第四十話「黒衣黒夜 2」


「どういうことだよ、コレは」



 その声に、誰もが口を閉ざすしかなかった。



「どうしたってんだよ……なあ、おい」



 馬車はむせ返るような血の臭いで満ちていた。

 だが、馬車の中には一滴の血も見当たらない。

 そこでオーランドは絶命していた。

 ユリウスは力なく横たわる巨体を抱き起こしたまま、呆然としている。

 その肩に、話を聞いて駆けつけてきたカテリナがそっと手を置いた。



「気をしっかり持て、ユリウス。死んじまったもんは、どうしようもねえ」



 ユリウスは返事をせず、さめざめと泣いている。

 余程オーランドのことを慕っていたのだろう。



「せっかく故郷に帰れるって言ってたのに……まだまだ酒も飲み交わそうって、そんな、どうしてだよ」

「ユリウス。ショックなのはわかるけど、少し落ち着け」



 再びカテリナが伸ばしかけた手を、ユリウスは乱暴に払う。



「どうして、姉御はそんなに冷静なんだよ」

「もう過ぎたことをいつまでも悔やんでいても仕方ねえ。それに、オーランドを殺った奴はまだ近くにいるはずだ。

こんなときこそ、頭を冷やして慎重に行動しなくちゃいけねえ。お前だってそのくらいわかってんだろ」

「そりゃ、わかってる。わかってるけどよ……」



 狭い馬車に、悲痛な叫びが響いた。



「仲間が死んだってのに、どうしてそんなに冷たいままでいられんだよ!」



 言い終わると、ほぼ同時だった。

 ぶっ飛ばされた。

 空中で体が一回転、馬車から投げ出される。

 顔面から着地、衝撃、口の中が切れた。

 摩擦で擦り切れた肌は、痛いというよりも熱い。

 右の頬に感覚が無かった。

 口の中に入ってきた砂利が、少しずつ湿り気を帯びてくる。

 唾? 違う、このぬめった感触は、

 ぽたりと唇の端から赤い雫がこぼれ、そこで初めてユリウスは殴り飛ばされた事実に気が付いた。



「目が覚めたか」



 馬車からカテリナが降りてくる。

 左手の皮がずり剥けて、血を滲ませている。

 ユリウスは、自分の言った言葉の愚かさを恥じた。

 カテリナが冷たいままでいられるわけがない。

 彼女ほど仲間を大切にしているが、仲間を失って平静でいられる方が不思議だ。

 彼女もまた、必死になって感情の揺れを抑えている。

 だらりと唇から血が垂れたのがその証拠。



「……すんません、姉御。俺が」

「無意味な謝罪をするな」



 ぶった切った。

 カテリナは完全にスイッチを入れている。

 この状態になったカテリナに何を言っても無駄だとユリウスは知っていた。

 沈黙。

 その中でカテリナは考えた。

 オーランドを殺した相手の正体は何なのか。

 死体に外傷は三つ。

 頬の打撃痕、脇腹の切り傷、そして致命傷になったと見られる心臓部の刺し傷。

 恐らく死因は出血多量といったところ。

 気になるのは、血の臭いがするにも関わらず馬車内に一滴の血も見られなかったことだ。

 オーランドの体にも、ほとんど血の気はなかった。

 およそ五リットル分の血、それが忽然と姿を消している。

 更に相手は、オーランドの力を十二分に発揮できない場所とはいえ、彼をあっさりと打ち倒せるレベルの使い手。

 目的は? 積荷に手をつけられた痕跡は全く無かった。

 そこまで考えて、カテリナは馬車を降りてきたイリス、ククルーに視線を配る。



「お前ら。つかず離れずの距離を取れ」



 言われた通りに、イリスとククルーは互いにほんの僅かに距離を取る。

 カテリナとユリウスも、それは同様だった。

 四人を頂点に四角形が出来るような隊形。

 周の長さ、約二十メートル。



「いいかお前ら。多分、オーランドを殺した奴は単独だ。しかも超強え。一対一じゃ、まず負ける」



 それだけで、イリス以外の二人はこの隊形の意味を理解した。

 合理的だ。上手くいけば被害ゼロで切り抜けられるかもしれない。

 たとえそれが楽観的な想像の範疇だとしても。



「もし一人が襲われたら、その間に他の三人がそいつを叩きのめす。

最悪でも一人しかやられねえし、上手くいけば最初に襲われた奴も助かる」

「おー、流石カテリナさんですねっ」



 明るいイリスの声に、カテリナは視線だけを返した。

 この状況で明るいままでいられるのは、ただのバカか。

 あるいは――そうしていないと恐怖と緊張で押し潰されそうになるからか。

