルバートが重なり合うように倒れている。

 ククルーは、二人よりももう少し離れた場所にうつ伏せに横たわっていた。

 ほっと安堵の表情を浮かべて、イリスはククルーに歩み寄る。

 その顔には、イリス生来の明るさが完全に戻っていた。

 今すぐにでも、笑顔を見せてあげたい。

 今までのことを謝って、今度は一緒に笑い合いたかった。



「クーちゃん」



 声をかけても反応が無い。

 気絶でもしてるのかと思い、イリスは小柄な体を抱き起こし



 自分の掌が赤く汚れたことに気付いた。



 見ると、ククルーは側頭部から出血していた。

 顔色が悪く、体に力が感じられない。

 心臓をそのまま鷲掴みにされたような感覚を感じて、イリスは言葉を失った。

 一瞬、夢でも見ているのかと思った。

 目の前の光景が現実に起こっていると信じたくなかった。

 ククルーの傷。

 傷口から滲む血は赤いが、その周囲は若干青い。

 内出血があるらしかった。

 まるでそれは、何か巨大なもので殴られたような――



「あ、あ、ああああああ!!」



 頭の中が真っ白になりそうだった。

 この惨状は、自分の作ったもの。

 大切な友達を、

 笑顔を、

 壊してしまった。



「ち、ちが、私、こんな、こんなこと! やだ、やだやだいやだあっ!」



 喉が張り裂けるほどの叫び。

 視界が全て埋まってしまうほどの涙。

 そのどちらも、ただイリスを傷つけるばかりだった。



「クーちゃん! クーちゃん、クーちゃん、クーちゃぁん……!」



 いくら呼んでも、返事はない。

 抱きしめた体からは、完全に力が抜けている。

 瞼の裏に映るククルーの笑顔だけが、いつまでもイリスの胸を締め付けた。