第四十二話「黒衣黒夜 4」


 二人は再び八メートルほどの距離をとって対峙していた。

 男は余裕ある笑みを浮かべているが、額には僅かに汗が滲んでいる。

 カテリナに先ほど食らった一撃のダメージが大きいようだ。

 脇腹が内側から削り取られているのだから、それも当然の話。

 本来なら戦闘不能に陥ってもおかしくない重傷。

 しかし、男の汗はその傷によるものではなく、むしろ興奮によるもの。

 カテリナの先の攻撃は、明らかに男のシャドウサーヴァントの能力を先読みしたものだった。



 ――万能な能力じゃないって完全にバレてるな。



 苦笑。

 シャドウサーヴァントは、決して万能な能力ではない。

 発動中は無敵だ。

 どんな攻撃も男には通用しなくなる。

 影に潜り込んだ男を攻撃する方法はこの世に存在しない。

 その能力の唯一の欠点。

 それは、入り込んだ影からしか出られないということ。

 もし好き勝手に影から影へ移れるのなら、わざわざ間合いを計って白兵戦をしたりなどしない。

 そんなことをするメリットが一切無い。



 ――仕方ないな。



 長剣の先端をカテリナに向けたまま、その腕を引く。

 同時に腰を落とし、右足を大きく引いた。











 カテリナは男の姿勢を見て怪訝に思った。

 あの前傾姿勢は、明らかに突進の準備とわかる。

 どれだけの速さで突っ込んでこようと、迎撃は容易い。

 ……何かある。

 カテリナは神経を研ぎ澄ませ、男の一挙一動を見逃すまいと目を鋭くさせた。

 男の顔には相変わらず笑顔が張り付いている。

 嫌らしい表情だ。

 一体何を企んでいるのか――そう思っていると、不意に叫びが耳をつんざいた。



「後ろですカテリナさん!」



 イリスの声。

 咄嗟に体を振り、地面を転がる。

 その体があった空間を、刃が一閃した。

 地面を強く叩き、その反動で立ち上がったカテリナも、その正体に気付き目を見開く。



「……なんだと?」



 カテリナを背後から襲った者。

 それは紛れも無く、先ほど死んだはずのユリウスだった。

 全身の刺し傷から血が流れ出ている。

 左目はナイフで抉られ、その虚がカテリナを見つめていた。

 間違いなく死んでいる。

 カテリナはユリウスを視界に置きつつ、男を見た。

 姿勢を全く崩していない。

 その顔には殺意と喜悦が同居した狂った笑顔が浮かんでいる。



「お前の仕業か」

「ご名答。俺の能力は二つ。さっき見せた影に入り込む能力シャドウサーヴァント。

それと、血を操る能力ダンシングブラッド。両方の能力を一人の人間に使うのは初めてだ。誇っていいぞ」

「死体をけしかけてどうするつもりだ。まさか俺が仲間の形をした物を壊すのを躊躇うとでも思ってるのか?」

「まさか」



 一笑に付す。



「ほんの一瞬でも、お前の動きを止めてくれさえすればいい」



 瞬間、ユリウスが地を蹴った。

 地面すれすれを飛ぶように駆ける。

 防御も何も考えていない無謀な特攻。

 受けるのは容易だ。

 だが受けた瞬間、その一瞬の隙を男に突かれる。

 男は決して弱くも甘くもない。

 無防備なところを攻撃されたら、待っているのは確実な死。

 かといって、我武者羅に突っ込んでくるユリウスを生半可な攻撃で止めることは不可能。

 既に死んでいる者をもう一度殺すことはできない。

 全身をばらばらにするほどの一撃を叩き込むしかない。