 カテリナは思う。

 恐らくこのメンバーで、最も実力的に劣るのはユリウスだ。

 だが、最も弱いのは誰かと言われたら、即答できる。

 イリスだ。

 彼女には足りないものがありすぎる。

 技術。

 知識。

 経験。

 だがそれ以上に、戦士として最も大切なもの。

 覚悟。

 それがイリスには決定的に欠けている。

 恐らく本人も薄々自覚はしているのだろう。

 それに今までずっと目を背け続けてきた。

 背けていても大丈夫な戦いを続けてきた。

 その原因は、ククルーだ。

 まだ十二歳のククルーだが、彼女には覚悟がある。

 何がなんでも大切な人と守ろうとする覚悟。

 その邪魔をする者は、誰であっても許さない、そう思っている。



 ――その『誰』かが、たとえオレであっても変わらないだろうな。



 そのくらい確固たる覚悟。意志。

 元来、戦士とは例外なくそういうものでなくてはならない。

 そうでなければ戦場で生き抜くことなど出来はしない。

 ふと、音が止んだ。

 静寂の中、どこからか乾いた音が聞こえてくる。

 笑い声。



「参った参った。プラン変更」



 この場に似つかわしくない軽い口調。

 その出所は、イリスの背後。



「……っ!」



 イリスの呼吸が止まる。

 不思議な、それでいておぞましい感覚。

 世界が丸ごと暗転し、凍りつき、砕け散った。

 肩に微かな圧迫感と温もりを感じる。

 背後にいた誰かが手を置いたのだと理解する、ここまで僅か一秒弱。

 人が人を殺すには十分すぎる時間。



「――っあああああアアア!!」



 叫ぶことで恐怖を払拭。

 震える体を無理に動かす。

 無我夢中で剣を振った。

 巨大な刃が空しく空を切る。



「本当はイリスを人質にしてお前らの反応を見ようかと思ってたんだが」



 イリスの一撃を軽くかわした男は、カテリナに視線を向けて言った。

 ニヤリと唇の端を上げる。



「人質ごと俺をぶっ殺せる奴がいたら、人質の意味がないからな」



 その声に体を震わせたのはイリスだった。

 じわりと脂汗を滲ませながら、その視線を黒衣からカテリナへゆっくりと移す。



 ――カテリナさんはそんなことしないよね?



 目でそう確認してみる。

 だが、カテリナはそれを気にも留めていない。

 真っ直ぐに黒衣の彼を見つめている。



「目的はなんだ?」

「お前らをぶっ殺しにきた」

「なんのために?」

「趣味みたいなもんだ」



 おちゃらけてはいたが、嘘を言っている風ではなかった。

 目を離さないまま、考える。

 今、目の前にいるこいつは何の気配もなしに突然イリスの背後に出現した。

 テレポートでも出来るのだろうか?

 ひとまず結論は保留しておく。

 いくら考えたところで、わかるわけがない。

 ならその思考は無駄だ。

 だが、確かめたい。

 なんとかして看破しなければならない。

 実力の伴った戦士は、相手と相対した瞬間、その力量をある程度推し量る。

 目の前の相手は、強い。

 まともに戦っていたら勝てない。

 更に、未知の能力。

 どうする?

 どうする?

 答えはすぐに出た。

 ……最低で下劣な答えが。



「オーランドを殺したのもその一環か」

「ん? ……ああ、馬車にいたでかい奴か」



 にへらとフードから覗く男の口元がだらしなく歪んだ。



「感謝しないといけないな。楽しく殺させてくれてありがとう」



 彼がそう意識したわけではない。

 あくまでも、カテリナの言葉に対してごく自然に返事を返しただけだ。

 だが、たったそれだけの言葉で、一人の男の思考は怒りで焼き切れた。











 殺させて『くれた』?

 そんなわけねえだろ。

 故郷に戻ったら告白するんだって、あの人は照れくさそうにしながら言ってた。

 似合わない表情だったな、あれは。

 そんなあの人の顔を見るのも、正直嫌いじゃなかった。

 幸せになってほしかった。

 長生きしてほしかった。

 俺を単なる外道から引きずりあげてくれたあの人に。

 明るい未来を願った。

 願っていた。

 それを、こいつは奪った。

 蹂躙した。

 単なる『趣味だ』という理由で。

 自分の欲望と楽しみ、それだけの理由で、

 略奪していった。

 許せねえ。

 許せねえ!



 ぶち殺してやる!!











