第三十六話「夕餉」


 既に街は深い濃紺に包まれている。

 授業を終えたエンジェレットは、ローレンシアの家へと足を向けていた。

 ローレンシアの家は、クエスターズから五百メートルほど東に行った町の外れにある。

 大きな煙突の目立つ草色屋根の一軒家だ。

 煙突はクエスターズからでも確認できる上、一本道なので迷うこともない。

 しばらく歩いて家の前までやってきたエンジェレットは、木製扉についた輪を引いた。

 ちりんちりんと呼び鈴が鳴ってからしばらくして、ローレンシアが出てくる。



「よう来たのう。まあ、上がってくれ」



 促されるまま、エンジェレットはローレンシアに続いて家の奥へと入る。

 エンジェレットが通されたのは、立派な暖炉のある広い部屋だった。

 暖炉では薪が炊かれており、暖かな空気には木の匂いが多く含まれている。



「思ったより早かったな。まだ夕食の準備が済んでいないのじゃが……」

「夕食は後で結構ですから、依頼についての話を先にしたいのですけれど」



 刺すような視線に、ローレンシアは「わかったわかった」と言って苦笑する。



「"竜子"という名を聞いたことがあるか?」

「大陸の至るところで活動しているという大規模な盗賊団……で合ってますかしら?