 だが、それをしたら男に殺られる。

 ならば。

 同時だ。

 ユリウスも、男も、同時に相手をしてやればいいだけのこと。

 そう思うと、カテリナは早かった。

 体を巡る気を両の拳に集中させる。

 練気の達人であるカテリナが全力で気を集中させれば、その肉体は大地を抉り取ることすら可能だ。

 ユリウスの体を一撃の下に粉砕し、瞬間男の追撃を迎え撃つ。

 出来る。

 ぐっと拳を堅く握り、左手は腰に当て、右手は肘を曲げて半分ほど突き出す。

 男はまだ動く素振りを見せない。

 ユリウスは右手に持ったナイフを振り上げようと上体を勢い良く起こす。

 男はまだ動かない。

 おかしい、とカテリナは思う。

 追撃するのなら、このタイミングで踏み込んでくるはず。

 もうユリウスは目の前だ。

 踏み込んでこないのなら、先にユリウスを撃退する。

 下方から振り上げられた刃を体をそらすだけで軽くいなす。

 そしてその胴体に押し当てるように右拳を突き当てた。

 既に温かみを失いつつある体から弾力を感じたのは一瞬。

 拳に溜めていた気が爆発的な破壊力を生み、ユリウスの体は胸から腰部分が粉々に吹き飛んだ。

 その間も、カテリナは男から目を離していない。

 男はまだ動いていなかった。

 最早何をしたいのかわからない。

 と、男の口が僅かに動いた。

 その声は届いてこなかったが、唇の形でなんと言ったのかだけはわかる。



「ばーか」



 と。

 その言葉に怒りを感じ――る間は、無かった。

 カテリナは、とすっ、という軽い音を耳にした。

 すぐ近く。

 正確には、自らの腰の辺りから。



「は……?」



 首を回して、見る。

 何かが自分の腰から突き出ていた。

 違う。

 真紅の突起が、自分の腰へ深々と突き刺さっている。

 その深い色は、赤というよりは黒に近い。

 痛みより驚きが勝っている。

 それを見た瞬間、男のある言葉を思い出した。



『俺の能力は二つ。さっき見せた影に入り込む能力シャドウサーヴァント。それと、――』



 クソが。

 そう思ったのと同時に、男の体が一瞬動き、止まったのが見えた。

 来る!

 だが、カテリナは右拳が伸びた状態で、しかも側面から攻撃を受けてしまっている。

 恐らく男の攻撃は、先ほどまでの奇手とはまるで違う、全力の一撃。

 果たして左手だけで受け切れるのか。

 カテリナの表情にはじめて焦りが生まれる。

 気というのは、案外脆いものだ。

 熟達した者でもかなりの集中力を必要とする上、僅かでも乱れるとたちまちその効力は半減してしまう。

 今、カテリナは予想外の攻撃で手傷を負わされた。

 平静とはとても言えない状態。

 万全ではない。

 そこへ渾身の一撃を叩き込まれて、果たして自分の拳は耐えられるのか。

 耐え切れなければ、恐らく左腕は使い物にならなくなる。

 いや、それは楽観的。

 男の長剣は、ほぼ間違いなく自分の命に届く威力を秘めている。

 今更何を考えても仕方が無い。

 この体勢で男の動きから逃れるのは不可能。

 ならば、受け切る。

 それ以外に道は無い。

 が、その道に飛び込んできた影があった。



「ったあああ!」



 イリスだ。

 自慢の大剣を振りかぶり、跳ねるように男に飛び掛る。

 瞬間的な突進力だけなら、イリスはカテリナに勝るとも劣らない。

 男の攻撃がカテリナに届く遥か前にイリスは大剣を力いっぱい振り下ろす!

