第三十四話「もっと、今よりも、ずっと」


 戦闘民族エヴァーにとって、強いとはそれだけで価値のあることだ。

 エンジェレットは小さな頃からそう言い聞かせられてきた。

 彼女自身もずっとそう信じて、強く、もっと強く、己を鍛え上げることに従事してきた。

 それを疑問に思ったことはなかった。

 しかしふと、彼女はある日考えるようになる。



 そうして身に付けた強さは、一体何のためのものなのだろう。











 魔物討伐から帰ったエンジェレットは、城下の町を歩いていた。

 その立ち振る舞いに疲労の色は見えない。

 今回の討伐は、多少物足りなかったとさえ本人は思っていた。



「お姫さん、今日も凛々しいねぇ」

「明日はもっと凛々しいですわよ」

「エンジェレット様、相変わらずお美しいです」

「ありがとう」



 エンジェレットは歩きながら、一人一人に会釈する。

 故郷のざわめきは耳にうるさい。

 しかしそれを不快には思わなかった。

 むしろ不思議と心が落ち着き、エンジェレットは穏やかな表情で街を横切っていく。



「エンジェレット様、少しお変わりになったかしら?」

「そうね。今までも凛としてらしたけど、少し優しい感じになったかも」

「どっちにしたって素敵ね!」

「そうね!」



 強いことに価値を見出すエヴァーの民にとって、強者はそれだけで羨望の的となる。

 まだ年齢的には若いにも関わらず鬼人の如き強さを持つエンジェレットは、元々国民に非常に人気があった。

 だが、エンジェレットはそれを誇らしいと感じたことはない。

 小さい頃から英才教育を施されてきたのだから、強くなるのは当然。

 王族であるのだから、強くなくてはならないという義務感さえ感じていた。

 街の喧騒を過ぎ、堀に掛けられた橋を渡る。

 門番に労わりの言葉を投げかけてから、城内へ。

 強い、と言われてもピンと来ないのは、兄の存在があるのかもしれない。

 エンジェレットの兄、アークウィル。

 普段はとぼけているが、その実は戦いの申し子とまで呼ばれる実力の持ち主だ。

 エンジェレットが唯一恐怖を覚えた人物でもある。

 ふと思う。

 あの人は何のために戦っているのだろうか。

 国のためというのもあるかもしれない。

 でもそれだけではない気がする。

 戦うこと自体が目的なのか。

 それともあの人ほど力を持った人でも、わかっていないのか。



「……わかりませんわね」



 溜息。

 あの兄の考えなど想像もつかない。

 それより、自分自身はどうなのか、それが一番大切なことだろう。

 自分は何のために強くなるのか。

 自分は誰のために戦っていくか。

 それは以前、心に決めていたはずだった。

 そう思うだけで、前よりも強くなれる気すらしていた。

 流石にそれは幻想だろう、とエンジェレットが歩む速度を緩めて



「気配を消して近づくなんて、無粋ではなくて?」



 立ち止まる。

 その人は、廊下に立ち並んでいた甲冑の影から静かに姿を見せた。

 ぺこりと頭を下げてから、どこか穏やかな目でエンジェレットを見つめる。

 その顔には見覚えがあった。

 確か、兄の従者をやっている者だ。



「私にここまでしか近づけさせないなんて、さすがですね妹様」

「あなたこそ、私に悟られずここまで近づくなんて大したものですわ」



 エンジェレットの言葉は、自意識過剰から出た言葉ではない。

 自分自身の力量を知っているからこその言葉だ。

 くす、と相手は嬉しそうに口元を綻ばせる。



「そうでなくては、アークウィル様の妹と認めたくはありません」

「それで、何か用なのかしら」



 そう言うと、なぜか更に笑われた。

 なんだか馬鹿にされているようで、気分が悪い。



「妹様の呟きが聞こえたものですから、よろしければお話をお聞かせ願えないものかと思いまして」

「悪いけれど、結構ですわ。他人に話すようなことじゃありませんもの」

「まあ、そう言わずに」



 目を離したのは、ほんの瞬きほどの間だった。

 ゆら、と相手の影が揺れた気がして視線を戻すと、そこにはなにもない。

 どこにいったのかと思ったのと、後ろから肩を叩かれたのは同時だった。

 硬直した体の動きを少しずつ取り戻しながら、エンジェレットは小さく口を開く。