血に濡れた十字をシンボルにしている」



 ローレンシアは首肯する。



「ここ十年ほどの間に急速に活動の息を広げつつある組織じゃ。

当初はまだ被害も小さく、たかが盗賊と皆侮っていた。その認識が間違っておったわけじゃな。

"竜子"が世間にその名を知らしめるきっかけになったのは七年前、ある村が地図から消された事件じゃ。

わしは報告書で見ただけじゃが、家は全て焼かれ、住民は当時五歳になる村長の娘以外は全員殺された。

更にその村に奉納されていた"ナナイロ"も奪われてしまった。

一応守護役であるアストリア公国の駐留軍もいたのだが、全滅した。

五十余名を数える軍の内生きて逃げ延びたのは僅かに片手で足りる程度という惨事だったそうじゃ」

「ナナイロというのは?」

「世にも珍しい七色に光る魔法石でな。普通魔法石は魔力を増幅させる媒介として使うことがほとんどじゃが、

ナナイロはそれ自体が強大な魔力の塊でのう。普通の使い方は出来ん。

じゃが代わりに、あらゆるエレメントを結合させ合成する作用があるのじゃ。

知っての通り、この地上にある物質は全てエレメントによって構成されておる。

悪用されでもしたら大事になりかねん」

「なるほど。今回の依頼の目的は、そのナナイロの奪還ですのね?」

「可能なようなら、"竜子"を潰すことも考慮してもらいたい。

仮に取り戻せたとしても、奴らは何度でも奪いに来る。そういう奴ららしいでの」

「わかりましたわ」

「あと、それだけでなくてだな……と、帰ってきたか」



 ローレンシアは言葉を区切り、部屋の扉に目を向ける。

 外からガチャンバタンと扉の開閉が聞こえる。

 とたとたと軽い足音がして、その人は部屋に入ってきた。

 小さく鈴の鳴る音が響く。



「ただいま帰りましたですか」



 両手に抱えた袋いっぱいの食材をテーブルの上にどさりと置く。

 そこで初めてエンジェレットに気づき、にこと笑顔になった。



「あなたがエンジェレット・エヴァーグリーンちゃんですか? はじめまして、リズ・アルベールと申しますですか」



 言って、リズは手を差し出す。



「は、はあ……」



 差し伸ばされた手をしばらく見つめてから、エンジェレットはそれに自分の手を重ねた。

 耳を隠すように下げた髪を、鈴のついたゴムで縛っている女性。

 人懐こい表情をしていながら、どこか落ち着きを感じさせる。

 この人は誰かしらと思っていると、ローレンシアが横から口を出してきた。



「リーズはわしの友人でな。元々はアパートの管理人をしていたのじゃが、そこを辞めて今はわしと一緒に暮らしておるのじゃ。

リーズ、早速で悪いが夕餉にせんか。もうたまらなく腹が減った」

「はいですか。少しだけ時間をもらっちゃうですか」



 リズは再び袋を抱えると、奥の台所へと入っていった。

 要は同居人兼給仕係ということらしい。

 ローレンシアは贔屓目に見ても家事ができるようには見えないので妥当なところだろう。

 そんな風に思っていると、ふとローレンシアと目が合う。



「……エンジェレット、その目と顔は、何か失礼なことを考えておるな?」

「先生って、料理とか出来なさそうですわよね」

「ぐ……正直な奴め。いいんじゃ、料理なんてできなくとも、街に出れば色々と買えるじゃろ」



 ローレンシアは開き直ったように言った。

 どうやら少しは気にしていたらしい。

 先生もかわいいところがあるなと思って、エンジェレットは笑みを堪え切れず――声に出して笑った。





     *





 ふっくらと焼き上げられたパンにスープ、そしてサラダ。

 メインディッシュはベア肉のステーキだった。

 香りつけのハーブが食欲をそそる。

 素朴なメニューではあったが、エンジェレットは言葉を発するのも忘れて堪能し尽くした。

 三人は人心地ついた様子で、食後の茶を楽しんでいるところである。



「では、そろそろ依頼の話に戻るとするか。ふむ、どこまで話したかの」



 ローレンシアは呟いて、カップを置く。



「そうだエンジェレット。先ほど話したところまでで、一つ妙なことに気づかないか?」

「妙なこと……」



 言われて、エンジェレットは記憶を呼び起こす。

 そこに自身の知識、経験を軸として整理していく。

 ほどなくして



「駐留軍が全滅したことですわね」

「どうしてそう思う?」

「私も何度か盗賊討伐に参加したことがありますけれど、はっきりいって彼らは烏合の衆ですわ。

たとえ数が倍いたとしても、訓練された軍が遅れをとるとは思いません。

盗賊の数が五倍も十倍もいたというなら話は違ってきますけど、駐留軍の目的がナナイロの守護だったのなら、

さっさとナナイロを持ち出して退却すればいい。

全滅したというのは不自然ですわ」



 ローレンシアはカップに口をつけてから、満足げに頷く。



「その通り。して、ここからが本題だが、逃げ延びた兵士の話では、数は多かったものの駐留軍は盗賊を一度は撃退したらしい。

だが村へ戻ろうというまさにその時、行く手に黒衣を纏った男が立ち塞がり、その者に駐留軍はものの数分で全滅させられたという」

「数分で……?」



 エンジェレットは思わず息を呑んだ。

 その短時間で五十名近い訓練された軍を相手にし、しかも全滅させるとなると自分にも到底不可能だ。

 そんな芸当が出来る人物を、エンジェレットは実の兄アークウィル以外に知らなかった。



「その男は、裏の世界では有名な男らしい。

その殺し方に特徴があり、鋭利な刃物で幾度も串刺しにしてから頭を割るという。

兵士達の死体のいずれもそれに合致していた。

男の名は、コルバート・ブラッドリィ。"血塗れコルバート"と呼ばれ恐れられている男じゃ」

「……今回の依頼は、その男の捕縛も目的の内ということですのね」

「いや」



 カップを再び置くと、ローレンシアはエンジェレットを真っ直ぐ見据えた。

 彼女にしては珍しく真剣な目だった。



「奴の首には懸賞金が賭けられているが、今回の依頼の目的には入っていない。

それに今言った事件自体がもう七年も前の話じゃ。

奴がまだ"竜子"に協力しているかどうかはわからん。

だがもしも奴に出会ってしまったら、エンジェレット。

奴とは戦うな。形振りを構わずに逃げろ。お前では絶対に勝てない」



 その言葉に、エンジェレットは少しむっとした。

 確かに話を聞いている限り、その男はまさに鬼の如き強さを持っているようだが、

 「絶対に勝てない」などと決め付けられて、彼女のプライドは僅かに傷ついた。



「確かに戦って勝てる保障はありませんわ。けれど絶対に勝てないなんて保障もありませんわ」

「いや、勝てない。実力的にもそうだが、他にその理由があるのじゃ」

「……理由?」



 ローレンシアは小さく頷いて、



「確かにお前の実力なら、万に一つ勝てるかもしれん。

勝負に絶対などというものはなく、強者イコール勝者とは限らんからな。

だがお前には非常さが足りん。お前の人情が万に一つの勝ち目も摘み取ってしまうじゃろ」

「見くびらないでくださいませんこと先生。

私だってひとたび戦場へ赴けば、敵となった方の命を奪うくらいのことが出来ないなんてことありませんわ」

「では、聞こう」



 さらりと



「イリス、ククルー、ユユ、この中の誰か一人でも殺せるか?」

「……っ!」

「それが出来るのなら、お前は万に一つコルバートに勝てるじゃろう。

わしもお前に戦うななどとは言わん」



 しれっとした顔でカップに口をつけたローレンシアをエンジェレットは強く睨んだ。

 その目には明らかな敵意が込められていた。

 この人は、自分にあの友人達を殺せというのか?

