第四十八話「心配しないで」


 思えば、二人は互いのことをほとんど知らなかった。

 それ以前に、出会った当初はそりが合ってさえいなかった。

 寡黙で人付き合いの悪いククルーのことを、エンジェレットは「陰気で得体の知れない子」と思っていたし、

 ククルーもククルーで、エンジェレットを「高慢な人」と感じていた。

 そんな二人は、ヴェノム洞穴にて始めて感情をぶつけ合った。

 互いに、平手一発ずつ。

 人間とは不思議なもので、衝突が相互理解のきっかけになることがままある。

 二人の場合も、まさしくそうだった。

 しかし、二人は同じ学び舎にいながら、直接戦闘を行ったことはない。

 戦士と魔法使いというタイプの違いから、クエスターズの授業では、二人は一度たりとも対決したことはない。

 二人は友人同士、互いに只者ではないということだけは理解している。

 結果、立ち上がりは静かだった。

 両者一歩も動かない。



「……」

「……」



 エンジェレットは戦士である。

 ククルーは魔法使いである。

 そうわかっているのに安易に踏み込めないのは、二人は只者ではないとわかっているからだ。

 友人同士であるがために、その点では二人は信頼し合っていた。

 まだ、動かない。

 張り詰めた空気だけが、徐々に呼吸さえ殺し始める。

 ほんの些細な動作だけで、その膠着を破るには十分だった。

 ククルーの唇が、微かに開く。

 瞬間、紫の影が神速を以て突っ込んできた。

 地面の上を滑るように、エンジェレットが体勢を低く保ちながら一気に距離を詰める。

 人間の視野というものは意外なほど狭いもので、目の前の相手がしゃがみ込んだだけでもその姿はほとんど見えなくなる。

 まして、相手が近づいてくれば尚更だ。

 だが、ククルーは冷静だった。

 慌てず、淀まず、乱されず。

 エンジェレットが振り上げた鉄扇を、空気の塊が遮った。

 切っ先がククルーの喉に触れるか否かというところで、止まる。

 ――早い。

 戦士であるエンジェレットの攻撃に咄嗟に対応出来るほどの能力を、魔法使いであるククルーが持っているとは考え辛い。

 しかし、ククルーは防いだ。

 早いのは行動ではなく、判断。

 自らの流れを乱さず、的確な対応をする、ただそれだけのこと。

 それこそが力。

 エンジェレットは確信する。

 この子は、自分に本気を出させる資格がある。



「風よ、逆巻き、舞い裂け」



 その句に反応し、密閉された空間に気流が発生する。

 ステップを踏んで後方へ飛んだエンジェレットを、風の刃が襲う。

 空気と空気の断裂。

 目で見ることは叶わないと見るや、エンジェレットは一瞬目を瞑って神経を集中する。

 瞼の裏、襲い来る風の軌跡が露になる。

 元々、エンジェレット自身も風系統の魔法には比較的長けている。

 意識を研ぎ澄ませば、これだけ至近の空気の動きならば、瞬時に把握可能。

 前方から二本、二方向から緩い弧を描くように気流が裂けてくる。

 狭い空間、大きく避けるのは逆に危険。

 緊張はまるでなかった。

 限りある空間を目一杯にまで活用するのは、得意分野だった。

 ふわり、と。

 エンジェレットはぽんと地面を軽く蹴り、あえてククルーの攻撃の軌道に乗った。

 力に逆らわず、かといって受け止めることもなく、全てを流す。

 風魔法とはいっても、結局それは空気の流れに他ならない。

 どんな強力な攻撃であろうと、その流れに完璧に乗れば、ダメージは微々たるもの。



(……流石エンジェレットさん)