「……速いですわね」

「それほどでも。でも、今は妹様が気を抜いてらしたから」

「後ろを取られた事実は変わらないですわ」



 そうですね、と言って相手は微かに笑ったようだった。

 肩に置かれた手を振り払い、エンジェレットは半身振り返って強い視線を向ける。

 背後を取られたのが少なからず彼女のプライドを傷つけたのだろう。

 それがわかったのか、相手は穏やかながら先ほどよりも強い口調で言う。



「話してみてくださいませんか?」

「……」



 僅かに逡巡する。

 少し考えてから、考えるだけ無駄だと悟った。

 相手の目は、エンジェレットの一挙一動に注がれている。

 進むことも退くことも出来そうにない。

 話すまでは解放する気がないことは容易に想像できた。

 冷たい廊下の空気にそっと溶け込ますように呟く。



「あなたも、なかなか強いようですけれど」

「恐縮です」

「あなたは、何のために強くなって、そして誰のために戦っていますの?」

「え……?」



 それを聞いた瞬間、相手はきょとんとして目を見開いた。

 なんだかエンジェレットは自分が的外れなことを言ったような気がして、思わず頬を染める。

 恥ずかしさを誤魔化そうと、語調を強くして



「ですから、あなたはどうして強くなったのか、そして誰のために戦うのか、と聞いていますのよ!」

「簡単なことです。私はアークウィル様のために強くなり、そしてアークウィル様のために戦います」



 きっぱりと相手はそう答え、笑顔になる。



「妹様、少し問題を難しく考えすぎなのではないですか? もう少し単純に考えるのも、たまには良いかもしれませんよ」



 彼は黙り込んだエンジェレットを優しげな目で見つめる。

 彼は、少なからずエンジェレットにも敬意を抱いているのだ。

 常軌を逸した力を持ちながら、劣等感を抱き、慢心せず、悩み苦しむ姿は、美しかった。

 必死に己の生き様を探している姿は美しかった。

 やっぱり兄妹ですね、と彼は口には出さず思う。



「少し出過ぎたことを言いましたね。それでは私はこれで」

「待ちなさい」



 立ち去ろうと踵を返した彼にエンジェレットが声をかけた。

 振り向いた視線の先に、その姿は無い。

 ポンと彼の肩にそっと手が置かれ――彼はにっこりと微笑んだ。



「案外負けず嫌いなのですね」

「それほどでも」



 背後に回ったエンジェレットは、そっと手を離す。



「一応、礼を言っておきますわ。誰かの考えを聞くのも参考になりますわね」

「それはどうも、身に余るお言葉です」



 清清しいほど綺麗な笑顔を彼は浮かべる。

 その清涼さを憎らしく感じてしまうのに、その穏やかな表情にその憎らしささえ散らされてしまう。

 愛想笑いではなく、自嘲的でもない、これこそ真に笑顔と呼ぶべきではと思わせる、そんな顔だ。



「……あなた、名前は?」

「ウィルと申します」



 そう、と言ってエンジェレットはとんと床を軽く蹴る。

 ふわりと体が小さな放物線を描いた。

 視線だけをウィルに向けて、エンジェレットは呟くように



「あなたとは、いずれ手を合わせてみたいですわね」

「私も同じことを思っていましたよ。その時は」



 すっ、とウィルの眉が僅かに強張る。



「是非勝たせていただきます」



 二人、言葉無く、視線と視線だけがぶつかる。

 外界の音も途切れ、その瞬間は、互いに互いの姿しか見えていない。

 やがてどちらからともなく踵を返し、二人は逆の方向へと歩き出す。

 自分に匹敵する実力の持ち主がまだこのトーワ王国にいたことに、エンジェレットは驚くと同時に喜びを感じていた。

 自分より明らかに弱い者と戦って得られる物は少ない。

 自分と同等かそれ以上の相手と相対したとき、己の真価が問われるのだ。

 そう考えるからこそ、エンジェレットは実の兄に恐怖したことを内心で恥じている。

 兄とは決して、どんなことがあろうとも戦いたくはないと少しでも思ったことを恥じている。

 それはつまり、勝てる相手としか戦いたくないと思ったのと変わらない。

 強くなりたいと切に願い、そう行動してきたエンジェレットは、自分がそんな弱い考えに流れたことを悔いていた。

 そのことを思い出し、エンジェレットは強く唇を噛み締める。

