第四十四話「黒衣黒夜 6」


 殺した。

 自分のこの手で、一つの命を散らした。

 その感触を確かに感じ取りながら、自分がやけに冷静であることにククルーは驚いていた。



「んっ……」



 ピシリと掌に小さな痛み。

 見ると、手の中にあった宝石――風の魔法石が粉々に砕け散っていた。

 イリスに、友人にもらった初めてのプレゼント。

 それを見たら、なんだか自分たちの友情がそのまま壊れてしまったように感じて、ズキリと胸が痛んだ。

 風の魔法石が無かったら、分身を使った後、最後に男を仕留めたシルフィードブラストは放てなかった。

 イリスとの絆が、敵を、死を退けた。

 そう思うと、ククルーの胸に痛み以上の熱い気持ちが高まっていく。

 ククルーは意識を集中し、風の音を聞き始める。

 イリスは苦しそうに呻いてはいるが、無事だ。

 カテリナの方も辛うじて息はあるようだったが、すぐに処置を施さねば危ない。

 今のククルーにはほとんど魔力は残っていなかったが、それでも応急処置程度の回復魔法なら使える。

 念のため男の生死も確認してみたが、どうやら安心して良さそうだった。

 脈動はない、確実に死んでいる。

 カテリナに駆け寄って、ククルーは早速回復を始める。

 正直言って、今から処置をしても生き延びるかどうかは五分以下だと思った。

 回復魔法によって傷は防げるが、失われた体力は元に戻らない。

 そこはカテリナ自身の生きる力に賭けるしかなかった。



「……」



 治療の最中、ふと思う。

 どうしてカテリナがユリウスを、イリスを捨てるような真似をしてまで戦いに挑んでいたのか。

 憶測の域を出ないが、多分、彼女は何をしてでも生き残ろうとしていたのだ。

 それが間違いであるとは言わない。

 でも、彼女はそう思いながらも、そんな自分を恥じているように思えた。

 だから自分に「臨機応変に対応しろ」などと言ったのだと思う。

 そして、自分もその言いつけを忠実に実行した。



(カテリナさんのこの傷は、半ば私がつけたも同じ……)



