第三十八話「最愛の人」


 酒場を飛び出したグランは、そのままの勢いで走った。

 通りに出て、左右を確認する。

 まだそんなに遠くには行っていないはずだ。

 追いついてどうするのか、そんなことは追いついてから考えればいい。

 ただ、今追いかけなかったら、もう自分は一生出逢えないのではないか。

 漠然とした不安。

 それに似た衝動が、グランを突き動かしていた。

 足が千切れそうになるほど走った。

 走って、走って、走って――ほどなく、グランはその人の後ろ姿を見つけた。

 髪は伸びていたが、見間違えるはずがない。

 後ろから駆け寄ってその手を取ると、その人は心底驚いたらしい。

 グラン自身も自分の行動に少なからず驚いているくらいだ、その反応は当然だったかもしれない。

 まして以前のグランを知る者なら、尚更だ。



「グラン様、どうして……」

「そんなこと、僕にだってよくわからない」



 荒れる呼吸を落ち着けながら、グランは淡い微笑を浮かべた。



「久しぶり。髪、伸びたね。それに、少し痩せた。でも元気そうで何よりだよ」



 そんなありきたりなことしか言えなかった。

 言うべき言葉が他にあったような気がするが、それは引き出しを開けてすぐ見つかる程度のものではなかったらしい。

 それは相手も同じだったようで、彼女――エミル・ハミルエルは、微かに頬を上気させながらも、

 グランの視線から逃れるように身をよじり、無言のまま俯いた。











 ぼんやりと朧に月が光っていた。

 その下に影を落としながら、二人は噴水のある広場をゆっくりと歩いていた。

 昼間は人の集まる場所だろうが、夜ともなると人気は全く無い。

 至る所にある酒場から人々の笑い声が聞こえてくるのが、

 余計に二人の間に横たわる静寂を強調させているようだった。



「君がソルトシュワの領主の娘とは知らなかった。良い生まれじゃないか」

「グラン様ほどではありません。領主と言っても、実際は管理職みたいなものです」

「それでもさ。僕はモルガン家に生まれたというだけで、僕自身が何かやったわけじゃない。

それに比べて、エミルは凄いよ。今日酒場にやってきたのも、家の仕事の一環なんだろう?」

「ええ、まあ。女だからと言って何もやらないわけにいかないですし、せっかくお父様が無理をして

クエスターズに送り出してくださったのに、私は卒業もせずに戻ってきてしまいましたから……

せめてお仕事を覚えようと思って、最近ようやく一人で仕事を任せてもらえるようになったんです」



 再び、二人は無言になる。

 離れていた時間以上に、二人の気持ちの溝は深いのだろうか。

 ……そうではない。

 二人は互いに、自分の行いを責めているに過ぎない。



「……哀しいな」



 先に吐露したのは、グランの方だった。

 エミルはその声に、視線を合わせないように伏せていた顔を上げる。

 その横顔に思わず声をかけてしまいそうになる。

 視線の先のグランの目じりに、月の光を反射する雫が溜まっていたことに気付いてしまったからだ。



「一年前だったか。僕は君とそれなりに長い時を共にしていたというのに……君の出身すら知らなかった。

君を好きだと、愛していると言っておきながら、僕は愛を押し付けるだけで君自身を知ろうとしていなかった。

そんなのは、きっと愛じゃない。ただ僕という人間が傲慢だったんだ。

好意を寄せてさえいれば、相手もきっと自分を受け入れてくれるだろうと安易に考えていただけなんだ……」



 そんなはずは無かったのにね、と小さく語尾につける。

 返す言葉が見当たらないかに見えたエミルだったが、しかしそうではなく



「当たり前じゃ、ありませんか……」



 一言発したら、もう止まりそうもなかった。

 エミルは嗚咽を堪えながら、グランの胸を叩き、その声を冷たい空気に響かせる。



「女の子は、皆そうなんです……! 好きな人には、好きだと言ってもらいたいに決まってます。

でも、それ以上に好きな人には自分のことを知ってもらいたい。いつも自分のことを考えていてほしい。

そんな風に、誰かのことを独り占めしたいと思っているものなんです。

そんなことに今頃気が付くなんて、グラン様、どうしてあなたはそんなに酷なのですか?

