第五十話「偽善という名の覚悟」


 洞窟を抜けた先には、深い森が広がっていた。

 日は既に傾きかけている。

 ククルーは、思わずふうと一息ついてしまう。

 早朝の盗賊、コルバートとの一戦。

 そしてエンジェレットとの再会と戦闘。

 肉体的にも精神的にも、ひどく疲弊していた。

 いくらポテンシャルが高くとも、ククルーはまだ十二歳の少女なのだ。

 激戦を戦い抜くには、絶対的に経験が少ない。

 それを誰よりもククルーは理解していた。

 その上で、考える。

 自分に一体何が出来るのか、何をしていけるのか。

 不意に、イリスのことが思い出された。

 笑顔の素敵な、大切な友達。

 殺してやる。

 呪いの言葉。

 今でも耳の奥にこびりついて離れない。



「少し足を休めるか」



 先を歩いていた不意にコルバートが、ふと振り返って言った。

 ククルーは僅かに逡巡してから、こくりと頷く。

 コルバートが自分を気にして声をかけたような気がしたからだ。

 「守る」と約束したくせに、この体たらく。

 ククルーは、そんな自分が許せなかった。

 それでもコルバートの申し出を受け入れたのは、体力も精神力も尽きた自分では足手まといにしかならないとわかっているからだ。

 太い木の幹にもたれて腰を下ろす。

 魔法の使えない魔法使いなんて、結局は何の役にも立てはしない。

 そのことを今日散々思い知らされて、悔しさに唇を噛んだ。

 コルバートは周辺の小枝を集めて積み重ねていく。

 そこに火種を入れてから、ククルーの正面に座り込んだ。

 しばらくすると、ぱちぱちと焚き木が音を立て始める。

 小さな火が二人の陰影を揺らめかせている。

 それをぼんやりと眺めながら、ククルーは今後の動向について考えていた。

 コルバートにくっついているだけで、恐らく何とかなる。

 何とかなってしまう。

 それは容易に想像がついた。

 だが、それではダメだ。

 何とかなる、ではなく、何とかする。

 時には大きな波に飲まれようとも、流されず、あくまで自らの意志で動く。

 それこそが冒険者だ、そう思っていた。

 だからククルーはいつだって考えるのをやめない。



「ククルー」



 と、微かに夜の気配を乗せた風に混じって、コルバートの声が低く響いた。

 深い思考に沈んでいたククルーは、少し遅れて視線を上げる。

 フードの下、二つの目が鋭い光を放っていた。



「この俺が憎いか?」

「……っ」



 驚きと困惑で言葉に詰まった。

 すぐさま平静を装って、コルバートの視線を正面から見据える。

 憎くない、と言ったら嘘だった。

 ユリウスやオーランドを殺したのは、紛れも無くコルバートだ。

 カテリナだって、多少の処置は施したとはいえ、あのままあの場所に放置されていたなら、今頃息はないだろう。

 イリスのことも、彼は散々傷つけた。

 イリスから笑顔を奪った。

 ――許せない。



「……憎い」



 小さく、それでいてはっきりと言葉に出す。

 パキン、と焚き木が弾けた。

 コルバートは喉を鳴らして笑うと、ゆっくりと立ち上がる。

 そのままククルーのすぐ前まで歩いてきた。



「それでいい。あれだけのことをされたんだ、憎くないわけがない。だから、この質問にもお前はYesと答えるべきだ」



 懐に手を突っ込む。

 取り出したのは、刃渡り十センチほどのナイフ。

 その柄をククルーに差し出しながら、



「俺を殺したいか?」



 今度こそ、ククルーは何と返せばいいかわからなくなった。

 憎んではいる、それは本心だ。

 だが、殺したいかと言われると、途端に自分がどう思っているのかわからなくなる。

 仲間を殺した男を殺したいと思う方が、正常なのだろうか。

 だとすると、返答に迷っている時点で自分は正常ではないのかもしれない。

 そんなことをククルーは思った。

 だが、ククルーの沈黙をコルバートは肯定と受け取ったのか、ナイフをククルーに握らせると、



「殺したいなら、殺してみろ」



 ズプリ。

 銀色の刃の先が、ほんの少しだけ埋まった。

 ビクリとククルーは身を震わせる。

 ナイフを離しそうになったが、その手を無理矢理コルバートが押さえた。



「どうした? 憎い相手が殺されてやろうっていうんだぞ。もっと嬉しそうにしろよ」



 滅茶苦茶だった。

 ククルーが手を離そうともがき、それをコルバートが押さえる。

 二人が力を入れれば入れるほど、刃は傷口を広げていく。

 ぐちゃ、と肉の潰れる感触を感じてしまう。

 刃を伝って赤い血がククルーの手を染める。

 全身の感覚が、少しずつ薄れていく。

 現実味が、なかった。



「ああ、ひょっとして本当に直接じゃないと嫌だったか」



 そう言うと、コルバートはククルーの右手を掴み、己の喉に当てさせる。

 とくん、とくん。

 脈拍を指先で感じるほど、強く強く押し当てられる。



「殺してみろ」