 ククルーに驚きはなかった。

 「エンジェレットならば、この程度の攻撃は通じない」という確信があった。

 風に乗り、その勢いの全てを殺している彼女の姿は、まるで清流を流れる花弁のように美しかった。

 そして、今ククルーが為すべきことは、その花弁を見るも無残に粉々にしてやることだった。

 自らのしたことが、どういう結果に繋がるのかは考えない。

 ただ目的が明瞭で、それを為す方法もあるのなら、そこに全精力を注ぎ込めばいい。

 考えるのは、結果が出てからでも遅くない。



「曰く、風の第二章。来たりて我が声に応じ、総てを流せ」



 新たな風が生まれ、膨れ上がる。

 通路を内側から押すほどの巨大な波。

 いくらエンジェレットでも、空間のない場で避けるのは不可能。

 キッとその目に鋭さが増し、弾けるように口が開いた。



「旧き王の恫喝よ、世界に一時の安息をもたらせ、エヴァー!」



 その叫びに呼応して、薄い光のヴェールが眼前に出現する。

 それはククルーの風に一瞬にして吹き飛ばされたが、



「!」



 明らかに、魔法の威力が弱まっていた。

 エンジェレットを押し潰す勢いだった空気の壁は、彼女の体を柔らかく宙に押し上げただけ。

 すたん、と何の苦もなく着地して、エンジェレットは再びククルーを見据える。



「……強制魔法緩和」

「流石博識ですわね」

「……魔法使いでもないあなたが扱えるなんて、驚き」

「一族に代々伝わる秘伝の魔法ですわ。私にはまだ完全には使いこなせないのですけれど」



 ぴっと鉄扇の軸をククルーに合わせる。

 不意に、エンジェレットは不敵に笑んだ。



「教えてあげますわ、ククルー」

「敗北を?」

「いいえ」



 次の瞬間には、笑顔は跡形も無く消え、残ったのは眼光。



「戦闘民族エヴァーのなんたるかと、そして……年長に対する口の利き方を」

「……間に合ってます」



 再び、火花が散った。











 ククルーは勝てないな。

 二人がぶつかり合う遥か後方で突っ立っていたコルバートは、ぼんやりとそんなことを思った。

 別に、実力的にククルーがエンジェレットに劣っているわけではない。

 ただ、相性が絶対的に悪すぎた。

 戦士と魔法使いが、ではない。

 ククルーとエンジェレットが、だ。

 一般的に、魔法使いは接近戦を苦手とする。

 そのため、戦士は積極的に距離を詰めようとして踏み込んでくる。

 そこをカウンター気味に迎え撃ち、致命の一撃を加えるのが、強敵と戦うときのククルーの常套手段だ。

 危険は増大するが、効果は絶大。

 相手はほぼ無防備に近い状態で攻撃を受ける。

 実際、コルバートと戦った時も同様の作戦をとっていた。

 コルバートでなければ、まず間違いなく死んでいただろう。

 だが、エンジェレットは違う。

 踏み込んではくるのだが、その時間が僅かに一瞬しかないのだ。

 近づき、一撃を加え、またすぐにあえて自分から距離を取る。

 ヒットアンドアウェイ。

 戦法としては単純で、しかも本来魔法使いには、あまり有効とは言い切れない戦法だ。

 接近戦に持ち込まれたら、大抵の魔法使いは状況の対応に精一杯で、魔法に裂く集中力など残っていない。

 結果、最も厄介な魔法に意識を置く必要がなくなる。。

 だが、エンジェレットはククルーを信頼していた。

 ククルーなら、そんな状況の不利などものともしない、そう信じていると思わせる動きだった。

 結果、ククルーは徐々に、徐々に追い込まれていく。

 いくら彼女の集中力が凄くとも、その魔力は有限。

 エンジェレットの体力と、ククルーの魔力、どちらが先に尽きるかは明らかだった。

 ぎり。

 知らずのうちに、コルバートは歯軋りしていた。

 己の行動に気付いても、なぜか苛立ちは収まらない。

 あのククルーが、約束のためとはいえ友人と戦っている。

 滑稽じゃないか、面白い見世物じゃないか。

 なのに、どうしてこんなにも気が立つのか。

 笑え。

 笑え。

 笑え!