もっと早く気付いてくだされば、私は……っ、私は、こんなに淋しい思いを一年も抱え込まなかったのに……!」

「エミル、僕のことを嫌っていないのかい?」

「嫌う……?」



 きっ、とエミルはグランを上目遣いに睨んだ。

 その目には大量の涙が溜まっていて、真っ赤に充血している。

 彼女の勢いに圧倒され、グランは思わず仰け反った。



「本当に、何もわかっていないのですねグラン様は。私はグラン様をずっと好いておりましたよ。

だからこそ、私はあの日、グラン様から離れる決心をしたのです。

あのままでは、私は自分自身か、あるいはグラン様を壊してしまいそうでしたから」



 グランの肩にエミルの爪が強く食い込む。

 服の生地越しだというのに、それはグランの肌に突き刺さり、小さく血を滲ませんとする。

 控えめで、小動物の愛らしさを持つエミルがこんな激情を秘めていたことに、グランは驚いていた。

 本当に、自分がエミルのことを何一つわかっていなかったのだ。

 一年前よりも更に痩せて、華奢な身体はより小さく見えた。

 震えるその肩を抱き寄せてやりたくなったが、今のグランにその資格がないことは、グランが一番よくわかっていた。



「……聞いてくれるかい、エミル」



 グランはエミルを抱き寄せることをせず、かと言って突き放しもせずに言った。

 エミルは嗚咽を殺しながら泣いているようで、しばらくは顔を上げることはなかった。

 グランも急かすことはせず、黙って彼女が泣き止むのを待つ。

 夜の静寂は、二人を優しく包んでいた。

 五分か、あるいは半時は過ぎただろうか。

 エミルは真っ赤に腫れた目でグランを見上げる。



「君と離れてから、好きな人が出来たんだ」

「……そうですか」

「ああ。あんなにも、誰かのことを知りたいと思ったのは」

「初めて、でしたか?」



 その問いは涙声だった。

 グランは、ほんの一瞬だけ考えてから



「生まれてこの方、二回だけだよ」



 ざあっと二人の間を風が吹き抜けていった。

 グランの言った言葉が、思いが、その風に乗ってどこまでも飛んでいくようだった。



「離れ離れになってから、気付いた。僕は、君が好きだった。君を半身のように感じていた。

当たり前のように一緒にいて、当たり前のように、これからもずっと一緒だと信じていたんだ」

「グラン、様……」

「今更、こんなことを言っても仕方ないんだけどね。今更……っ」



 こぼれそうになった涙を、グランは慌てて拭う。

 咄嗟に笑みを浮かべて見せたが、そこに普段の軽薄さは微塵も感じられなかった。

 もちろん、それに気付かないエミルではなかった。

 彼女はずっと彼だけを見てきたのだから。



「今更、君とやり直せるなんて思っていない。二人が上手くいかなかったのは僕が原因だ。

そのことを君に許してもらおうとは思っていないし、許してもらいたくもない。

許される資格なんて僕にはありはしないし、君には僕を許さないでいる資格がある。

それに、僕には今、君以外に好きな人がいる。その人に不義理をしたくはないんだ。

そんなことをしたら、僕は今度こそ君を裏切ることになってしまう。そんな気がしているんだ」

「そんなことを言うために、わざわざ追いかけてきたのですか?」

「……、違う」



 その返答は予期していなかったのか、エミルは目をぱちぱちさせた。



「それでは、どうして?」

「最初に言っただろう? そんなこと、僕にだってわからないって」



 ただね、とグランは言って



「君の姿を見たら、追いかけずにはいられなかった。追いついたらどうするのかも、

何を言うつもりなのかも、何も考える余裕がなくて、気付いたらもう体が動いてたんだ。

……おかしいな。僕は君に愛想を尽かされたとばかり思っていたはずなのにね」



 グランは自嘲的に笑みを漏らす。

 グランは普段、決して弱味を他人に見せたりはしない。

