第三十九話「黒衣黒夜 1」


 小鳥のさえずりだけが遠く聞こえる涼しい早朝。

 カテリナご一行を乗せた馬車は、険しい山道をゆっくりと進んでいた。

 馬車の数は二台。

 前方を行く馬車にはカテリナ以外全員と荷物の半分が、後方を行く馬車にはカテリナと荷物の半分がそれぞれ乗っている。



「つまりっスね、俺達と姉御の間にはそれだけの実力の隔たりがあるってことっスよ」



 ユリウスの言葉に、イリスが感心したように頷いている。

 その隣では、ククルーがふよふよと宙に浮きながらぼんやりとした表情で黙っていた。

 宙に浮いているのは、馬車の振動が慣れないためだろう。

 ぼんやりとしているのは、単に彼女が低血圧であるからだ。



「はー、カテリナさんって凄いんですねー」

「そりゃそうっスよ。噂に名高い草原の王子ほどじゃないっスけど、そういう規格外を除けばこの大陸最強なんじゃないスか?」

「草原の王子?」

「知らないんスか? 現在大陸一の戦士って言われてる人の通名っスよ。あのトーワ王国の王子っス」



 イリスは学友の顔を思い出し、なるほどなーと思う。

 あのエンジェレットの兄妹ともなれば、その実力の凄まじさは想像に難くない。

 クエスターズを出てから既に一月以上……エンジェレットやユユは元気にやっているだろうか?

 ふとそう考えて、イリスはすぐに考えるのをやめた。

 あの二人のことだ、上手くやっているに決まっている。

 それどころか、あの頃よりももっと強く逞しくなっていることだろう。

 自分も頑張らねば、とイリスは気を引き締める。



「しっかしハールーンっスかー。故郷に帰るのも久しぶりっスね兄貴ぃ」

「ああ、そうだな。しばらくはカテリナに連れまわされていたからな」

「そんなこと言って、本当は姉御に声かけられたの嬉しかったくせに素直じゃないっスね兄貴はー」



 ニヤニヤと笑いながらユリウスはオーランドの脇を肘で突く。

 オーランドは不機嫌そうな顔だったが、何も言わないところを見ると図星なのだろう。



「……あっ! オーランドさんはカテリナさんのことが好きなんですねっ!」



 一拍遅れて、イリスがそう叫んだ。

 鈍さは相変わらずといったところか。

 今更気付いたのか、と思わず言いかけたオーランドだったが、口を開いただけで何も言わなかった。

 この手の話題で自分から発言してもロクなことがなかったからだ。



「へっへっへ、しかも今回ハールーンに着いたら、ついに告白する気なんスよ兄貴は!

流石っスよ兄貴! ちゃんと殺し文句は考えてあるっスか? なんなら俺がどんな女もイチコロなのを考えてあげるっスよ!」

「ユリウス。少し黙っていろ。うっかりお前の上に斧を落としてしまわないとも限らん」

「兄貴。それ俺死ぬっス冗談抜きで」



 オーランドの目から放たれる鋭い光はユリウスを真っ直ぐ貫いている。

 二人のやりとりを聞いていたイリスは思わず笑ってしまった。



「二人とも仲が良いんですねっ」

「出会い方は最悪だったがな」

「あ、兄貴ー。そいつは言わない約束……」

「みんな」



 歓談にククルーの澄んだ声が割って入った。

 眠気はまだ残っているらしいが、その顔は幾ばくかの緊張が見られる。

 三人ともその意を瞬時に察し、臨戦態勢になった。



「前方八十メートル付近を移動する物体がある。数は約三十。

動き、風の流れから見て人間。付近にアジトを持つ盗賊の可能性が高い」

「出来れば戦わずにハールーンまで行ければ楽だったんだが」



 斧を強く握り締めたまま、オーランドはユリウスに目を向ける。



「お前が人目をはばかって行動するのは盗賊の専売特許だと言うから、わざわざ出発を早朝にずらしたんだぞ」
「おかしいっスねえ。 そうだったんスけど。この辺りの盗賊は働き者っスねぇ」