 そんなこと出来るはずがない。

 自分の力は、彼女達を守るためにあるものだ。

 その自分が彼女達を牙にかけることなどありえない、絶対に。



「何も言わんということは、出来んということか」

「あ――」



 かっと頭に血が上った。

 怒りの矛先を相手に向けるなと最後の理性が辛うじて働き、エンジェレットは握った拳をゆっくりと下ろす。



「当たり前でしょう! そんなことをするくらいなら、自分が死んだ方が幾分ましですわ!」



 びりびりと空気が震える。

 暖炉の薪が音を立てて割れた。

 エンジェレットは今にもローレンシアにつかみかかりそうな剣幕だ。

 その緊張を、ローレンシアは一気に破った。



「そうか。それを聞いて安心したぞ」

「……は?」



 思わずきょとんとしてしまう。

 虚をつかれたためか、怒りもどこかへいってしまった。



「自分の友人をも殺す……もしかしたら戦場にはそのくらいの非常さを要求する場面があるかもしれん。

じゃが、お前は友人のことを自分以上に大切に思っておるようじゃ。

基本的に優しいからなお前は。正直言って甘い。戦士にはもしかしたら向いていないのかもしれぬ。

しかしな、わしはお前のそんなところを気に入っておる」

「どういう意味ですのそれは」

「わしはお前のことが好きじゃよ」

「なっ……う……」



 エンジェレットは俯き、黙り込んだ。

 その横顔が赤くなっていることに気づき、ローレンシアはクスと笑いを漏らした。

 からかわれている。

 その事実に気づいても、羞恥心は消えてくれない。

 顔の熱っぽさもなかなか引いてはくれなかった。

 顔を隠したまま、気恥ずかしさをごまかすように語調を強める。



「甘いとかなんとか言われては、その言葉は素直に受け取れませんわね」

「よいではないか。そういう甘さを抱えたまま戦い抜くのも一つの強さだとわしは思うぞ」



 そうかもしれない。

 そう思いながら、エンジェレットはそこでようやく自分のカップに口をつけた。

 少しだけ冷めてしまっている。

 だが、味も香りも申し分ない。

 冷める前だったらより茶を楽しめたろうに、とエンジェレットが小さく溜息を漏らすと、



「そうじゃ、一つ言い忘れとったな」



 ぽんと手を打って、



「今回の依頼はお前一人では荷が勝ちすぎる。

そこでクエスターズからも一人、わしが推薦する者をパートナーとして同行させる。

それについては構わんな?」

「それは構いませんけれど、一体どなたですの?