 ぶつ、と自身にしかわからない小さな音がして、じわりと鉄の味が舌に染みた。

 相手がどんなに強大で恐ろしかろうと、立ち向かう。

 そう決めた。

 その時のために、もっと、今よりも、ずっと強くならなくてはならない。

 強くなりたい。

 そう思ったとき、エンジェレットの行動は早かった。

 気付くとその歩みは少しずつ速まり、歩みと呼べないほどになる。

 エンジェレットが来たのは、謁見の間。

 邪魔だと言わんばかりに扉を勢いよく押し開く。

 そこに父の顔を認めると、エンジェレットは凛とした口調で言った。



「お父様。お願いがありますの」











 手荷物は少なければ少ないほどいい、とエンジェレットは思う。

 普段着る服は一着で十分。

 リボンの代えも必要ない。

 愛用の鉄扇はしっかり磨き上げておく。

 それと携帯食料を一週間分ほど。

 数種類の薬草を調合した簡易食料で、二口も食べれば一日中動けるほどの活力になるのだが、

 これがひどく粉っぽく、お世辞にも美味とは言いがたい味がする。

 初めてこれを口にしたとき、エンジェレットはまだ物心ついて間もない頃であり、

 思わず目に涙を浮かべて吐き戻しそうになるのを必死でこらえながら喉に流し込んだものである。

 「冒険をするなら、必ずこれの世話になるだろう」と父に言われた時は、この世の絶望だとすら思った。

 それほどまでに不味い。

 肉体的には栄養であっても、精神的には毒だとエンジェレットは信じて疑わないほどだ。

 それでも冒険者の間で広く普及しているのは、少量で高い栄養価を誇り、しかも持ち運びが容易なためである。

 これに代わる携帯食料の開発に成功した者は、エンジェレットに生涯尊敬され続けるだろう。

 最低限必要と思われるものは、これで全部鞄に詰め終わった。

 鞄を肩に担ぎ、部屋を出る。

 もう既にゼルディスの許可はもらっていた。

 これからのことを思うと、なぜか胸が高鳴ってくる。

 こういうところは、まだ自分も子供なのだろうとエンジェレットは自嘲的に笑う。

 その自覚がある分、大人だと言えるかもしれない。

 その先へ行けば外が見えるというところまで来たところで、足を止めた。

 数日前と同じように、彼はすっと音も無く姿を見せる。

 逆光で顔はよく見えないが、まとっている空気が柔らかい。

 ウィルは穏やかな口調を響かせた。



「お出かけになられますか、妹様」

「ええ。またしばらく戻らないと思いますわ」

「アストリア公国からお帰りになったばかりですのに、思ったより落ち着きが無い方ですね」

「褒め言葉として受け取っておきますの」



 笑いを堪えきれず、ウィルは小さく笑い声を漏らす。

 エンジェレットは顔をしかめて黙り込んだ。

 彼のその笑い方は、あまりに笑顔としては完璧すぎるせいで、逆に好きになれなかった。



「では妹様、お気をつけて。強くなる目的も戦う目的も、早く見つかることをお祈りします」



 しかし、エンジェレットはウィルに視線を向けたままじっと立ち止まっている。

 思っているだけでは伝わらない。

 思いは、言葉にすることで僅かながら確かなものとなって相手に伝わる。

 ――言葉は力である。

 そう自分に教えてくれたのは、あの黒くて小さな友人だったなと思いながら、エンジェレットは言った。



「私は、強くなる。そして、短い間でも、同じ時を旅した友のために戦いますわ」



 それが現時点での、エンジェレットの答え。

 正解でも間違いでもなく、ただ自分でそうと決めただけのものだ。

 だが、そんなことは問題ではない。

 大事なのは、自分で決めたということ。

 自身で考え、悩み、その末に出したものだというのが重要である。

 悩み続けた時間は、知らずの内に成長の元になっている。

 出した答えは、それ自体が指針となって己を突き動かす力になる。



「あなたがそう決めたのなら、そうするといいでしょう」



 ウィルは明るい声で言った。

 表情は柔らかく、心なしか嬉しそうに見える。

 ウィルは主人であるアークウィルを深く敬っている。

 アークウィルは、普段は呆けているが実際は誰に揺らがされることもない強さを持っている。

 そんな彼の妹であるエンジェレットに、ウィルはある程度の期待感を持っていた。