 その彼が自分に打ち明けてくれているだけでも、エミルは嬉しかった。

 しかし――彼女には一つだけ、絶対に許せないことがあった。



「グラン様」

「うん?」



 ――――。

 小さな破裂音が、夜の闇を微かに揺らした。

 しばらくしてから、頬が不思議と熱いことに気付き、

 そこでようやくグランは、エミルが自分の頬を張った事実を知った。

 驚きのあまり痛みを痛みとも思わず、グランはエミルを見やる。

 彼女はきゅっと唇を噛み締めて、ふとしたきっかけで泣いてしまいそうな顔のまま、それでも強く言った。



「ごめんなさいグラン様。でも――私の最愛の人であるグラン様を卑下するのは、たとえグラン様でも許せません。

それに私はグラン様のことなんて、ずっと前から許していましたよ」



 その言葉は、グランが生まれてから交わしたどんな言葉よりも彼の胸の深いところを貫いた。

 彼は、今までずっと愛というものは優しいものだと思っていた。

 この世で最もとろけるように甘いものは、愛だと信じて疑わなかった。

 しかし、違ったのだ。

 こんな刺々しく、不器用で、激しく、熱く、痛く、切ないものも、また愛なのだ。



「ぐ、グラン様……? グラン様?」



 不思議なことに、エミルの顔がぼやけてよく見えなかった。

 それどころか、月明かりも、酒場から漏れる明かりも、ゆらゆらと揺れている。

 そう思ってから、グランは自分が泣いているのだと自覚した。



「え、あれ……はは、おかしいな、ちょっと待ってくれないか……」



 そう言っては見たものの、一向に涙が止まる気配はない。

 まるで今まで流し損ねてきた分が、全て出てしまっているかのようだった。



「グラン様、そんなに哀しいのですか?」

「哀しい……?」



 哀しさだけなら、グランはこれほど取り乱すことはなかっただろう。

 彼の中には、こんなにも自分のことを好きでいてくれた人がいたという喜びと、

 その人の心を無為にし続けてきた自分自身に対する嫌悪と、

 その人をまだ好きでいるのに、その人を思うが故にその愛を受け入れられない苦しみと、

 それ以外の何か心地の良い空白――全てを合わせた感情の奔流が、彼に涙を流させているのだった。

 ようやく落ち着いてきたグランは、改めてエミルを目に入れた。



「エミル、君のことを何一つ知らなかった男が、少しだけ君のことを知ることができたよ。

君は、強い人だね。僕なんかよりも、ずっと。それでいて、とても素敵な人だ」



 グランの顔には、すっきりした笑顔が浮かんでいた。

 愛を愛するだけの少年は、もうそこにはいなかった。



「……もう、今更気付くなんて、遅すぎです……ひどい人ですね、グラン様は……」



 そう言って、エミルもまた笑ってみせた。

 大粒の涙を流してはいたが、可憐な少女の笑顔だった。

 はじめて、二人はわかりあえたような気がしていた。











 噴水の傍に腰掛けた二人は、再び無言になっていた。

 しかし、再開してすぐの時とは違う。

 二人の距離はまるで一年前のように近かった。

 それと同時に、絶対的に遠くもあった。

 触れようと思えば触れられる程度の距離。

 それでも互いに決して腕を伸ばすことは無い。

 その微妙な距離こそ、今の二人の心をそのまま表しているようにも思えた。



「……そうですか。グラン様は、あのトーワ王国の姫様のことを好いているのですね」

「……ああ。エミルと離れてすぐの頃、一度こてんぱんにやられてしまったよ」

「私がグラン様の御心を乱してしまっていたからです。そうでなければ、グラン様が簡単に負けるわけがありません」

「エミルは僕のことを過大評価しすぎじゃないかな?」

「グラン様は御自分を過小評価しすぎではないですか?」



 二人は仲の良い兄妹のように笑みを交し合った。



「それにしても、嬉しかったです。グラン様が変わらず私の好きなグラン様でいてくれて。

