第四十三話「黒衣黒夜 5」


 男は余裕の表情を浮かべて突っ立っている。

 目の前には、微かに厳しい目をしたククルー。

 彼女は後方支援タイプだ。

 呪文を唱える際に致命的なタイムラグがあり、一対一の戦いには向いていないことは明らか。

 身のこなしはそこそこだが、肉弾戦を出来るとはとても思えない。



「どうするよ。お仲間は全員やられちまったぜ」

「……」



 返事は無い。

 ただその視線だけがじっと見つめ返してくる。



「……あなたは、誰?」



 飛び出たのは、問い。



「私達は名前を呼び合っていないのに、私やイリスの名をあなたは呼んだ」



 答えを待たずに、次の言葉が紡がれる。



「あなたは、誰?」



 男は何も言わず、口元を僅かに綻ばせた。



「俺を殺せたら教えてやるよ」



 一歩。

 男が踏み出すと同時、ククルーは動いていた。

 手の平を下にし、思い切り振り下ろす。

 瞬間、地面を削るほどの凄まじい旋風が巻き起こった。

 あっという間にククルーの体はその中に紛れていく。

 目眩まし。

 風魔法を得意とするククルーは、空気の流れを操ることに長けているので、

 気配だけでその位置を判別することは難しい。

 この土煙に紛れてこの場から逃げ出されたなら、たとえ男でも補足は不可能だ。

 だが、それはないと男は確信している。

 なぜなら、この場にはまだイリスが、そしてもう手遅れかもしれないがカテリナもいる。

 すぐに治療を施せば助かるかもしれない仲間がいる。

 その二人を見捨ててククルーが逃げ出す可能性など考慮に値しないことを、男は知っていた。

 男の目を盗んで倒れている二人の体を運び出されることも考えたが、無視。



 ――そんなことをしてみろ、くたばり損ない共をぶつ切りにしてやる。



 男は動きを止め、神経を研ぎ澄ます。

 あらゆる方向からの攻撃に対応出来るよう、重心を落としてすり足になる。

 姿は見えず、気流が乱れ渦巻いていて微かに感じる気配も霧散してしまっている。

 居場所がわからない。

 だが、ククルーは間違いなく自分を攻撃してくる。

 物理攻撃はありえない。

 カテリナとの攻防を見ていたククルーがそんな愚を犯すものか。

 たとえ眼前五センチのところでナイフを振り下ろされたとしても、

 そのナイフを交わし、細い腕を掴みへし折るくらいの芸当は、男にとっては容易。

 ククルーもそれは承知のはず、ならば自らに向けられるのは魔法による攻撃以外ない。

 全身の肌、その上を撫でていく空気の流れの一つ一つをも掴む。



 ――捕らえた。



 右前方、突如生まれた風の刃が空間を裂いて迫る。

 横薙ぎの一閃。

 かがむ様にしてそれを避け、そのまま一気に踏み出す。

 魔法を打ち出した直後、魔法使いは攻撃が出来ない。

 仮に攻撃した瞬間移動しようとしても、男の突進から逃れるのは至難。

 風に舞う青い髪。

 自らの死を前にした顔が驚きと微かな恐怖に彩られたのを見て男は張り裂けんばかりに唇を歪ませた。

 ただ我武者羅に、相手を殺すことだけを考えて、左腕を突き出す。

 ズプリ、とククルーの白い喉を刃が切り裂き、貫いた。

 肉を抉り、骨を砕き、命を蹂躙する感触。

 思わず下半身が熱くなってきそうだった。

 しかし、頭の冷静な部分は落胆を覚えている。

 随分と呆気ない、これで終わりなのか、これならあのカテリナとかいう女の方がまだ気骨があった。

 そう考えるだけの意識が残っていたことが、結果的に男を救う。

 串刺しになっていたククルーの体が、目の前で塵になって消えた。

 驚愕。

 だが、それだけでは済まなかった。

 再び不自然な気流が生まれる。

 風。

 まるで四方から男を取り囲むようにして放たれてくる。



「っそったれがあ!」



 視界に映った鎌鼬は四つ。

 全てを受け切るのは無理と判断した男は、頭を下げて体を無理矢理に捻った。

 ぎちぎちと関節が悲鳴を上げる。

 顔面すれすれのところを風が吹きぬけ、フードの先端に切込みが入る。

 致命傷になると判断した頭部への一撃をなんとか回避したものの、他三つが男を容赦なく切り裂いた。

 右肩、右脇腹、右太腿にそれぞれ真っ赤な跡を残す。

 カテリナの攻撃で血が溜まっていたのか、腹部からはフードの生地が吸い取れないほどの血が一気に吹き出てきた。

 足元に真っ赤な水溜りが広がっていく。

 右腕は全く力が入らない、完全に使い物にならなくなった。

 右足は辛うじて動かせたが、ほとんど踏ん張りは利かない。

 この足では、先ほどまでのように溜めを必要とする突進はもう出来ない。



 ――熱くなってたのが今のですっかり萎えてしまったな。



 と、男は攻撃を浴びたことで逆に冷静さを取り戻していた。

 手痛い傷を負ってしまったのは不覚だったが、それは自分が戦闘中に気を緩めた結果だ。

 先ほどの一撃は決して避けられないレベルのものではなかった。

 剣を杖の代わりにし、左足で地を蹴ると同時に左腕を伸ばすことで高く跳躍する。

 そして上空から、男は見た。

 土煙の中で、自分に冷たい視線を向けている五つの影――

 マジかよ、と男が思う間もなく空気の銃弾が彼を正確に狙い打ってくる。

 空中に跳んだ男にそれを避ける術がない。

 だが、男の体は先ほどの風の刃によって血塗れだ。

 その血が形を成し、圧縮された空気弾から男を守る盾となる。

 男が着地すると、その真紅の盾は音を立てて崩れ、その名の如く宙に雫を散らせて舞い消えた。

 最初の土煙がここでようやく晴れてくる。

 目の前の五人に、男は問いかけた。



「で、どいつが本物なんだ?」



 返事は無かった。
 ククルーの視線に殺意が乗り、場の空気を震わせている。

 分身。

 それもただの分身ではなく、実体のあるもの。

 熟練の魔法使いでも二体出せれば上等である魔法だが、ククルーはその倍の数を見事に使いこなしている。

 いや、先ほど男が一体を消し去ったので、倍以上だ。



 ――魔法に関しては超天才児だな。



 しかし、この実体を持つ分身には欠点もある。

 それぞれが自意識を持って襲ってくるのは確かに怖いが、

 その分発現させているだけで膨大な魔力を消費し続けることになるのだ。

 いくらククルーが人一倍の魔力を保有していようと、恐らくこの状態で戦えるのはせいぜい二分弱。

 逃げ続けているだけで男の勝利は確固たるものとなる。

 だが、それは当然ククルーも承知している。

 元々クエスターズ問題児組の中で、最も頭が良かったのはククルーだ。

 何の対策もなく、ただ真正面から戦うことなど考えていないはず。

 ならば、その小賢しい策ごと力で蹴散らす!