 言いながら、ユリウスは馬車から飛び降りる。

 それに続いてイリスも馬車を飛び出したが、その後を追おうとしたククルーをオーランドが止めた。

 不思議そうに振り返るククルー。



「朝に弱いのだろう?」

「……」



 頷く。

 オーランドはほんの一瞬だけ笑んで



「たかが盗賊、烏合の衆に過ぎん。だが馬車を完全に留守にするわけにもいかん。お前はここで番をしていろ」

「……でも」

「勘違いするな。別にお前のことを気遣っているわけじゃない。

それに覚醒し切っていない奴がいても足手まとい。役立たずの味方は敵以上に厄介な『敵』だ」



 二人は静かに見つめ合った。

 そうすることで、相手の真意を読み取ろうとするかのようだった。

 ややあって、ククルーは僅かに首肯する。



「……わかりました。ここの守りは任せてください」

「ああ。任せた」



 それだけ言って、オーランドも馬車を出て行った。

 一人残ることになったククルーは、静かになった中で腰を下ろす。

 確かに数は多くても、盗賊は大した実力も持っておらず、連携らしい連携もない集団だ。

 それに引き換え、急造パーティとはいえイリス達はいずれも腕利きの冒険者、負けるはずなどない。



「……優しい人」



 オーランドのことを思う。

 強い言い方でぶっきらぼうだったが、彼は間違いなくククルーの身を案じて留守を命じた。

 ククルーの脳裏に、かつての記憶が蘇る。

 村への襲撃。大きな手。頭をなでる。安堵。穏やかな声。



『必ずに戻ってくる。約束だ』



 思い出した瞬間。

 なぜか、体が震えた。

 心。

 本当に人にそんなものがあったとしたら、そこに押し付けられたような気分だった。



 恐怖が。











「あらよっとー……っス!」



 銀色の刃が戦場を駆ける。

 その数は六つ。

 自在に宙を巡る六本のナイフが、盗賊たちを次々に蹴散らしていく。

 ほぼ遠心力で回っているだけの刃の結界。

 急所を守りさえすれば致命傷にはなりえないが、高速で回転する斬撃を潜り抜けるのはほぼ不可能だ。

 信念も覚悟も持たない盗賊たちの恐怖を煽るには、それだけで十分すぎた。

 敵わないと見るや、蟻の子を散らすように無様に背を向けてその場から離れていく。

 赤い服を着込んだ男達が、山の中へ消えていった。



「ユリウスさん凄いですっ。でもどうやってナイフ操ってるんですか?」

「いい質問っスね。まあ、ぶっちゃけると糸くっつけて飛ばしてるだけなんスけど」



 回転しながら、ナイフはユリウスの手にすっぽりと収まった。



「いっ……あーたっ!」



 キャッチしたその一本がユリウスの手の平を傷つけていた。

 呆然とイリスがそれを見ている。

 その視線に気付き、ユリウスはこほんと咳払いをする。



「俺には特別な力はないっス。気功も使えねぇ、力もねぇ、魔法も使えねぇ、ただのチンピラっス。

俺が姉御や兄貴についていくには、なんとかこのナイフの腕を磨くしかなかったんスよ」



 何事もなかったかのように言った。

 それだけでイリスの意識をもっていくには十分だ。

 ユリウスの声音には、過去を蔑むようでもあり、懐かしむようでもあり、

 そして自嘲しているかのようでもある奇妙で複雑な感情の揺らぎがあった。

 イリスも、その気持ちはなんとなくわかるような気がした。

 かつては彼女も落ちこぼれと言われ、笑顔の下で苦渋の日々を送っていたことがあるから。



「ま、兄貴のおかげで今の俺があるんス」

「オーランドさんを慕ってるんですねっ」

「へへ、まあ。実を言うと、以前までは俺こいつらの上司だったんス」



 イリスは目をぱちくりさせる。



「盗賊だったんですか?」

「何年か前の話っスけど。兄貴にボコボコにされてっからは、まあ兄貴について回ってるんスけどね。

いや、最初は凄かったっスよ。出会う度に『死ね』『ぶっ殺す』『潰す』『消えろ』そんなんばっかだったっス」



 苦笑いのユリウスに合わせて、イリスも思わず笑ってしまう。

 そういう過去を笑顔で話せるのは、今に充実感を持っているからだろう。

 イリスはそう感じていた。

 少なからず、自分にもそういうところがあるかもしれない。

 そう思ったからだ。



「あらかた片付いたか」

「みたいっスね」

「では、俺は一旦馬車に戻る。俺と入れ替わりでククルーをよこすから、それまで二人は付近の警戒にあたれ」

「りょーかいですっ」

「おっけーっス」



 オーランドは周囲に目を光らせながら馬車まで戻る。

 盗賊と戦っている間にかなり馬車から離されてしまった。

 後ろにはカテリナもいるので滅多なことは起こらないとは思うが。

 馬車までの距離は約二百メートルといったところだった。



「戻ったぞ。大事はないか」

「……」



 馬車へ戻ると、ククルーは変わらず座り込んでいた。

 オーランドは安堵する。

 どんなにカテリナがその実力を認めようとも、まだ子供であることには変わりがないのだ。