いえ、むしろより素敵になってくれていて。背も、心持ちお伸びになった気がしますね」



 自分の背とグランの背を合わせてみるエミル。

 指先で高さを測るその仕草も、やはり可愛らしかった。

 グランがやや淋しげに見つめているのがわかったのか、エミルは不意に黙り込む。



「……楽しいな」

「楽しいですね」

「でも、僕らはもうやり直せない」

「そんなことっ……」



 言われなくてもわかっています。

 そう続けるはずだったのに、エミルの口からその言葉が出てこない。

 言葉を押し留めた代わりに、治まっていた涙が再び溢れそうになる。

 だからエミルは言った。

 本当に言いたかった方の言葉を。



「そんなこと、ありません……っ」



 グランが驚いたのがすぐにわかる。

 この人は立派な人だとエミルは思う。

 自分の弱いところと、自分で向き合いに来たのだこの人は。

 間違いを単なる過去にしないで、清算しにきた。

 それが一体何人の人に出来ることだろう。

 過ちと向き合うのは勇気あることだ。

 そんなグランのことがエミルは大好きだった。

 今夜、余計に好きになってしまった。



「やり直せないはずありません! だって、好きなんです……あの頃も、今だって!

もう、これっきりなんて嫌です……。他の誰かにグラン様を取られるのは心苦しいです。

でもそれ以上に、グラン様のお傍にいられなくなるなんて、苦しくて苦しくて、エミルは死んでしまいますっ……」



 嗚咽と共に漏れたのは、そんな言葉。

 それがグランを困らせるだけだということに気付かないエミルではない。

 言ってしまってから、エミルは自分自身の汚らしさに自害したくなるほどの嫌悪を感じた。

 自分がそう言ったとしても、グランが自分を拒否するはずがないと心のどこかで思っていたのだ。

 相手のことをまるで考えていない、自分のことしか考えられない腐った人間だ。



「ご、ごめんなさい。ごめんなさいグラン様。今のは、全部忘れてください」

「……エミル」

「何も言わないでください!」



 エミルは耳を塞ぎ、俯いて全身を振るわせた。

 グランに優しい言葉をかけてもらえる資格なんて自分にはない、それだけは確信できた。

 グランに何か慰めの言葉をもらった瞬間、自分はもう二度と彼の傍にはいられないような気がした。



「エミル、何をそんなに怯えているんだい?」

「っ……」



 びくっとエミルは反応する。

 今更のことだが、エミルはグランのことをずっと見てきた。

 しかしエミルと離れてからこの一年、グランもまたエミルのことを片時も忘れてはいなかった。

 エミルがこういうとき、どんなことを考えるかは、グランにもよくわかっていたのだ。



「わかったよエミル。君は、僕を好きだと言ってくれた。かつての僕の過ちを許してくれた。
。 だから僕は決して君のことを許してはあげない」



 エミルは泣き腫らした顔のままグランを見た。

 グランは切なげに笑いながら、それでもエミルを真っ直ぐに見つめていた。



「君は、許してほしくなかった僕を許した。僕は許してほしがった君を許さない。

いいかいエミル。これは僕らが互いに与え合う罰という名の契約だ。

その契約が続く限り、僕らはまた一緒にいよう」

「あ、あう、ぐ……グラン様ぁっ……」

「そのグラン様というのは禁止しよう。僕らはもうあの頃の僕らじゃないんだから。敬語も許さないよ」



 ぐず、とエミルは鼻をすする。

 間違いなく、顔は涙でぐちゃぐちゃだった。

 目は真っ赤だろうし、髪も乱れているだろう。

 しかし、そんなことに心を割くことはもう無い。

 なぜなら、二人はもう恋人同士では決してないのだから。



「うん……よろしくね、グランくん……っ」



 その時のエミルの顔は、今までグランが見た中でも、一番綺麗なものだった。

 不器用な彼らの不器用な関係が、そうして始まった。