第三十三話「仲間」


 漆黒に包まれていることに気付いた。

 またこの夢か、とサーザイトは思う。

 最初は動揺したが、何度も見続けていると流石に慣れてきた。

 指先に嫌なぬめりを感じる。

 しかし、その日はいつもと様子が違っていた。

 いつまで経っても闇以外何も見えては来ない。

 第一、"奴"がいないというのは妙だった。

 不思議に思い、辺りを見回してみる。

 首を上に上げたところで、静かに瞬く光が、更に大きな光の波に消されようとしていた。

 ぼんやりとかすみのかかった頭のまま、サーザイトは思う。

 これは……夢じゃない、現実だ。

 自分は覚醒している。

 夢と現実の区別もつかなくなってきているとは、少し気にしすぎなのかもしれない。

 起きるにはまだ早い時間だと思い、布団を手繰り寄せて再び眠りに就こうとするが、



(……妙だ)



 ここは現実だということは、恐らく間違いない。

 それなのに、指先に感じるぬめりが消えてくれないのはなぜだろう。

 汗? ――それにしては、なんだか濃い感触だ。

 それにベッドシーツが吸い取り切れない量の汗などそうそう出るものではない。

 異様に湿気を帯びた布団を捲り上げる。

 眠気を押し留めるように目元を拭い、目を凝らしてよく見てみた。

 窓からちょうど差し込んできた朝日が部屋の中を薄く照らし、――サーザイトの表情が驚愕で彩られる。

 布団を剥いだそこには、ユユが横たわっていた。

 同じ部屋で寝た覚えはあった。

 だが寝る前は、確かに別々のベッドに横になったはずだ。

 それなのに、どうして自分のベッドにいるのか。

 ユユの口元からは大量の血液が溢れ出し、枕元に水溜りを作っていた。

 ぴちゃり、とサーザイトの指から落ちた雫が小さく波紋を呼ぶ。

 結構、まずい量なんじゃないか、コレは。

 硬直していた体が、血の生暖かさで急激に現実味を取り戻し



「ユ、ユユー!」



 サーザイトの叫びが、一軒の宿の平和を切り裂いていった。











「『はい、先生、あーんですの』」



 ユユがすっとサーザイトにスプーンを差し出した。

 スプーンの上には真っ白なクリームがたっぷりのっている。

 目を薄めて、口元をふにゃりと曲げたその顔は相変わらず青白いが、楽しそうに見えた。

 そんなユユに呆れたような視線を向けたまま、サーザイトは首を振る。



「……いらん」

「クスクスクス……『先生は甘いものはお嫌いですの?』クスクスクス……」

「……お前の食べかけは、鉄の味がしそうだから、いらん」

「『先生、女の子に向かってその言い草はひどいですの。デリカシーの欠片も感じられませんの』」



 そう言いつつも、ユユには全く気を立てた様子はない。

 サーザイトに差し出していたスプーンを自分の口元へ寄せ、ぱくりとくわえる。

 ユユの目は一層とろけそうなくらい細くなった。

 楽しそうなユユを横目に見やり、サーザイトは溜息をつく。

 手元に置いておいた茶に口をつけ、漏れた息にぼやきが交じった。



「はあ……宿では、まいった」



 疲れた感じでそう呟くサーザイトに、ユユが薄く笑って



「クス……『私が血を吐いていたくらいで大騒ぎしすぎですの』」

「……俺が悪いのか?」

「『血を見るのは慣れているんじゃありませんの?』」



 上目遣いに、クリームを食べる手を休めないままユユがそう尋ねる。



「自分の血ならな。他人の血を見るのはそうでもない」



 再びサーザイトは溜息をつくと、ユユに睨むような視線を向けて、



「お前が勝手に俺のベッドに入ってきたせいで、こっちは色々といらん誤解を受けるところだったんだぞ。

ロリコンな上にネクロフィリアだなんて、ひどい濡れ衣だ。お前がすぐ目を覚ましてくれればまだ良かった」

「クス……『本当はもう少し目を閉じていようかと思ってましたの』」

「……お前、本当は最初から起きてたな?」

「『はいですの』」



 相手が自分の生徒じゃなかったら、女の子じゃなかったら。

 サーザイトは、テーブルの下で強く握り締めた右拳を叩き込んでいたかもしれない。

 それを知ってか知らずか、ユユは無邪気に「『おいしいですの』」なんて言っている。

 ペロ、と口元を舐めた舌は真っ赤で、妙になまめかしかった。

 カランと空になった容器にスプーンが小粋のいい音を立てる。



「クス……『ごちそうさまですの』」



 両手を膝に、ユユは薄い笑みを浮かべたままサーザイトをそっと見つめた。

 何を考えているのかはさっぱりだが、その視線はどことなく優しい。

 居心地の悪さを感じ、サーザイトは視線をそらしつつ、



「それにしても、賑わっているな」

「『ですの』」



