閑話休題「混線、そして矛盾」


 指に肉が食い込む感触に、全身が打ち震えた。

 視界はすっかり暗く、何も目には映らない。

 ただ肉を掴んでいる、それはわかっていた。

 少し力を入れると、爪が柔らかい肌につぷりと入り込みそうになる。

 命というものはかけがえのないもの。

 だからこそ、それを踏みにじることに黒い欲望を覚える。

 興奮の余り、体中から汗が吹き出ているのを感じていた。



『せん……せ……?』



 ふと呼ばれた気がして、動きを止める。

 聞き慣れた声だったような覚えがあるが、なかなか思い出せない。

 喉に小骨が刺さってとれない、そんな感覚。

 あまり考えず、命の感触に酔いしれていたかったが、どうしても気になってしまう。

 むしろ、その声の主のことはすぐ思い出さなければいけないような気もした。



『先生……』



 また聞こえてきた。

 先ほどの声とは違う。

 だが、やはりその声には聞き覚えがあった。

 そう思うと、不意に視界に何かが映りこんでくる。

 ――髑髏だ。

 カタカタと顎骨が上下し、眼球の無い目がサーザイトを見つめている。

 表情などあるはずもないのに、何かを訴えかけてきているようにサーザイトには思えた。

 徐々に視界が戻ってくる。

 窓から薄っすらと日が差し込んで来ていた。

 ちょうど夜明けのようだ。

 朝日が部屋の中を照らし、すっと目の前に青白い顔が現れる。

 ユユ・フレイリー、サーザイトの教え子の一人。

 その時まで、サーザイトはユユと二人で宿に泊まっていたことを忘れていた。

 依頼を数多くこなしていたので十分二部屋借りるだけの貯えはあったのだが、

 ユユがどうしても同じ部屋でないと嫌だと珍しく駄々をこねたので、仕方なく同室していたのだ。



『せんせい……』



 ユユの声音は弱弱しい。

 そういえば、低血圧なのか朝は弱いのだということを思い出す。

 そこではじめて、サーザイトは自身が何をしているか気付いた。

 教え子の中では最年少のククルーよりも華奢な小さな体躯。

 そこへ馬乗りになって、サーザイトはユユの首を絞めていた。



「……!」



 驚きの余り、サーザイトは声も出せなかった。

 ほとんど反射的に、跳ねるようにしてユユから離れる。

 解放されたユユは、苦しそうに何度か咳き込んだ。

 その度に飛沫が白いシーツに赤い染みを残す。



「だ、大丈夫かユユ!」



 自分でやっておきながら何を言うのか。

 そうは思ったが、それでもサーザイトはそう声をかけていた。

 しばらく空ろな目でぼうと視線を宙に漂わせていたユユだったが、

 やがてサーザイトを認めると、いつもの含みのある笑みを浮かべる。



『あら……おはようございますの、先生』

「あ、ああ、おはよう」



 間抜けな受け答えだと思いながらも、つい反射的に返してしまうサーザイト。



「じゃなくてだな。その、大丈夫か?」

『何がですの?』

「何って、その……」



 クス、とユユは目を細めて笑んだ。

 この一ヶ月ほど、サーザイトは彼女とずっと行動を共にしているが、

 未だに彼女が何を考えているのかよくわかっていない部分が多い。

 そもそもクエスターズに通っていた理由も、ユユについては全く不透明だ。

 イリスは単純な好奇心から、エンジェレットは自身の能力の向上のため、

 ククルーは身寄りが無くなったことから一人で生きていくための知恵とつけるため。

 ならばユユはどうなのか。

 ふとそんなことを思ったが、今考えるべきことではない。

 それよりも、今自分がしてしまったことの重大さについてサーザイトは思う。

 これ以上彼女の傍にいたらお互いにとって危険だ。

 偶然墓場で出会ってから、わざわざ別行動をすることもないだろうと思って行動を共にしてきたが、

 こんなことをしてしまったらもう一緒にはいられないだろう。

 その思考には、たった一つだけ明らかな矛盾があったのだが、

 罪悪感で曇った彼の頭は、ついにそれに気付くことは無かった。



「ユユ、いきなりで悪いが今日から――」



 別行動を取ろう、そう言おうとしたサーザイトの言葉を、ユユはぴっと人差し指で制する。

 唇に指を押し付けられ、サーザイトは黙らざるを得ない。