 そして今、エンジェレットは数日前より確かに成長して目の前に立っている。

 拙さと逞しさを同時に感じさせる。

 不安定、と言えるかもしれない。

 しかし彼女は、自分の中に一本芯を通し、真っ直ぐに立ってみせようと足を大地に突き立たせている。

 その姿はとても美しく、そして力強かった。



「それと、あなたへの返事がまだでしたわね」

「私へ?」

「ええ」



 エンジェレットは口の端を微かに上げて



「負けませんわよ」



 その言葉が、数日前、自分が最後に言った言葉に対するものだとウィルが気付くまでに、

 エンジェレットはウィルの横を抜けて城の外へと出て行ってしまっていた。

 外は明るく、まるで自分の行く道は光に全て照らされているんじゃないかという錯覚に陥りそうになる。

 そんなわけはない、そんなわけはない、が――

 少しくらいはそう思う時間があってもいいのかもしれない。

 そんな考えが入り込む程度の余裕はあった。

 やることは決まっている、それが何のためかも決めた。

 それならあとはやるだけだ。

 何も難しいことは無い。

 エンジェレットは顔を上げ、一つ一つ確かめるように歩みを進めていった。



 目指すは、アストリア公国ブレイヴァニスタ。

 クエスターズ。











 ウィルは振り返り、一歩踏み出すたびに揺れるロール髪を遠目に見つめる。

 逆光の中、エンジェレットはもう振り返る素振りも見せずに歩いていた。

 その姿が見えなくなるまでウィルはその場を動かなかった。

 やがて豆粒ほどにしか見えなくなってから、緊張を解き、深く溜息をつく。



「……たった数日であんなに逞しくなられるなんて」



 若いっていいですね、と呟きかけてやめる。

 少し考えてから、代わりに「反則ですね」と一人ごちる。

 自分だって、まだ十代なのだから十分若い。

 ただ普通より少し落ち着きがあって大人びているというだけの話だ。

 そう自分を納得させて、ウィルは城の中へと戻る。

 と、少し歩いたところで見慣れた姿を発見した。

 薄紫色の布団を被ったまま、それをずるずる引きずって廊下を歩いている人物。

 寝ぼけ眼でうろついているその人は、アークウィルだ。

 また昼寝でもしていたのだろう、それで普段は呼び鈴を一度鳴らせば即座に参上するウィルが

 いくら呼んでも来ないので、仕方無しに自分で探しにやってきたというところと見た。

 ウィルは苦笑してから、己の両頬を軽く叩いて表情を引き締める。

 心を許しているとは言っても、関係上は主人と従者なのだ、馴れ馴れしい態度を取るのは失礼に当たる。



「アークウィル様。おはようございます。どうなされましたか?」

「おー? おお、ウィルか。探したぞ」

「はい。どのようなご用件でしょうか」

「呼んだのに来なかった。だから探してた」

「申し訳ありません。勝手ながら妹様のお見送りをしておりました。どのような御用ですか」

「ああ。お前を呼ぼうと思ってな」

「はい。どのようなご用件でしょうか」

「なんとなく」

「そうですか」



 問答の末、結果的に帰ってきた言葉がそんなものでも、従者は決して主人に文句を言える立場ではない。

 従者は主人に仕え、その見返りとして養ってもらっている。

 つまり純粋なギブアンドテイクの関係。

 だが立場は対等ではない。

 主人は従者を選ぶことが出来る。

 従者は主人を選ぶことが出来ない。

 この圧倒的な格差は、根本的には決して覆ることのないものだ。

 だが、ウィルにはそんなことは関係なかった。

 なぜなら、ウィルがアークウィルに仕えて以来、文句を言うどころか苛立ったことすらほとんど皆無なのだ。

 前に言った通り、ウィルはアークウィルのことを深く敬っている。

 従者にしてくれたこと自体を感謝してもいるが、それ以上に彼の自分に対する接し方に感動すら覚えていた。

 彼は、ゼルディスやエンジェレットにすら話さない本心を、自分にだけは明かしてくれる。

 ただの召使としてではなく、心を許せる人として自分を見てくれている。

 それはウィルにとっては最上の喜びだった。

 ウィルがエンジェレットに思慕に似た感情を持つのは、彼女にアークウィルの面影を見ているせいかもしれない。

 ウィルにとっては、その辺りはどうでも構わなかった。



「なあ、ウィル」