 と、横から伸びる手がユユの食べたクリームの容器を取る。

 人の良さそうな笑顔を浮かべたその男性は、この店の主人であった。



「少し前に街道の魔物退治がされましてね。それで商人達が多く立ち寄っているんですよ」

「なるほど、道理で……」



 ありがたいことだが、弊害もあった。

 交通の便が良くなったことで賑わうのは結構だが、そのせいで宿も混雑しているのだ。

 サーザイトとユユが同室で泊まったのも、その影響である。

 本当は、一応年頃の女の子であるユユとは別室で……と思っていたのだが、宿側が認めてくれなかった。

 かと言って、街にまで来て野宿というのも気が引けた。

 何よりユユがサーザイトと同室なのを承諾したので、仕方なく同じ部屋で一泊したら、あの騒ぎである。

 ユユに関しては、変に意識しない方がいいのかもしれない。

 相手が意識していないのに、こちらだけ意識して色々と気を回すのは、なんとも馬鹿らしいことだ。



「いやあ、それにしてもエヴァーの民ってのは皆あんなに強いんですかね」



 ふと、主人が言った。

 聞き慣れた単語を耳にして、二人は顔を上げる。



「というと?」

「トーワ王国のお姫さんが来てくれたんですがね、まだ子供なのに一人で街道の魔物を蹴散らしたっていうんです。

私はデザートを作ることとお茶を入れること以外に能がありませんから、羨ましい限りですよ」



 主人は爽やかな笑い声を上げながら店の奥へ引っ込んでいった。

 ふうと息をついて、サーザイトは呟く。



「そうか……やっぱり強いな、エンジェレットは」

「クス……『先生は、エンジェが強いとお思いになりますの?』」



 その言い方に、サーザイトは何か引っ掛かるものを感じた。

 クエスターズにいた頃から、ユユはどこか不思議な雰囲気を漂わせていたが、人との接し方は穏やかだった。

 取り分けエンジェレットに対しては、イリスやククルーよりも友好的だったように思うのだが、



「お前はエンジェレットが弱いって思うのか?」

「『そうではありませんの。エンジェは強いですの。でも、エンジェは……』」



 と、ユユはそこで言葉を区切る。

 しばらく節目がちになって黙り込んだ。

 どうしたのだろうと思っていると、不意にユユは再び笑みを浮かべて



「クス……『やっぱり内緒ですの』」



 そう言って、赤い舌をちろっと出した。

 ユユにしては、珍しく俗っぽい仕草だなと思う。



「なんだ。言いかけてやめるなんて意地悪いな」

「『根が暗い奴ですから、仕方ありませんの』」



 言葉の端っこに、自重めいた響きがあった。

 同時にその言い方はどこか棘を感じさせた。

 なぜか、ユユはご機嫌ななめらしかった。

 ついさっきまでは楽しそうだったのに、何がユユの気分を損ねたのだろう。

 サーザイトは少し考えたがまるでわからず、茶に口をつけて間を取り持つ。



「『先生、私達も頑張らないといけませんの』」

「もちろんだ。ところでそれはそうと、やっぱりお前、ついてくるのか?」

「『ついていってはいけませんの?』」

「別にそういうわけじゃないんだが……」



 ユユは年齢的には幼いとはいえ、実力だけなら超一流。

 一緒にいてくれれば色々と心強い。

 たとえ、



「可愛い娘さんですね。大切にしてあげてくださいよ」



 ……などという誤解をされても、お釣りがくるというものだ。

 非常に複雑な気分になることは変わりないが。

 カップに残っていた分を一気に飲み干す。

 舌に感じた苦味に、サーザイトは眉間にしわを寄せた。

 鉄の味よりは遥かにマシだろう。

 サーザイトが席を立つのを見て、ユユもゆらりと危なっかしく、杖に手をかけて立ち上がる。



「それじゃ、行くか。まずは勘を取り戻すために依頼をこなしてこなして、こなしまくる。気張れよ、ユユ」

「クス……『はいですの。出血大サービスですの』」

「いや、出血はいらんぞ」



 二人は喧騒の中へ歩き出した。

 サーザイト、ユユ、互いに冒険の目的は違う。

 サーザイトは、安息の場所を探すため。

 ユユは、自分の力の使い方を見出すため。

 異なる目的を持つ二人の関係は、呼び方はどうであれ、今は先生と生徒ではない。

 仲間だ。



「しばらく依頼をこなしたら……エンジェレットの顔でも見に行くか」

「クス……『はいですの』」



 危険なことも苦しいことも待っているだろう。

 冒険なのだから、それが当然。

 それでも楽しく思えてくるのは、仲間がいるからなのだろう。

 こんな冒険も、悪くはない。

 知らずの内にサーザイトは笑みを浮かべていた。

 それを盗み見て、穏やかにユユが微笑んでから



「……もう」



 不意に悔しそうな声を漏らしたことにも、気付かずに。