『先生……めっですの』



 それだけ言って、唇を解放してくれる。

 冷たくて、思ったよりはずっと柔らかかった。



「……俺が何を言おうとしてたのかわかってたような言い方だな」

『わかってますの。先生はわかりやすいですの』



 ユユはサーザイトに押し付けた指を舌でちろりと舐めて、上目遣いに見つめる。

 心の奥底まで見通されているような気がして、サーザイトはその視線を直視出来なかった。

 ユユが時たま見せる、こういった妖艶な仕草は反応に困る。



『気になさらなくていいですの。大したことはありませんの。さっきの血はいつものことですの』

「寝ている間に、教え子に襲いかかるのが大したことじゃないのか?」



 つい相手を皮肉るような響きになってしまったことに言ってから気付く。

 それを気にしている風でもないユユは、表情を変えないまま



『あら、大したことをしたかったんですの?』

「……知らん」



 少しだけ言いよどんでしまった自分を殺したくなった。



「それで、俺が何を言おうとしてたのかわかったと言ったが、本当にわかってるのか?」

『どうせ一緒に行動するのをやめよう、とか言おうとしてたに違いありませんの』



 図星だった。

 サーザイトはぐっと黙り込んでしまう。

 そんなに自分はわかりやすかったのか、と少しだけ自己嫌悪。



『だめですの』



 普段と変わらぬ口調で、ユユは言う。



『今の先生と一緒にいられるのは、まだ私くらいですの』



 その言葉は、サーザイトにも何となく理解できた。

 だからといって、わざわざ行動を共にしたがる気持ちはわからない。



「どうしてそこまで俺と一緒にいることにこだわる。俺はこのままだとお前を」



 ……殺してしまうかもしれないんだぞ。

 そう口にしかけて、サーザイトは言葉を飲み込んだ。

 口にするだけでも躊躇われる。

 短い期間ではあったが、苦楽を共にした教え子をその手にかけるなど考えられない。

 だが、今のサーザイトはほぼ無意識の内に、欲望に似た殺意に身を委ねてしまわないとも限らなかった。



『クス……大丈夫ですの』



 そのサーザイトの気持ちを汲んだのか、ユユの声は言い聞かせるような風だった。



『私は、殺すことはあっても、決して殺されることはありませんの』

「ふ、そうか。なら、もしも俺がお前を手にかけそうになったら、遠慮はいらん。俺を殺せよ、ユユ」

『やーですの』

「……は?」



 唐突におどけてみせたユユに、サーザイトは間抜けな声をあげてしまった。



『たとえどんな理由であっても、誰かを殺したら禍根が残りますの。それは良くないことですの。

だから私は、まだ一度も人を殺したことはありませんの』

「……それでいいんじゃないか。お前みたいな女の子が軽々しく人を殺すなんて言うもんじゃない」

『あら、先生。さっきと言ってることが全然違いますの』

「う、確かに」



 頭を掻いて溜息をつく。

 ほんの僅かだったとはいえ、教師気質が抜け切っていなかったらしい。

 ベッドから起き上がって身だしなみを整えたユユがサーザイトに向き直る。



『でも、私のことを普通の女の子扱いしてくれたのは嬉しいですの。ありがとうございますの、先生』



 顔を洗ってきますの、と言ってユユは部屋を出ていった。

 出て行く間際、ふとはにかんでいた笑顔を思い出す。

 ユユにもあんな表情が出来たのだなとサーザイトは少し失礼なことを思った。

 強大な魔力を持っているとはいえ、ユユもまだ十三の少女なのだ。

 これは認識を改める必要がある。



(……それにしても、あいつと混線し始めるなんてな。早いところどうにかしないとまずいか)



 ずっと過去から逃げ続けていたかつてと違い、今は過去と向き合うことに決めている。

 だからこそ、これまでは決して繋がることのなかったあいつ――コルバートと意識を通じ合うようになったのかもしれない。

 別に、それ自体は驚くほどのことでもなかった。

 なぜなら、コルバートはサーザイトの



(あまりあいつの影響が出過ぎるようなら、ユユには悪いが別行動を取るべきだな)



 そう考えながら、サーザイトは欠伸を噛み殺した。