 ふと後ろをついてくるアークウィルが口を開く。

 振り返ると、アークウィルはウィルを真っ直ぐ見つめていた。

 その様子から、彼が真剣になっていることがわかる。

 ウィルは黙って次の言葉を待った。

 何分経っただろう、一分かもしれないし二分かもしれない。

 もしかしたらたった数秒かもしれないが、じっと見つめ合っている無言は時を長く感じさせる。

 重く閉ざされていた口が開き、そこから紡がれたのは、ごく単純な願い。



「アークと呼んでくれないか」



 間。

 何を言われても、自分なりに真剣な答えをすぐに返せるように身構えてはいた。

 それでもウィルは言葉に詰まり、思わず黙ってしまう。

 直後、しまったと思った。

 後悔してももう遅く、アークウィルはウィルの返答を静かに待っていた。

 逃げられないことを悟ったウィルは、アークウィルの視線から逃れようと身を微かによじらせて、



「従者である私がそうお呼びするのは不敬にあたります。申し訳ありませんがお断りさせていただきたく思います」

「どうしてもと言ってもか」

「ご命令とあらば、失礼ながら呼ばせていただきますが」

「それは、本気で言ってるのか?」



 不機嫌そうな目で睨まれ、ウィルは体を縮ませた。

 アークウィルが恐ろしかったのではない。

 自分の言葉で彼を不快にさせてしまったという思いで、申し訳なくなったのである。

 それを見たアークウィルがばつの悪そうな顔をして視線を落とす。



「……悪かった。俺の方から無理強いすることではないと最初に言ったのは俺だったのにな……」

「いえ、アークウィル様に非はありません」



 あるとすれば、それは自分の側にあるのだとウィルは思う。

 主人が自分から言ってきた願いを従者が聞かないということの方が、本来ならばおかしいのだ。

 主人が「アークと呼んでくれ」と言ったなら、その呼び方が本来不敬にあたるとしても、従者ならば素直に従うのが普通である。

 アークウィルを"アーク"と呼ぶのは、彼と特に親しい人物のみである。

 彼の話によると、今まで彼をそう呼んでいたのは両親と、幼少のエンジェレットのみ。

 肉親以外でその呼び名を許そうと思ったのは、ウィルが初めてということだった。

 そのこと自体は素直に嬉しいと思う。

 だがそれは、意識的な距離があまりに近すぎるとウィルは思っていた。

 遠すぎれば、その人がどんな考えを持ち、どんな生き方をしているのかがまるで見えてこない。

 近すぎると、その人の人間性がよくわかるが、見えなくていいところまで見えてしまう。

 見せたくない部分まで相手の目に晒すことになってしまう。

 自分の汚いところを見て、アークウィルが自分のことを軽蔑するとは思わない。

 そのくらいには、ウィルはアークウィルのことを信頼していた。

 だからこれは自分自身のわがままにすぎない。

 その汚い部分を、自分が尊敬している人に見せたくないというだけ。

 十分過ぎるくらいウィルはそれを承知していた。

 その上で、ウィルはアークウィルのことを"アーク"と呼ぶことを躊躇っている。

 そう、自分もエンジェレットと同じで、まだ若い。

 その上、自分は落ち着きがあって大人びている。

 つまり、若いくせに自分の気持ちを誤魔化すことに長けている。

 それは賢明だが、同時に愚かでもあるような気もした。

 あとほんの一歩踏み出すだけの、その一歩を踏み出す勇気が自分にはない。

 その点で、エンジェレットには明らかに劣っている。

 だが自分にだって今まで、そしてこれからも信じ続けていくであろう思いがある。

 そう簡単に負けたりはしない。

 従者である自分が無様な戦いをしたら、その主人まで無様だと思われてしまう。

 主人の評判を下げるようなことだけは絶対に避けなくてはならない。

 そのために自分は強くなったのだから。



「ではアークウィル様、お部屋へ戻りましょう。お召し物をお持ちしますか?」

「いや、もう一眠りすることにする。お前も一緒に寝るか?」

「丁重にお断りさせていただきます」



 もう二人の切り替えは済んでいる。

 五年も一緒に過ごしていれば、互いに互いの機微も十分に把握している。

 ウィルは穏やかな笑顔の裏側で、ふと思っていた。

 自分も、いつかはその一歩を踏み出せる時が来るのだろうか、と。