第四十一話「黒衣黒夜 3」


 怖い女だな。

 男はカテリナのことをそう感じた。

 弱い奴も、強い奴も、彼は星の数ほど見てきた。

 臆病者なんて珍しくもないし、彼を倒そうとしてきた勇敢な者達も、数え切れないほど屠ってきた。

 しかし、だ。

 怖いと感じた人間は、彼の生涯で二人しか存在しない。



「お姉さん、名前はなんて言うんだ?」

「……カテリナ・ランスター」

「お前、怖い女だな」



 男は自分の質問に対する答えをほとんど無視して、

 そして先ほど思ったことをそのまま言った。



「俺の能力確かめるために、今の奴捨石にしただろ」



 イリスが驚きを露にして、カテリナに視線を送った。

 カテリナは微動だにしない。

 冷めた表情のまま



「言っている意味がわからねえ」



 しらばっくれやがって。

 男はそう思って失笑する。

 初めて戦う相手と相対したとき、出来るだけ実際に手を交える前に相手の情報を手に入れようとするのは自然なこと。

 そのためにカテリナは、あえて聞く必要のない質問をした。

 人殺しを『趣味』だと言う男の答えが、きっとユリウスにとっての起爆剤になると確信して。

 結果は、大当たり。

 ユリウスは自分から捨て身になって男に攻撃を仕掛け、倒せないまでもその能力を露呈させた。

 カテリナによってその思考を利用されたとも知らずに。

 だが、明らかに自分たちよりも強大だとわかっている敵を相手にする際には、利口なやり方だ。

 対策もなくただ全力で戦い、結果全滅しましたでは話にならない。

 一人を犠牲にして情報を得る、そうすることで他全員の生存率を上げる。

 悪くない選択だ。

 ただ、人間としては最高に最低な部類。

 同時に、恐ろしいほどの覚悟とも言える。

 仲間を助けるために仲間を殺すという矛盾を犯す。

 そんな覚悟を持ち、その選択を即座に行える。

 そういう人間は、怖い。

 ただ純粋に怖かった。

 そして、嬉しかった。

 その人間を、今から思う存分ぶっ殺せるのだから。



「それじゃ、殺るかい」

「ああ」



 男が長剣を構え、カテリナが右半身を前に出して腕を上げた。



「イリス。もしオレがやられそうになったら遠慮はいらねえ。オレごとこいつぶった斬れ」

「え?」

「それが無理なら、全力で逃げろ。わかったか」

「は、はいっ」



 それを聞いて、イリスはなんだかほっとしてしまった。

 こういうことを言ってくれるのだから、カテリナがユリウスを捨て石にしたなんて嘘に決まっている。

 危うく敵の妄言に意識を傾けるところだった。

 やはりカテリナはカテリナなのだ。

 イリスは思う。

 だからこそ逃げるわけにはいかない。

 カテリナさんが危なくなったら、助けに飛び込もう。



「ククルーは……」



 カテリナは、なぜか一瞬言葉に詰まった。

 だが、言葉の続きはすぐだった。



「状況に合わせて、自己判断で臨機応変に対応しろ」



 返事は無い。

 ククルーはカテリナに視線を向けたまま、小さく頷いただけだった。

 カテリナも、言うだけ言うと既にその意識は目の前の相手にのみ集中させている。

 先ほどまでとは明らかに場の空気が違う。

 張り詰めていく。

 凍り付いていく。

 息をするのも憚られるような圧倒的な緊張感で場が満たされていく。

 その中で、カテリナははっきりと言った。



「これだけは言わせてもらうぜ」



 拳を強く握り締める。

 ぎちぎちと肉と骨が軋みをあげた。

 鍛え抜かれたその肉体は、既に凶器と呼ぶに相応しい。



「オレはお前に『死ね』とは言わねえ。言葉は人を殺さねえ。想いじゃ人を殺せねえ。だから、これは宣言だ」



 一息



「オレはお前を『殺す』」



 死ねと言われて死ぬ奴はいない。

 そんな言葉には意味が無い。

 だから、宣言する。

 相手に殺意を伝えるためではない。

 自らへの確認。

 確かに相手の命を奪うのだという覚悟と決意を終えるための言葉。