この依頼についてくるということは、私と同等かそれ以上の実力者でないといけませんわ。

今のクエスターズにそんな実力の方がいないのはこの一ヶ月で把握しています。

それともローレンシア先生ご自身が着いてくるおつもりですの?」

「そいつはいい! ……こほん、まあそうしたいのは山々だがな。

立場上軽率に動けん身でな。全く肩書きなんて持つものではない。

肩が凝るばかりで退屈すぎる」



 溜息をついてローレンシアは愚痴をこぼす。

 当然といえば当然だなとエンジェレットは思った。

 知っての通り、ローレンシアはクエスターズの代表であり教師長である。

 それと同時に、彼女はアルトリア公国に三人いる公の一人なのだ。

 つまり公国の権力を三分した内の一つを所有する人物であり、政治的にも重要な立ち位置にいるのである。

 いくら腕が立つからと、そう簡単に冒険などを許される立場にはない。



「それで、結局パートナーは誰なんですの?」

「うむ。今回同行するのはだな」

「私ですか」



 しばらく二人の会話を静かに聞いていたリズが口を挟んだ。

 ええと、と思わずエンジェレットはこめかみを押さえる。



「リズ……さん? 今のは」

「もちろん本気ですか」



 一点の曇りもない満面の笑みだった。

 言葉に詰まったエンジェレットは、物凄い勢いでローレンシアに目を向ける。

 そして視線で強く訴えた。

 説明しろ。



「……まあ、そういうことじゃ。二人とも、よろしく頼んだぞ」

「ちょっと、先――」

「おお、そうじゃまだ雑務が残っとった。話も済んだことだし、わしは席を外させてもらうぞ」



 言うだけ言って、ローレンシアはそそくさと部屋を出ていった。

 性格上、わざわざ家で仕事をするようには到底思えない。

 説明が嫌になって逃げたのは明白だった。

 エンジェレットは脱力して椅子に深くもたれかかる。

 目線を上げ、朗らかに微笑むリズに目をやった。

 お世辞にも強そうには見えない。

 しかし、あのローレンシアが認めているのなら、今更自分がどうこう言うことではないのだろう。

 自分はただ依頼を全うすることに全力を注ぐのみだ。



「……よろしくお願いしますわ、リズさん」

「こちらこそですか。エンジェレットちゃん」



 リズは最初会った時と同じようにすっと手を差し出した。

 その手をしばらく見つめてから、エンジェレットは手を重ね合わせる。

 柔らかく、温かかった。





     *





 エンジェレットが帰ってから半時ほど。

 ローレンシアは屋根に登り、ぼうと空を見上げていた。

 遥か頭上で星が静かに瞬いている。

 ひやりとした冷たい夜の空気が心を静めるようだ。

 風がさやと鳴っているのが耳に気持ちがいい。



「やっぱりここにいるですか」

「……リーズか」



 後ろからの声に、ローレンシアは振り向きもせずに応える。



「何か考え事をしたいとき、こうして一人で空を見にくる。

ローラは昔とちっとも変わってないですか」

「お前も変わってないのう」

「たとえば?」



 フッと呟きが風に流れた。



「他人のことばかり気にかけていて、自分のことをおろそかにするところ」

「……ごめんですか」

「別に謝らんでもよい。わしが何を言ったところでその性格は直らんだろうからな」

「ん。だから、ごめんですか」

「わからずやめ」



 ローレンシアの口元が綻ぶ。

 と、すぐさま語調が変わり



「リーズ、コルバートがまだ"竜子"に協力していることは確かだな?」

「はいですか。下っ端さんは好き勝手やってますから、酒場に来たところを捕まえて飲ませてあげたら機嫌よく喋ってくれましたですか」

「奴に勝てるか?」

「彼は……きっとあの頃より強いですか。私はこの体になってから一度大きく力を失いましたから、

分が悪いことは確かですか。でも負けるわけにいかないですか」

「だが、わかっているじゃろ? たとえ奴に勝てても、奴を殺したらあやつも一緒に……」

「出来ればそうであってほしくはないですか。

でもそうだとしても彼を……コルバートを放っておくわけには行かない。

彼を止めることが、勇者としての私の最後の仕事ですか」

「そうだったな。出来れば、無事で帰ってくれ」



 リズは呆れたような笑みになった。



「平気な顔で難しいことを言うところも、ちっとも変わってないですか」

「かもしれんな」



 笑う。

 他の誰にも見せたことのない無防備な笑い方だった。



「あまり長く出ていると体が冷えるな。戻るとするかの」



 ローレンシアは立ち上がり、踵を返す。

 会話はそこで途切れたかに思われたが、その背にリズが声をかけた。



「そういえば、エンジェレットちゃんにあのことは言ってないんですか?」

「あのこと?」

「ナナイロが奉納されていた村の唯一の生き残りである村長の娘さんが、ククルーちゃんだってことですか」



 間。



「……その話をエンジェレットにしていたとき、お前はまだいなかったはずだが」

「エンジェレットちゃんを見てればすぐわかるですか。

あの子の性格なら、それを知ってたら絶対にコルバートと戦うと言い張ってたと思いますか。

真っ直ぐで不器用で、ローラが気に入るのもわかる気がするですか」



 後ろからリズがローレンシアに追いつき、肩を並べた。



「出発はいつじゃ?」

「明日。エンジェレットちゃんと一緒にコミュニティに寄ってから、ブレイヴァニスタを発つですか」

「そうか」

「はいですか」

「死ぬなよ」



 リズは一瞬だけ黙ってから、綺麗に笑った。



「はい、ですか」



 ローレンシアはリズとは長年の付き合いになる。

 だから、その表情が何を物語っているか、すぐわかってしまった。

 リズは、ローレンシアと違って嘘を口にすることがほとんどない。

 その彼女が嘘をつくとき、それは相手を心配させまいとしてつく場合だけだ。

 辛いのに平気だと言ったり、苦しいのに大丈夫だと言ったり……

 そんなとき、リズは決まってこんな風にはっとするほど綺麗な笑いを浮かべてみせる。

 そのくせ何を言われても、頑なに自分の意見を曲げようとしないのだ。

 だからローレンシアは何も言わなかった。