 まるで教師が生徒に言うような口調。

 ぐっと爪が皮膚に食い込む。

 先ほどまで薄かった現実感が、そこで一気に戻ってきた。



「どうした? 殺せよ。俺が憎いんだろう?」

「こ、」

「うん?」

「こ、ころ、しません」



 上手く声が出せない。

 右手はコルバートの喉に食い込み、左手のナイフは鳩尾をずたずたに引き裂いている。

 誰かの命を、存在を蹂躙する感覚。

 それはククルーにとって、今まで味わったどんなものよりもおぞましく、恐ろしかった。

 そして、それ以上に、哀しかった。



「殺せよ」

「ころしません」

「殺せ」

「いや、です」

「殺せ!」

「っ、こ、殺さない」

「殺せって言ってんだろうが!」

「いや!」



 その言葉を叫んだとき、喉が焼けるように熱くなった。

 こんなに大きな声を出したことは、今までなかったかもしれない。



「私はころしたくない! 誰かが殺されてほしくもない!」



 オーランドや、目の前で殺されたユリウスの面影がフラッシュバックする。

 炎に巻かれた故郷、血に染まった大地、幼い日に見た父の手の温もりを思い出し、涙が流れた。



「私は、あなたが憎い。でも殺したくない。死んでほしくない。……生きていてほしい」



 甘いと言われても構わない。

 偽善と言われても構わない。

 なぜなら、それは本心からの言葉だから。

 涙で濡れた目を、ククルーはそれでも強く開いた。



「くだらないと口にするのは簡単だが、なるほど。そこまで虚勢が張れるなら大したもんだ」



 視界がかすんでコルバートの表情はよく見えない。

 ぼやけた視界の中、ふと彼が一瞬淋しげに笑ったような気がした。

 コルバートが手の力を緩める。

 ククルーの右手が彼の首から離れ、ナイフはゆっくりと腹から引き抜かれた。

 刃の先は血に濡れている。

 傷はピンク色の肉が完全に露出してしまっていたが、出血自体はそれほど大したことはない。

 すぐに処置をすれば大事には至らないだろう。

 そうとわかると、ククルーは安堵の溜息をつく。

 そして、少し嬉しくなった。

 自分の言い分を理解してはもらえてないと思う。

 でも、この人は私の意見を認めてくれた。

 そう思うと、自然とククルーの顔には微笑が浮かんだ。

 随分久しぶりに笑えたような気がして、ふとコルバートに目を向け



「だが関係ない」



 一瞬だった。

 ククルーの左手にあったナイフを、彼は――今度は自らの胸に突き立てていた。

 その勢いは、先ほどとは比べ物にならない。

 ククルーは、ドンッ、と殴りつけたような衝撃を手の平で感じた。



「え……?」



 頭が状況に追いついてこない。

 刺した? 自分で? どうして?

 思考が追いついてきたのは、コルバートの咳き込みと共に飛び散った血が、自分の顔にかかったときだった。



「覚えとけよククルー! 誰かを生かすってのは、誰かを殺すこととあまり変わらない!

俺は殺すのが好きだ! だけど殺されるのも嫌いじゃない。俺はまだまだ誰かを殺す。

お前の友達とやらも手にかけるかもしれない。だから、今殺しておかないと後悔することになるかもしれないぞ。

俺が世界で一番嫌いな奴に気に入られてるお前になら殺されてもいいって俺が思ってる間に殺しとけ!」


 その通り名の如く血塗れになりながらも、コルバートは笑っていた。

 ククルーは、怯えた表情のまま、震えていた。

 体以上に、心が恐怖に彩られていた。

 殺したくないのに、このままでは殺してしまう。

 また自分のせいで誰かを、

 そんなのはいやだ、

 もう限界だった。

 自分が傷つく以上に、誰かが傷つくのは心苦しかった。

 その方がずっとずっと痛い。

 もう、許して欲しかった。

 自分が滅茶苦茶されてもいいから、もう自分に誰も傷つけさせないでほしい。

 心の底からそう願う。

 ――一陣の風が、夕闇を駆け抜けた。

 コルバートの手が離れる。

 少し遅れて、ククルーの左手から滑り落ちたナイフが地面に突き刺さった。



「っはあ、はあ、はあ……っ」



 緊張から解放され、ククルーは荒れた呼吸を必死に整えようとする。



「思ったより早かったな」



 後ろへ跳ねたコルバートの口から、そんな声が漏れた。

 声の方向はククルーを向いていない。



「白々しいな。こんなところで狼煙が上がれば、嫌でも目に付く」



 一番会いたかった人。

 だからこそ、今一番会いたくなかった人。

 どうしてここにいるのだろう。

 その声の方を、ククルーは見ないようにした。

 今、絶対に自分は弱気な顔をしている。

 久しぶりに見せるのは、せめて普段通りの自分でありたかった。

 聞き慣れた、それでいて懐かしい声が届く。



「あー……なんだ、それ以上俺の生徒に手を出さないでもらおうか」



 こんなときでも気だるそうな口調は変わらぬまま、サーザイト・ルーヴェインはそこにいた。