 たった一言、『殺す』。

 それが始まりの鐘の音になる。

 立ち上がりは静かだった。

 二人はすり足で、じりじりと円の周を削るように互いに距離を詰めていく。

 なぜ一気に距離を詰めないのか。

 理由は簡単だ。

 一気に距離を詰めようとすれば、当然動きに溜めの時間が出来る。

 それで相手に突っ込むタイミングを教えてしまう。

 しかも踏み込んだ瞬間、僅かとはいえ片足を上げることになる。

 つまり、その足が地面に下りるまでにワンアクション必要になる。

 そこに攻撃が来たらどうするというのか。

 避けられません、対応し切れません、食らいました、やられました、では困るわけだ。

 その点、すり足ならばあらゆる方向にいつでも動ける。

 今までの経験から、カテリナはそれを熟知していた。

 そしてそれは相手も同様らしい。



「……」

「……」



 二人は呼吸していることすら悟らせないようにしていた。

 なんらかのアクションを取ろうとしたとき、どうしても人は体に力みが出る。

 一定であったはずの呼吸が一瞬乱れる。

 そこを相手に読まれたら、終わりだ。

 そのアクションの失敗は半ば約束される。

 相手の実力が高ければ尚更だ。

 一対一の勝負では、相手の虚を突く動きは推奨されるが必要ではない。

 自分がいかに傷つこうが、相手を追い詰め、削り、最終的に自分よりも先に息の根を止める。

 それだけでいい。

 相対してから、およそ五分。

 二人は示し合わせたようにほぼ同時に歩みを止めた。

 その距離は、約八メートル。

 偶然ながら、そこは二人がぎりぎり一歩でゼロ距離に持っていける距離だった。

 すり足で近づいていけば、あらゆる状況に瞬時に対応できる。

 相手もそれは承知のようだ。

 だからこそ次の瞬間飛び込んでくるかもしれない。

 二人とも、その意識の裏を突かれることを警戒していた。

 先に動いたのは、カテリナだった。

 先ほどまでの動きが嘘のように、ほとんど無防備に歩む。

 その動作に、男は逆に戸惑った。

 しかし、瞬時にはっとなる。

 そして頭が思うより早く剣を引き抜こうとしたが、



「遅い」



 その剣を抜こうとした左手を、カテリナの左手が掴んでいた。

 万力のように締め上げてくる。



 ――わざと無防備になって、俺の油断を誘いやがったよ、この女。マジで惚れるぜ。



 どんなに実力の高い者でも、何らかの要因で無防備な姿を晒すことがある。

 だが、案外そこを攻め切れる者は少ない。

 あいつが何の対策もしていないわけがない、何かある、きっと罠だ、そうに違いない。

 そんな思考が僅かでも入り込んできたら、もうアウトだ。



(かといって、まさかそれを俺相手にやる奴がいるとは思ってなかったな)



 相手の意図を読み取れなかった、これは自分のミスだ。

 鈍い音と共に左手に激痛が走る。

 物凄い力だった。

 咄嗟に体を右に回転させる。

 オーランドも使っていた裏拳。

 男の左手を握っていたカテリナの体が僅かに揺らぐ。

 その側頭に拳がぶち当たる。



「っが……!」



 痛みによる苦悶ではなく、むしろ驚き。

 声の主は、攻撃を加えたはずの男だった。

 男の攻撃は確かに当たった。

 だがカテリナは引っ張られた瞬間に、ともすれば反射的に踏ん張ってしまうところを、

 力に流されるように体を動かしていた。

 その頭には男の拳ではなく、腕が当たった。

 力いっぱい叩きつけた骨が嫌な音を立てる。

 間違いなく折れた。



「ちっ」



 浅かったとはいえ頭部に当たったためか、カテリナの手から僅かに力が緩んだ。

 それを見逃さず、男はカテリナの拘束から逃れて後方へ飛ぶ。

 その右腕の肘から先はだらりと垂れ下がり、力が入っていなかった。

 カテリナから目を離さないようにしながら、ゆっくりと左手を動かしてみる。

 微かに痛みがあったが、問題なく動かせた。



(利き手が壊されなかったのは不幸中の幸いか)