「死ね!! クソ野郎おおおお!!」



 喉が張り裂けん勢いで叫びながら、ユリウスが地を蹴った。

 ククルーが目を見開いて何事かを口にしたが、ユリウスの声にかき消される。

 ククルーの口は、「あ」の形から「え」へと動いていた。



 ――だめ。



 その声がユリウスに届くことはなかった。

 両手に持つナイフを飛ばし、全力で走る。

 真っ直ぐ向かってきた一本を、黒衣は半身になってかわした。

 続いて左方から二本、すくうような角度から刃が迫る。

 下側のナイフを所持していた長剣で弾いた。

 ユリウスのナイフとナイフをぶつけ合い、軌道をそらす。

 瞬間、ユリウスは自分の体を思い切り右に回転させた。

 左の指先に繋がった銀色の牙が黒衣を襲う。

 それと同時に、先ほどかわされたナイフが戻ってくる。

 側面と背後からの同時攻撃。

 それを黒衣の男は、体勢を低くしてあえて前へ飛ぶことで避けた。

 ユリウスの刃の結界は、確かに潜り抜けるのは困難だ。

 高速で回転する銀色。

 近づけば、あらゆる方向から嵐のように攻撃が注がれる。

 だが、今回のような場合。

 ユリウスの側から攻撃をしかけた場合には、明らかな隙が生じる。

 更に、刃の結界は遠心力によって速度を増しているので、

 至近距離に攻撃するわけにはいかない。

 指先と腕の動きのみで動かしている以上、精密な操作はできないからだ。

 下手をしたら、その刃で自分自身を傷つけてしまう。

 そういう意味で、黒衣の男は最善の選択肢を選んだ。



 そうなるようにユリウスが誘導した。



 なに?

 口には出さず、黒衣の男は思う。

 既に体には勢いがついてしまっている。

 そのまま左手に持った長剣で目の前の馬鹿を一突き。

 それでこの『遊び』は終わる。

 だが、少しだけ困ったことがある。

 相手の刃の結界は、遠心力の産物であるため基本的に円運動をしている。

 その円が、自分が踏み込んだ瞬間不自然に歪んだ。

 それだけで男は全てを察する。



 ――こいつ、自分の命を餌にしやがった。



 男は短刀を強く握り締め、喜悦に震えた。

 殺す覚悟と殺される覚悟を両方持っている人間なんて、なかなかお目にかかれない。

 単純に嬉しかった。

 そして思った。

 それでこそ俺に殺される資格がある、と。



「てめえも血だるまになれや」



 血走った目のままユリウスが笑う。

 その腹から胸に、下方から長剣が突き立てられる。

 刀身から柄に伝わってくる肉を裂く感触。

 それに男が浸っている間も無く、鈍い光を放つ六つの刃が二人を抱くように迫











 六回、乾いた音が響いた。

 命の重さなんてこんなものなのか、思わずそう思ってしまうような軽い音。

 それがユリウスの命が消える音だった。

 奇妙な笑みを浮かべたまま、その体がゆっくりと崩れ落ちる。

 その隣に、黒衣の男は嬉しそうに笑みを浮かべながら立っていた。

 無傷だった。



「そんな、え、あれ?」



 青ざめたまま、イリスが困惑の表情を浮かべる。

 目の前で起きた現実を頭が処理し切れていないのだろう。

 それも仕方の無い話だ。

 結界が二人を覆った瞬間、黒衣の男の体がどろりと溶けるようにその場から掻き消えたのだ。

 そして結界がユリウスに体に突き刺さって回転が止まったと同時に、再び姿を現した。

 まるで地面から液体が染み出るように。



「玉砕覚悟の人間の気迫って凄いもんだな。スリル満点だったぜ」



 まるで生まれて初めて一人で馬に乗れた少年のような声。

 とても楽しい時間を過ごせたよ、ありがとう。

 男は本当に嬉しそうな声でユリウスだったものにそう言った。

 ユリウスの怒りも、覚悟も、未来も、命も、この男にとってはその程度の価値しかなかった。

 彼にとっては、今の戦いは単なる戯れ、『遊び』に過ぎなかった。

 だが、カテリナにとっては、違う。



「今のがてめえの力か」



 硬い声。

 そこにはっきりと敵意が確認できる。



「ああ。ヒントなしで戦ってもらうつもりだったのに、思わず見せちまった」



 にっこりと笑ってみせる。

 人懐こいとすら思えるほど爽やかな笑み。

 そのフードの奥で、その目だけは笑っていなかった。

 油断のならない、鋭い光を放つ目が、カテリナを真っ直ぐに貫いていた。