第五十二話「狂戦士イリス」


 肌を撫でる風が突き刺さってきそうだった。

 周囲の景色があっという間に後方へ流れていく。

 見つめる先だけが、鮮明に視界へ映し出されている。

 探し人の気配探知は簡単だった。

 そのほぼ暗い気配は、少し意識を研ぎ澄ますだけで感じられる。

 身体が軽い。

 あれほど息が苦しかったのに、今は呼吸の乱れすらない。

 接触は、近い。

 首にかかったペンダントを外し、宙へ放り投げる。

 一瞬光が差したかと思うと、それは落ちてくる頃には一振りの剣に姿を変えていた。

 一言で表すなら、巨大。

 その柄を掴み、手首だけでその切っ先を反転させる。

 二メートルをゆうに超える大剣が、まるで羽のようだった。

 木々の分け目が見える。

 肉がはちきれそうなくらい、剣を強く握り締めた。

 大地を蹴る。

 小柄な身体が闇夜に舞った。











 弾丸のように飛び出してきた影に、サーザイトは反応し切れなかった。

 影はサーザイトの視界を横切り、真っ直ぐコルバートに向かっていく。

 距離がある。

 二人の空間がゼロになる間に、コルバートは剣を引き抜いていた。

 強大な殺意が唸りをあげる。



「うぐぁ……っ!」



 剣戟。

 防御は完璧だった。

 コルバートは相手の一撃を確かに受け切った。

 が、その勢いを殺すことは出来なかった。

 コルバートの身体は吹っ飛ばされ、木の幹に叩き付けられる。

 ミシ、と鈍い音が響いた。



「い……イリス……?」



 その名を出すのを、サーザイトは一瞬躊躇う。

 振り向いたその顔に、笑顔はない。

 ピクリとも動かない頬。

 血走った目。

 全身に禍々しい空気をまとっている。

 サーザイトの知るイリスとは、まるで雰囲気が違っていた。



「先生。久しぶりですね。ちょっと待っててください。すぐに終わらせますから」



 ロクに目も合わさずに、イリスの視線はコルバートに向く。

 ――いない。

 イリスが目を離した僅かな時間に、黒い衣は姿を消していた。



「っ、左だイリス!」



 サーザイトが叫ぶ。

 が、遅い。

 イリスが顔を向けた頃には、コルバートは間合いに入っていた。

 切っ先は既にイリスに向かっている。

 それでもイリスの表情には何の変化もない。

 ただ冷たい視線を向けたまま、僅かに左腕をあげてみせる。

 白い肌に、刃がめり込んだ。

 ぐちりと肉が引き潰れる。



「な……」



 声は、コルバートとサーザイト、二人の口から漏れた。

 完全に不意を突いた一撃。

 傷は決して浅くない。

 しかし、イリスは全く動じた様子はない。

 それどころか



「き、傷が……!」



 肉に、刃が次第に返される。

 コルバートの見ている目の前で、傷が修復している。

 自己回復。

 傷ついていたはずの左腕で、イリスはコルバートの剣を締める。

 同時に右手の大剣を振りかぶった。

 咄嗟に剣を捨てて後方へ飛んだコルバートの鼻先を殺意がかすめる。

 イリスはコルバートを見つめながら、興味無さそうにコルバートの剣の刃を素手で掴み



 そのまま握り潰した。



 ガラス細工のような軽い音を立てて、粉々に砕け散る。

 その様を冗談か何かのように二人は見ていた。



「死ぬ前に、一つだけ答えて」



 一瞬だけ、その声音はサーザイトの知るイリスに戻った気がした。



「クーちゃんは、どこ」

「さてな」

「そう」



 鼓膜が破れるかと思うほどの爆音。

 イリスが地を蹴っただけで、その部分に穴が開いた。

 勢いを殺さぬまま突き出された左拳を、コルバートは横っ飛びに回避。

 その一撃を受け止めた大木に痛々しい傷跡が残る。



 ――ズド



 振り向いた瞬間、イリスの胸に刃が突き立てられた。

 刀身の半ば失われた剣。

 コルバートが着地と同時に拾い上げ、投擲したもの。

 切れ味はともかく、刺突に使うには十分だ。

 プロテクターを突き抜けた刃の周りから赤い染みが広がっていく。



「……」



 それでも、イリスの顔には何の変化もない。

 刃を引き抜き、興味無さげに投げ捨てる。

 明らかに致命傷にもなりかねない一撃を食らったはず。

 サーザイトは、そこでようやく気が付いた。



「気功……光のエレメント」



 生命には必ず含まれている元素の一つ。

 イリスの腕力の強さは、元々光のエレメントによる影響が強かったためだ。

 それを操れるようになれば、回復力を引き上げることも可能ではある。

 だが、それも無尽蔵ではない。



「イリス」



 嬉しそうな顔でコルバートは笑う。



「そんな戦い方してると、お前、死ぬぜ?」

「その前に私がお前を殺す」

「ふ、はっははは! いい返事だ! いいぜ。殺せるなら殺してみせてくれよ!」



 再び激突を始める両者。

 それを脇で見ているしか出来ないサーザイト。

 彼は、迷っていた。

 どうすればいいか決めかねていた。

 なぜイリスがあんな状態になっているのか。

 この戦いを止めないといけない、それはわかる。

 第一に、このまま気功を酷使し続けていたら、イリスは死ぬ。

 気功の元になっている光のエレメントは、いわば命のエネルギーそのものだ。

 それを使い続けていたら、息絶えるのは道理。

 第二に、イリスは絶対にコルバートに勝つことは出来ない。

 その理由がある。

 その理由そのものが――サーザイト・ルーヴェイン、自分自身なのだから。

 悲劇しか待っていないとわかっている戦いを止めたい。

 しかし、自分だけではとても無理だ。

 自分が二人の間に割って入っても、邪魔者として排除されるだけだろう。

 結局、何も出来ないのか。

 そう思ったサーザイトの耳に、声が届いた。



「……二人を、止めます」



 視線を落とす。

 いつの間に戻ってきたのか、ククルーとユユがいた。

 この短い間に何があったのか。

 ククルーの目には、言葉には、何か決意のようなものが感じられる。



「イリスがああなってしまったのは、半分は私のせいです。だから、私が止めます。

あんなイリスは、あまり見ていたくありませんから。手伝ってください。……サーザイトさん」



 名前で呼んでもらったのは、初めてだった。

 精神的にも、ククルーはもう生徒ではない。

 同じ冒険者という仲間。

 サーザイトは嬉しく思う反面、一抹の寂しさを感じた。



「事情はよくわからんが、まずは行動だな」

「はい。私達はイリスをなんとかします」

「了解だ。俺はコルバートを押さえよう」

「はい。任せます」

「任されよう」



 任せます、か。

 思ったより信頼されているんだな。

 自分が必要とされている、そう思うだけで力が湧いてくる。

 ふとそんな気がした。