 予想以上にカテリナは強かった。

 単純な戦闘力だけなら負けていない自信はある。

 だが、カテリナはとにかく上手い。

 本来なら勝つための要素になるはずの相手の知識や経験を逆手に取り、そこから切り崩してくる。

 怖い女だな、と再び男は思った。











 強い。

 黒衣の男の方もそうだが、それ以上にカテリナが。

 二人のやり取りを静かに見ていたククルーは単純にそう思う。

 このまま何事もなくカテリナが勝ってくれれば何も問題はない。

 だが、黒衣の男はまだユリウスを倒したときに使った力を使っていない。

 それ以上に、男はまだ何事かを隠しているかのような余裕が感じられた。

 もしカテリナがピンチに陥ったら、隣にいるイリスは迷い無く助けに入るだろう。

 多分そのとき、カテリナはイリスを



「……」



 ククルーは僅かに顔を強張らせた。

 カテリナに最後に言われたことを思い出して、思う。

 あの人は身勝手だ。

 しかも狡猾で、それなのに一抹の優しさを持っている。

 それが余計に彼女の残酷さを増していた。

 ククルーは、ある覚悟をしている。

 自分の望む全てが手に入るほど世界は甘くない。

 だったら、一番大切な何か。

 それを守るために、他の一切を捨て去る覚悟をしていた。

 不意に、一陣の風が舞った。











 男が地を蹴った。

 明らかに先ほどとは動きが違う。

 攻撃を食らうつもりの無謀な突進。

 だが、それは逆に相手も攻撃をせざるを得ないということ。

 カテリナが拳を挙げ、迎撃の態勢を取る。

 それを確認してから、男は剣を引き抜き、そのまま切り払った。

 衝撃。

 剣の切っ先を、カテリナは右拳の甲で受けていた。

 ナックル、その金属部で受け止めている。

 恐ろしい動体視力と反応速度だ。

 その瞬間、男はカテリナの能力を悟る。

 練気。

 自らの気を纏わせて、その耐久性を格段に上げている。

 そうでなければ、ナックルの薄い金属板程度、容易に切断可能。

 カウンター気味にカテリナの左拳が突き出される。

 溜めの時間が長く、本来ならば余裕で対応できる攻撃。

 しかし、今男は長剣を振りぬこうとした直後。

 その体は剣を受けられた衝撃でほんの僅か硬直している。

 眼前に拳が迫る。

 気を纏った拳に死が宿っている。

 横殴りの一撃。

 狂気の張り付いた笑顔でそれを凝視する。

 決して目を逸らさない。



 ――なにかが弾けたような音がした。



 カテリナの拳が振り抜かれていた。

 男の顔が冗談のように炸裂。

 間違いなく死んでいる。

 カテリナの一撃は、その気になれば樹齢千年の大木すら薙ぎ倒すまさに必殺。

 直撃したならば、たとえ誰であろうと死は免れない。

 ……直撃したならば。



「!」



 イリスは、見た。

 男の体が、カテリナの攻撃を受ける瞬間に漆黒に染まったのを。

 そしてそのままどろりと地面に吸い込まれるように消えたのを。

 カテリナは、その名残を拳圧で飛ばしただけ。

 既にカテリナの背後、地面から沸くように黒い影が形を成そうとしていた。

 今いる場所からでは、到底間に合わない。



「カテリナさ――」











 ほぼ真後ろから、イリスの声が聞こえてきた。

 が、もう遅い。

 相手は既に渾身の一撃を叩き込んだ後だ。

 どんな達人であろうと、その直後には僅かに隙が生じる。

 その隙を突くために、攻撃を食らってもいい覚悟で突っ込んだのだ。

 男の唇の端が、より一層釣り上がる。

 ――殺せる。

 今なら左手の長剣を突き出すだけで、目の前の命を消すことが出来る。

 その思考が爆発し、一瞬にして脳内を満たしていく。

 そしてそれは、同じだけの時間をもって掻き消された。



(え?)



 目の前にカテリナがいる。

 それはわかっている。

 最早自分に殺されるしかない命がいる。

 なのに、なぜ目の前に拳があるのか。

 物凄い勢いでこちらに迫ってきている。

 先ほどの一撃は明らかに自分の命を奪うに十分なものだった。

 その打ち終わりの隙をゼロにするのは不可能。



 ――打ち終わり?



 目の前。

 拳。

 横殴りに。

 回転。

 瞬時、理解した。



「う、ォォォオオオ!」



 まだ攻撃に移っていなかったのが幸いだった。

 突き出すはずだった長剣をぐっと引き上げて、迫る拳を受け止める。

 激突。

 衝撃が腹にまで響いてきた。

 瞬間、脇腹に燃えるような痛み。

 いや、最早痛みすら感じない。

 ただ、熱い。

 体の内側から燃やされるような感覚。



「こ、ふ」



 拳を受けるのに合わせて、強く後ろへ飛び退って距離を取った。

 着地すると、男はその場で激しく嘔吐する。

 血が混じってどす黒い色に染まっていた。

 男の腰の辺りがじわりと黒を深めていく。



「浅かったか」



 浅くねえよボケ、と男は冷たい表情で呟いたカテリナに内心毒づいた。

 気だ。

 あの一瞬、カテリナはインパクトと同時に自らの気を流し込み、男の体内で炸裂させた。

 最悪だ。

 致命の一撃を辛うじて受けても、そこから更に気による追加攻撃が来る。

 今は横っ腹がやられたが、もしも心臓がやられたら? 頭部にくらったら?

 あまり想像したくない。



「……俺が後ろに回り込むことなんてお見通しってわけか」

「お前が攻撃を誘っているのはわかってたからな。だから敢えてそれに乗ってやった」



 ユリウスとの戦闘を見ていたおかげで、カテリナは男の消えるタイミングを覚えていた。

 そこで、相手の作戦に自ら引っかかったように見せかける。

 そして攻撃を避けられたとみせかけて、体を捻って更に速度を上げた拳をぶち当てる。

 時間にすればほんの刹那でしかない。

 血反吐を撒き散らし、苦悶に歪んだ顔を更に歪め、男は苦痛以上に込み上げる愉悦に笑顔を作った。



「お前、怖い女だな」