 絶対に助けてみせる。

 言葉には出さず、そう誓った。

 淡い光がカテリナの血に染まった傷を元の肌色に戻していく。

 完全に傷が塞がるかどうかというところで、ククルーの魔力は完全に切れた。

 これ以上の手当ては今は無理だ。

 幸い馬車は助かっているので、ここから一旦ソルトシュワに戻ろう。

 カテリナの体を担ぎ、馬車の方へと歩み出した。



「どこへ行くんだ?」



 ――。

 文字通り、呼吸が止まった。

 全てが制止したかのような感覚が全身を突き抜けてくる。

 はじめて、ククルーの体が恐怖によって震えた。

 そんなバカな、ありえない、確かに死んだ、私が殺した。

 そうは思うが、目の前でゆらりと――男は立ち上がった。



「……」



 何事もなかったかのように男はククルーを見た。

 ククルーは目を見開く。

 カテリナに、そしてククルーにあれだけ受けた傷がなくなっていた。

 その痕跡すら見当たらない。



「……どうして」



 死んだはずなのに、とククルーは呟く。

 男は、ああと何の気もなしに



「悪いな。俺は死んでも死に切れない体なんだ」



 黒衣が地を駆ける。

 ククルーはカテリナの体を突き飛ばし、距離を取ろうとしたが全く間に合わなかった。

 あっという間に組み伏せられてしまう。

 互いの吐息すら感じられる距離。

 容易に命に手が届くような距離。



「戦う前に言ったな。俺を殺せたら俺が誰なのか教えてやるって」



 男の口元が歪む。



「聞け。俺はコルバート・ブラッドリィ。『血塗れコルバート』といや、巷じゃそれなりに名の通った殺し屋さ」



 そして、その顔を隠していたフードに手をかけ、ゆっくりと外した。

 少し色素の薄い茶色の髪が無造作にはねている。

 目は鋭い光を放ち、自信に満ち溢れているように思えた。

 ククルーの知っている     とは、その表情や雰囲気からして別人。



「な……え……?」



 普段から冷静なククルーも、動揺を隠すことができなかった。

 そんなはずはない。

 そんなはずはないのに、ククルーはつい口にしてしまう。



「せん……せ……?」



 目尻が気だるそうに下がっていない。

 無精ヒゲもなく、肌は若々しく張りがある。

 明らかに別人。

 それなのに、男の顔立ちはサーザイト・ルーヴェインにあまりにも似通いすぎていた。



「サーザイトの野郎が大切にしてた子を苛められるなんて、考えただけでゾクゾクしてくるな。

やばい、下半身に血が集まってきやがる。興味があるなら触ってみるか?」



 右手でククルーの肩を押さえながら、男――コルバートは下卑た笑いを浮かべた。

 単純な力では、まさしく子供と大人の力の差。

 ククルーにその手を払う力など無かった。

 せめてもの抵抗とばかりに顔を背けてみせる。

 と、



「あっ! くっ、あ、ぁ……」



 突如生まれた痛みに思わず声が漏れた。

 右手が、コルバートの剣で貫かれている。

 反射的に小刻みに痙攣する白い指と、染み出る血のコントラストが美しい。



「ククルーもそんな可愛い声出せるんだな。もっと聞かせてくれ」



 その言葉に恥じらう余裕は無かった。

 より深く、刃が右手に突き刺さってくる。



「あ、かっ、ふっ……!」



 上手く息が吸えない。

 ククルーがここまで肉体的にダメージを負うのは、実ははじめてのことだった。

 今まで、どんな敵にも彼女は慎重に対応し、確実に倒してきた。

 手を尽くし、それでも倒し切れなかったのはコルバートが最初なのだ。



「自分の好みの女を刻むのがこんなに興奮するなんてな。まったく、参るよな」



 剣を引き抜く。



「あぐっ」



 突き入れる。



「う……!」



 引き抜く。



「っ、あ!」



 突き入れる。



「くぁ、かはぅ、あ、あ、」



 ククルーの右手はすっかり血に塗れていた。

 もう息も絶え絶えで、口から舌を覗かせて懸命に呼吸している。

 せめてもの抵抗でずっと涙を堪えていたが、それもそろそろ限界だった。

 視界が歪み、涙が溢れるかと思った矢先――ぽた、とククルーの頬に何かが落ちてきた。

 苦悶に歪んだ顔を前に向けると、何故かコルバートの目から涙がこぼれていた。

 驚きのあまり、一瞬痛みも忘れてしまう。

 どうしてこの人は泣いているんだろうか。

 その事態にコルバート自身も驚きを隠せないらしく、目をぱちぱちさせている。



「なんだ……? ……そうか、混線してるのか」



 ぶつぶつとコルバートは何やら呟いていた。

 ククルーの拘束を解いたが、その目は油断のならない光を放っている。

 少しでもおかしな動きをすれば、再び凶刃が彼女を貫くことは容易に想像できた。

 ただ、逆に何もしなければ、それ以上は暴力を振るってこないであろうことも確信できる、そんな目だった。

 それでもククルーは、思わずぶるっと全身を振るわせる。

 不意に感じた殺気は、コルバートの背後。

 地面に這いつくばりながらも、爛々と目を光らせているイリスから。

 その目を見たとき、呼吸が止まったのをククルーは感じた。

 あの笑顔の眩しかった友人とは到底思えないほど、その表情は恐ろしかった。

 怒りと憎しみがないまぜになって、太陽のようだった可憐な面影はそこにはない。

 鬼。

 今のイリスを表すのに、これ以上適切な言葉はなかった。



「クーちゃんを放せ……」



 怒りのためか、口調まで変わっていた。

 コルバートは嬉しそうに、にっと笑う。



「いい顔だ。『この糞野郎、絶対にぶっ殺してやる』って顔だ。さっきまでとは比べ物にならないくらい魅力的だな、イリス」



 恐ろしいほどの殺意を、コルバートは涼やかな顔で受け止めている。

 この男は、『殺してやる』という意思を向けられることにあまりにも慣れすぎていた。

 そうでなければ、今のイリスに睨まれただけで腰を抜かしても、決して情けなくない。



「面白いじゃないか。禍根は残すべきか」



 そういうと、コルバートはククルーの手を取って引き上げ、そのままその体を抱きかかえた。



「クーちゃん!」

「おっと、動くなよ。動いたらククルーを殺さないといけなくなる」



 起き上がろうとしたイリスを声で制する。

 ぎりいと歯軋りが遠くまで聞こえてきた。

 だが、それはコルバートのはったりだった。

 今、コルバートにククルーを殺すつもりなどさらさらない。

 そのことに気付いていたのはククルーだけだったが、コルバートの意図がわからなかったので何も言わなかった。



「よく聞けイリス。ククルーは俺が預かる。取り戻したいなら、全力で俺を殺しに来い。

その代わり、俺がお前を殺すかお前が俺を殺すまで、ククルーは殺さないと約束しよう」



 それは、ほとんど宣言でしかなかった。

 イリスにそれを拒む理由も、また拒む権利もなかった。

 自身に向けられた激しい憎悪が一層強まったのに満足して、コルバートは踵を返す。



「……ろしてやる……殺してやる……!」



 呪いのようにイリスの口から漏れ出ていた言葉。

 それがその場から離れても、しばらくの間ククルーの耳から離れなかった。

 何かが――決定的に壊れてしまった。

 ククルーにはそう思えてならなかった。