 男は軽く踏み出した。

 的を絞らせないために、真っ直ぐ突き進むことはしない。

 そんなことをしたら、たちまち男の体は風魔法の集中砲火で八つ裂きにされる。

 そう考えた瞬間、戦いを興じている自分とは別の思考が自らの内に生まれた。



 ――八つ裂きか。それも悪くない。



 迫る風の刃が真横をすり抜ける。

 フードと頬に一筋切れ目が入った。

 完全に回避したつもりでも、空気を裂く刃は男の体を刻んでいく。

 それでも臆することなく、前へと踏み込んでいく。



「嬉しいぞククルー」



 血を飛ばしながら、男は興奮した面持ちで笑っている。



「殺し合いってのは、命を賭けるわけだから互いの全精力を賭けてぶつかり合うってことと同じだな」



 近づくにつれて、次第に避け切れなくなってくる。

 肉が抉られ、ローブがどす黒い色に染まる。



「なあ、俺の全部をやるから! お前の全部をくれ! ククルー!」



 最後の一歩は、最早攻撃を避ける気など見当たらなかった。

 放たれる瞬間の魔法に自ら飛び込み、距離をゼロにする。

 その時には、血糊のついた刃が柔肌に突き刺さっていた。

 霧散するククルーの体躯。

 そこへ瞬時に四方向から鎌鼬が襲い来る。

 仕留めようとする攻撃ではない。

 同時ではなく、微妙にタイミングをずらして飛んでくる魔法の風。

 致命傷を負うことはないが、確実にダメージを与えようという意図が見られる。

 少しずつ敵を追い詰めて仕留めるやり方は、まるで狩人のようだなと男は思った。

 それは正解でもあるが、同時に男にあることを確信させる。



 ――そういう回りくどいことをするってことは、自分が実力的には劣ってるって認めてるようなもんだ。



 体が切られていく痛みは、神経を研ぎ澄ますヤスリのような役割しか果たしていない。

 既にククルーが分身を使えるであろう時間は一分を切っている。

 分身の内、二人が地面を滑るような動きで近づいてくる。

 その後ろ、残りの二人が詠唱を始めていた。

 足止め役と止め役。

 止め役を二人にしたのは、恐らく本体を絞らせないためだ。

 本体以外を全て足止め役に使い、万が一足止めに失敗したら無防備な本体が狙われてしまう。

 左右から挟むように迫る分身を避けつつ、二方向からの攻撃を避けるのは至難。

 では、どうすればいいのか。

 簡単なことだ。

 ――はじめから避けなければいい。

 使い物にならなくなった右腕も、なんとか二の腕までは動かせた。

 剣も持てぬ、まともに振るえもせぬ腕なら、盾としてでも使えれば上等。



「ぐぅっ」



 足止め役の魔法を右腕に受ける。

 痛いのか熱いのか、それすらわからないほど右腕の感覚は鈍り始めていた。

 だが回避運動を取らずに真っ直ぐ相手に近づいた分、体勢は崩れていない。

 それだけで十分だった。

 左手の長剣を振りかぶり、何の躊躇いも無く放り投げる。

 回転しながら飛ぶ刃は、ククルーの胸部を半分以上こそぎとって真っ赤に染まった。

 同時に、男の右腕から勢い良く鮮血が散る。

 宙に弾けたその液体がククルーの白い喉にかかった。



「……!?」



 こぽ、と場に似つかわしくない小気味いい音。

 ククルーは咄嗟に声を上げようとした。

 だが、既に喉がなくなっていたため音が発せられることはなかった。

 瞬時に霧散する分身二体。