 だが、破壊力と引き換えにその一刀は絶望的なまでに遅い。



「邪魔だイリス」



 男の腕が振り上げられた。

 その切っ先が見えないほどの恐るべき速さ。

 その初動を辛うじてカテリナが見切れた程度。

 イリスの渾身の一撃は、自分の五分の一ほどの獲物にいとも簡単に弾かれた。

 衝撃でカテリナの方へ弾き飛ばされたイリスだが、既に男はイリスを視界に入れていない。

 男にとって、イリスなど気を留めるに値しないレベルということ。

 だがカテリナはそうもいかない。

 飛ばされてきたイリスを左手で受け止めてやる。

 ほとんど勢いを殺さずに向かってきた男は目前。

 剣の切っ先が鋭い光を放った。

 それを認めたカテリナは迷うことなく――イリスを目の前に突き出して盾代わりにした。

 え? とイリスは思わず間の抜けた声を漏らしてしまう。

 自らの死が迫るのを意識する間もない。

 生の終わりを告げる刃が無情にも振り下ろされ

 直後、風が巻いた。

 空気の壁に叩きつけられ、三人は為す術なく体を宙に投げ出される。

 ほとんど受身も取れずに三者は地面に叩きつけられた。

 風の舞い起きた先にいたのは、ククルー。

 イリスが飛び出した瞬間、咄嗟の判断で魔法を使用した。

 万が一のときのために呪文を唱え終えていたので、瞬時に発動できた。

 流石に目の前の相手に集中しているときの不意打ちは、男も反応が出来なかったらしい。

 むくりと起き上がって、唾を地面に吐き捨てた。

 一方、カテリナは動かない。

 じっと地面に横たわったままピクリともしない。

 その傍らのイリスが上体を起こし、反応がないカテリナを見て小首を傾げ、



 自らの持つ大剣がカテリナの右肩に深々とめり込んでいることに気付いた。



 その顔から一気に血の気が引く。

 慌てて剣を引き抜くと、そこから血が溢れ出した。

 鉄の臭いが辺りを包む。

 死が忍び寄る香りだとイリスは本能的に察した。



「か、カ……カテリナさん……」



 声が震えている。

 喉から絞られる音は、まるで自分のものではないようだった。

 カテリナは視線だけを動かしてイリスを見、笑んだ。

 自嘲めいた色が見える。



「は……ヤキが、回ったな……仲間ぁ、盾になんてしたか、らかぁ」



 確かに最後、カテリナはイリスを盾にしようとした。

 ククルーが魔法で吹っ飛ばしてくれていなかったら、イリスはもうこの世にいなかっただろう。

 しかし、それでカテリナが死んでしまっては、イリスにとっては自分が死ぬこととほとんど変わりない。

 カテリナの体から力が抜けた。

 どうやら気を失ったらしい。



「クーちゃん……クーちゃん! 治して、カテリナさんを治して!」



 イリスは我を失って叫ぶ。

 カテリナの吐息は細い。

 辛うじて息はあるようだが、出血の量を考えると時間の問題だった。

 しかし、ククルーは動かない。

 冷えた目をしたまま、イリスとカテリナ、そして男に目を配る。



「治すって、わかってんのかイリス。その女はお前を盾にしようとしたんだぞ」

「そんなの関係ないっ!」



 言い切った。

 あまりにも愚直な意志が男を見据える。

 いや、それは違った。

 イリスの目には、いくつもの感情が渦巻いている。

 昨日まで語り合ったオーランドとユリウスの死による哀惜。

 その命を奪った男に対する畏怖。

 仲間の死体を躊躇無く破壊したカテリナへの疑念。

 どうして自分の体を盾に使おうとしたのか。

 イリスの頭では到底理解が追いつかない。

 わかりたいのに、わからない。

 それは自らの把握力不足だということに薄々気付いていた。

 悔しさが込み上げてくる。

 様々な感情が入り混じり、込み上げてきたのは――怒り。

 カテリナは『宣言』したが、そんなものは必要なかった。

 言葉はいらない。

 ただ、目の前の命を思うがままに蹂躙してやる。

 そんな攻撃意志を露にしたまま、イリスは大剣を振りかぶって駆けた。

 明らかに先ほどまでとは初動からして違う。

 瞬時に最高速に達した、思わずそう錯覚してしまうほどの踏み込み。

 柄を握り潰す勢いで拳に力を込めると、イリスは不思議な感覚に襲われた。

 剣を握っている感触がない。

 剣自体が自らの腕となったようだった。

 いつも以上にその刀身に重みを感じない。

 いける。

 なぜかそう思う。

 これなら、目の前の男を確実に



 ――殺せる。



「……っ」



 そう思った瞬間、イリスの呼吸が僅かに乱れた。

 オーランドの、ユリウスの、カテリナの血に塗れた姿がフラッシュバックする。

 あの惨状を、今度は自分が作るというのか。

 ほんの僅か、剣先がぶれた。

 隙とは言い切れない間隙を男の体がすり抜けてくる。

 大剣は懐に入られると脆い。

 イリスもそれは承知している。

 だが、イリスの力は獲物を持たずとも人体を破壊するに十分。

 反射的にイリスは剣を振った勢いを殺さないまま回転。

 そのまま後ろ回し蹴りを繰り出そうと脚を持ち上げ



 その膝に、男の手が添えられていた。



「えっ」



 先読みされていた。

 その事実に気付いた瞬間、膝を押さえていた男の左手が滑るようにイリスの鳩尾に突き刺さる。

 驚きで固まっていた体はほぼ無防備にその一撃を受けてしまった。

 地面を無様に転がり、イリスは体を丸めて小刻みに震えている。

 急所を強く打たれ、一時的な呼吸困難に陥っている。

 イリスが咳き込むと、その口からびしゃりと胃の中身がぶちまけられた。

 尋常ではない苦しみ様。

 男は感触を思い出すように拳を何度か握り直す。

 手応えから言って、恐らく内臓が破裂した。

 イリスの生命力を考えると致命傷ではないかもしれないが、戦闘はもう不可能だろう。

 男はイリスから目を離し、ククルーを真っ直ぐに見据えた。