「……ちっ」



 行き場のない怒りを抱えたまま、コルバートは静かに腰元の剣を引き抜いた。











 場所的には、両者にメリットとデメリットがあった。

 狭い洞窟の中、ククルーの魔法をエンジェレットは避け切れない。

 当然の話だ、いくら身のこなしが凄かろうが、避けるべき空間のない場所で攻撃をかわせるはずがない。

 一方、ククルーはあまり大威力の魔法を繰り出せない。

 例えば、螺旋状の風の槍を発射するシルフィードブラスト。

 あんなものをこの場で使って、万が一洞窟が崩れでもしたら……想像もしたくない。

 結果としては、決め手を封じられたククルーが不利なのは明白だった。



「……!」



 ククルーの前髪が、エンジェレットの鉄扇に薙ぎ払われる。

 その勢いを殺さないまま、遠心力をつけた一撃が来る。



「爆ぜ!」



 咄嗟に叫んだ。

 互いの間にあった空気が収縮し、瞬間、膨張する。

 その勢いに、二人は弾けるように後方へ飛ばされた。



「うっ、ぐ……」



 背後の壁に叩きつけられ、ククルーは苦悶の表情を見せる。

 エンジェレットの攻撃を避けるために、魔法を至近距離で使ったためだ。

 普段なら自らに余波が来ない位置で、あるいは受身を確実に取れるタイミングで魔法を発動させるが、

 相手が相手、そんな余裕はなかった。

 ククルーの額に冷たい汗が滲み始める。



「降参なさいククルー。もう勝負は見えていますわ」

「……それは、戦いをやめる理由にはならないです」

「強情ですわね」

「エンジェレットさん。私の言っていることを理解したと言いながら、どうしてこんなことをするんですか?」



 その言葉に、エンジェレットは優しく微笑む。



「ククルー。あなたは頭はいいですけれど、やっぱりまだ子供ですわね」

「……?」

「私は理解はしましたけれど、納得はしていないんですのよ」

「……そんなのは言葉遊びに過ぎません」

「解釈はご自由に。そろそろ決着をつけますわよ、ククルー」



 紫の輪郭が青白く染まる。

 ククルーが詠唱を始める間すら与えず、エンジェレットは地を駆けた。

 光のエレメントである気を纏い、更に風のエレメントによって速度を上げた彼女の動きを捉えられる者はほとんどいない。

 風の動きを把握することによってククルーはその動きを補足出来る。

 しかし、だからといって魔法使いである彼女がエンジェレットの攻撃に合わせて動くのは不可能だ。

 一瞬で距離はゼロへ。

 エンジェレットの狙いは、ククルーの側頭。

 ククルーも咄嗟に空気の壁を作るが、エンジェレットの一撃がその壁を切り裂いて自身に届くであろうことを確信していた。

 諦めだとか、悔いだとか、そんなものを感じる感じないに関係なく敗北はやってくる。

 だが、最後まで抵抗はする。

 やれるときに、やれるだけのことを。

 ククルーが更に魔法を唱えようと口を開きかけたその時、目の前に黒い影が飛び込んできた。

 ――金属音。



「……どういうことかしら?」



 その声には、疑問よりも糾弾の色が強い。

 二人の間に割って入ったコルバートは、涼しげな顔でニヤリと笑う。



「さっきの約束、あれは嘘だったとでもいうのかしら?」

「俺は嘘はつかない。だが、俺がククルーを助けないとは一言も言っていないぞ。

こいつはなかなか気に入ってるんだ。まだ返したくなくてな。この場は見逃せ」

「戯言を……」

「なら、お前が俺の相手をするのか?」



 エンジェレットは歯噛みする。

 そんな選択はしない。

 明らかに目の前の男は、自分より遥かに高い実力の持ち主。

 それがわからないほどエンジェレットは未熟ではない。

 この男も、それをわかっていっているのだ。

 言葉は無く、エンジェレットは強い視線だけを向けつつも鉄扇を収める。



「いい子だ」



 不敵な笑みを称えながら、コルバートはその場から足音も立てずに去って行った。

 その後ろを、ククルーが追いかけていく。

 その姿が見えなくなる直前、ククルーは振り返り、エンジェレットと視線を交わした。



「……心配しないで」



 それだけ言って、再びククルーは賭けていく。

 今度は振り返らなかった。

 エンジェレットは、二人の気配が完全に感じられなくなってから、脱力して壁にもたれた。

 肩の力を抜き、宙を見上げて深い溜息をつく。



「心配しないで欲しいなら、心配されないような行動を心がけてもらいたいものですわ……イリスのバカが移ったのかしら」



 と、無意識にそんなことを言ってから、ふと気付く。

 まだクエスターズにいた頃。

 卒業旅行から帰ってきて、すぐ。

 ククルーは、確かイリスと一緒に冒険に出たはずだ。

 途中で別れたのだろうか。

 冒険者には、それぞれ目的がある、出会ったり別れたりは、さほど珍しいことではない。

 だが、二人の仲の良さはエンジェレットも知るところだ。

 あの二人がわざわざ別行動を取る理由は、少なくとも彼女にはわからなかった。



「……休んでばかりもいられませんわね」



 暗い考えを振り払うように、エンジェレットは気を入れ直して、洞窟の中を進み始めた。