 出来るだけ血なまぐさいことには巻き込みたくはない。



「では、お前は二人と合流して索敵を頼む。敵がいないようなら、ユリウスに狼煙をあげるよう伝えてくれ」

「……わかりました」



 ククルーはふよんと浮くように馬車から降りると、そのまま荒地の上を滑っていく。

 魔法というのは便利なものだなと思いながら、オーランドはその背を見送る。

 ふと、オーランドは荷台の積荷に目をやった。

 長年傭兵をやっていると、どうも神経質になってしまう。

 それを以前、カテリナにも指摘されて笑われたことがある。

 だからこそ頼りにはしてるぜ――そう言われたことを思い出し、オーランドは微笑した。

 何事もないことを確認してから、再び馬車の外に目を向け



 突如背後に出現した気配に、身を硬くした。



 恐らく、ほんの刹那に過ぎない時間。

 どんなに熟練の戦士でも、緊張していると一瞬体は上手く動かせなくなる。  オーランドもそれは承知していた。

 だからこそ、この状況なら敵はいないと思われたからこそ僅かに気を緩めていたのだ。

 どうして? なぜ? 誰だ?

 頭を巡るあらゆる疑問を振り払うように身を翻す。



「ぐぁっ!」



 その右の脇腹を、鈍い光を放つ刃がえぐる。

 鮮血。

 だが、浅い。

 左手で咄嗟に傷口を押さえる。

 出血はあるが、大したことはないと判断。

 しっかりと両の足で立ち、オーランドはその人物を見た。

 全身を漆黒の衣に身を包んでいる。

 その漆黒は、まるで星一つ見えない夜の色。

 フードを被っているので、その顔ははっきりと見えない。

 その誰かはオーランドと己の獲物をしげしげと見つめて



「あのタイミングで致命の一撃を逃れる、か。なるほど、前戯にしては楽しめそうだ」

「……貴様、いつの間に入った」



 ククルーの索敵は、空気の流れの感知である。

 たとえどんなものであっても、近づいてくれば彼女がわからないはずはない。  そのオーランドの問いを、彼は鼻で笑った。



「お前らと同じさ」



 と、彼の姿が一瞬にして黒に染まったかと思うと、どろりと崩れた。

 まるで汚れが洗い流されるかのように、その場から姿を消す。



「驚かせたか」



 言葉を失っているオーランドの耳元で、声。



 ――背後!



 この距離、そして馬車という狭い空間ではオーランドの斧は役に立たない。

 判断は早かった。

 オーランドは一歩だけ前へ踏み込んで、その体をぐるりと反転させる。

 裏拳。

 密着状態でも、体を回転させることで溜めの空間と間を作り、同時に拳に遠心力を上乗せする。

 彼の力なら、直撃すれば戦闘不能状態まで持っていける一撃。

 が、黒衣はそれをたやすくいなした。

 風車のようにふわりとその場で後ろ向きに回転。

 その振り上げた足で、オーランドの顎を跳ね上げる。



「あぐっ……」



 たまらずオーランドは尻餅をついた。

 すぐさま立ち上がろうとするが、体が言うことをきかない。

 脳が縦に揺さぶられたのだ。

 脳震盪を起こしていないのが不幸中の幸いというところだ。

 口の中にじわりと鉄の味が広がってくる。

 今ので歯が何本か落ちてしまったらしい。



「影に入り込める。俺の力の一つだ。俺はシャドウサーヴァントって呼んでる。今死ぬ奴には不必要な情報だけどな」



 オーランドは相手を視野に入れつつ、思う。

 影に入り込める能力――最悪だ。

 狭い空間で戦うのに適した力を自分は持っていない。

 このままでは確実に負ける。

 なんとか馬車の外にさえ出られれば。

 自分は斧が使え、相手が入り込める影はほとんどなくなる。

 望みはある。

 しかし



「外に出さえすれば勝てると思ってるのか? 無駄だぜ」



 黒衣の彼がオーランドの思考を読み取ったかのように言った。



「外に出ようとした瞬間、俺が喉笛掻っ切ってやる。こっちに意識を向けてない相手を殺すなんて造作もねえ。

仮に外に出たとしても、お前が俺に勝てる可能性はほとんどない」



 そうだろうな。

 オーランドは、奥歯が微かに鳴るのを確かに聞いた。

 怯えているというのだろうか。

 自分は、怯えているのか。

 情けない。

 情けない。

 情けない、が……

 目を背けることだけは、しない。



「震えてないでかかってこい。今回は一方的になぶる趣向じゃないんだ。

ここにいる以上、お前には俺を楽しませて楽しませて楽しませてから殺される義務がある」

「……言っておくことがある」



 痛みを堪え、オーランドは言う。

 頭が次第にはっきりしてきた。

 その目にギラギラとした光が宿る。



「確かに俺はお前に殺されるかもしれん。だがその前に……俺がお前を殺してみせる!」

「グッド。しかしだな……」



 彼は嬉しそうに、しかし、呆れ混じりに言った。



「想いじゃ、人は殺せねえ」



 激突。

 交錯。

 ……一閃。



「まして、この残酷なクソ現実は殺せやしねえよ」



 その言葉に反応する者はいなかった。

 もう、いなくなっていた。