 これで残るは、本体と分身一体のみ。

 地面に落ちた剣を拾うために、男は駆けた。

 左手を伸ばし、柄を掴むと同時に左肩から着地、そのまま一回転して態勢を整える。

 前を向くと、もう目の前にククルーが突っ込んできていた。

 完全に無防備。

 だからこそ、その突進は容易に避け切れるものではなかった。

 咄嗟に男は剣を構える。

 そこにククルーは自ら飛び込んできた。

 ズプリと柔らかな肌に死が食い込んでいく。

 まるで傍目には、二人は抱き合っているようにすら見えた。

 しかし、男はククルーの表情を一瞥した瞬間、不意に背筋に悪寒を覚える。

 ククルーの目には、およそ生きている者なら持っているであろう生気がなかった。

 見えたのは、激しいほどの自己嫌悪、そして明確な殺意。

 その目は、先ほど戦ったカテリナと同じ種類のものだった。

 目の前がちかちかする。

 それがなんなのかわからずに戸惑っていると、突然全身がぶるりと震えた。

 男は、直感的にそれが死の予感であることを察し、なりふり構わずに体を振ってその場から飛び退く。



「っが……!」



 右足にねじ切られたかのような激痛が走った。

 竜巻――そう形容するのがぴったりだった。

 それが男の右足を巻き込み、ズタズタに切り刻んでいった。

 血を、肉をこそぎとって真っ赤に染まった赤い旋風が虚空へ消えていく。

 男は剣を杖代わりに立ち上がった。

 右半身は血に汚れていない箇所の方が少ない。

 それでも男はまだこうして立っている。

 一方、ククルーは分身を全てやられた。

 もうほとんど魔力自体残っていないだろう。

 魔法抜きならば、まだ十二の少女をくびり殺すくらい指一本あれば出来る。



「はあ、はあ……っはあ、はははは」



 全て受け切った。

 ククルーの全てを。

 あとは残りをいただくだけだ。

 男が一歩詰め寄ると、それに合わせてククルーが一歩退いた。

 魔法の使えなくなった魔法使いなど恐るるに値しない。

 無論、ククルーもナイフの一本は常備しているだろうが、

 ククルーが男を殺す前に、男ならばその命を五回は蹂躙出来る。

 少しずつ二人の距離が縮まっていく。

 ククルーは、華奢な体を小刻みに震わせていた。

 これから自身に理不尽に振りかけられる悲劇が恐ろしいのだろうか。

 それでもその顔はぎゅっと引き締められ、それが男の被虐心を一層かきたてる。

 もう彼女に為す術はない。

 そもそも分身を五体も操れた時点で十分驚嘆できるレベルなのだ。

 その上、男を追い詰めるためとはいえ魔法を連発していた。

 あれで魔力が枯渇しないはずがない。

 男が剣をそっとククルーの喉元に突きつける。

 微かに息を呑み、こくりと動いたのを男は素直に美しいと思った。



「言い残したいことがあれば聞いてやる」



 それはほんの気まぐれだった。

 自身を予想以上に楽しませてくれた、ほんのサービス。

 小さな口がゆっくりと開き、微かにわななく。



「つ、……」

「つ?」



 何を言おうとしたのか?

 男が耳に神経を集中させ、


「貫け」



 背後から飛来した何かが背中から腹に突き抜けてきた。

 声を上げる間も無く、男の体は宙を舞う。

 男が最後に目にしたのは、逆巻く風の槍。

 それが背中から突き抜けてきたそれが、男の内臓をぐしゃぐしゃにかき回し、その命を撒き散らせた。