第二十九話「帰るべき場所」
家に戻ると、そろそろ皆が戻ってくる頃だと思っていたのか、エリスが食事の支度をしていた。
「おかえりなさい。すぐ食べられるから、席について待っててね」
大きなテーブルの周りに、イリスの弟達も大人しく座っている。
静かに待てない子はご飯抜きですよ、とでもエリスに言われているのだろう。
イリスに促されて先に席についたククルーの隣にイリス、その隣にカテリナが座る。
「あー腹減った腹減った。飯はまだかー」
「まだかー」
「だかー」
「かー」
先ほどまでの覇気はどこへやら、カテリナがテーブルに突っ伏して言った。
それに呼応して、イリスの弟の下から数えて三人目までがその語尾を続ける。
どうやら起き掛けなので、昨夜のようなパワーはまだないらしい。
しばらくしてエリスが料理を持って部屋の奥の台所から出てきた。
「みんな、お待たせ。順に取り分けて食べて頂戴ね」
山盛りのマッシュポテトが盛られた、直径が一メートルはあろうかという大きな器をエリスはテーブルにズドン! と置いた。
ククルーの身長より高いポテトを、ククルーは座ったまま思わず見上げてしまう。
それは、山、と表現するのがぴったりだ。
ちょっと見ただけでも、かなりの高さである。
当然、重量は相当なものになるだろう、とてもククルーでは動かせそうにない。
これを持ってきたエリスは、流石イリスの姉と言うべきか、なかなかの腕力の持ち主のようだ。
そんなことをククルーが思っている間に、ポテトはイリスの弟達によって、既に一角が崩され始めていた。
「山の中腹から食ってんじゃねえよガキども。崩れちまうだろうが」
カテリナはそう言いながら、テーブルに片足を引っ掛けて悠々と山の頂上を自分の皿にたっぷりと載せていた。
なんとも男らしい有様である。
「うおおおおお! カテリナさんっ、男らしいっす!」
イリスの弟達の中で、一番背の高い長男がそれを目を輝かせて眺めている。
その隣、同じくらい背の高い次男が、「静かに食べろ」と冷たく言い放った。
その二人が口論になりかかったのを、エリスと大人しそうな弟がなだめる。
性格はてんでばらばらのようだが、仲裁の上手いのが一人二人いて、上手い具合に均衡が保てているようだった。
「ねえクーちゃん、料理取ろうか?」
イリスの声で、ククルーは自分がまだ何も食べていないことに気付いた。
「……お願い」
とてもではないが、今まで経験したどの戦場よりも、この食卓はククルーにとっては険しい。
ここはイリスに任せた方が良さそうだった。
「はい、どうぞっ」
「……ありがとう」
イリスは、少しはにかみながら笑顔を作る。
「別にいいよ。友達だもん。それよりごめんね。騒がしくって。クーちゃん、こういうのあんまり得意じゃなかったよね」
「……」
確かにその通りだ。
騒がしい場所より、静かな場所の方が好き。
その方が趣味である読書に集中出来るし、心も落ち着く。
しかし、ククルーは微かに首を横に振った。
「……賑やかで、楽しいよ。皆仲良さそうで……団欒っていいなって、そう思う」
「あ、あはは、そっかな、そっかな」
頬を赤らめたイリスは、恥ずかしそうにククルーから視線をそらした。
「それじゃ、クーちゃんもどこかで家族に顔見せてあげられるといいねっ」
「……そうだね」
「その時には、私もついていっていいかなっ?」
ククルーはゆっくり頷いて、言った。
「……その時が来れば」
イリスの顔が一段と輝く。
「クーちゃんのご家族さんかー。楽しみっ」
「……」
ご機嫌なイリスとは対照的に、ククルーの表情は曇るばかりだった。
ククルーには、もう故郷などない。
家族も死んでしまっている。
大好きなイリスが隣で笑ってくれているのに、ククルーは胸が締め付けられるのを感じた。
イリスは、自分にとって初めて胸を張って友達と言える人だ。
自分の過去を話したら、きっとイリスは自分以上に悲しんでくれるだろう、涙を流してくれるだろう。
けれど、そんなことをククルーは望んでいない。
彼女には、いつも笑っていてほしい。
イリスを騙しているようで心が痛んだが、それでイリスが笑顔でいてくれるならそれでいいと思った。
「……イリス」
「なに、クーちゃん?」
「……笑って」
「え? う、うん」
いざ「笑え」と言われるとよくわからないのか、イリスはぎこちなく白い歯を見せた。
普段の笑顔に比べると数段おかしなものだったが、ククルーは満足だった。
一瞬ではあるけれど、それは確かに自分だけに向けられたものだったから。
ククルーは滅多に見せない柔らかい笑顔を浮かべた。
「……ありがとう、イリス」
食事を終えた後、ククルーは自分に割り当てられた部屋へ戻って、そのベッドの上に座っていた。
ククルーは、イリスの部屋でいいと言ったのだが、「こちらのわがままのようなものだから」とエリスに言われて、
半ば強引に押し切られてしまったのだった。
昨日ククルーがイリスの部屋で夜を過ごしたのは、連絡もなしに二人が夜に帰ってきたので、
部屋の用意が間に合わなかったからなの、とエリスは申し訳なさそうに言っていた。
そんなに気をつかってくれなくてもいいのに、とククルーは思う。
友人とはいえ客、ということなのだろうか。
「……」
ごろん、とククルーはベッドの上に寝そべって、天井を見つめた。
木の板が張られていて、その木目の一本一本をじっと見る。
特にやることもなく、退屈で静かな時間。
そんな時間を過ごすのは慣れている。
ククルーは体を起こすと、自分の荷物を入れている鞄から本を取り出した。
イリスに出会うまでは、一人静かに本を読んでいる時間が一日のほとんどを占めていた。
彼女が今取り出したのは、彼女にしては珍しく魔道書や専門書の類ではないごく普通の物語である。
なぜ彼女がそんなものを持っているのかというと、話は簡単だ。
結論から言えば、その本はユユから貰い受けたものだった。
卒業旅行の二日目に、ユユに「恋とはなんなのか」という問いをぶつけた際、
ユユは「人に教えられるものではない」と言った。
だがその後、マリンに戻ってから、ユユはククルーにこの本を差し出して、こう言ったのだ。
『これを読めば、少しは恋というものがわかるかもしれませんの』
ユユのその言葉を信じて、ククルーは本を開いた。
どうやらジャンルは異世界ファンタジーのようだ。
普通の女の子が、普通の男の子と出会い、好きになり、という話。
友情を育みながら、つかの間の共有された日々を営む少年少女の物語といった感じだった。
ククルーは本を読みながら、ふと思う。
自分は、決して普通の女の子ではない。
この世界にはモンスターもいれば魔法もある。
なかなかこの本の中の世界のように、平穏で穏やかな生活を送るのは難しい。
それでも、誰かを好きになるということは、変わらない。
自分だけを見ていてほしいと思うのは、同じ。
そういうことらしい。
ククルーは、自分の頭をこつんと軽く叩いた。
好きなら、好き。
それだけの認識で十分だと、そう思いはする。
しかし考えれば考えるほど、それは複雑な問題のようにも思えてくる。
イリスのことは、大好きだ。
一時は考えの違いからすれ違ってしまったエンジェレットとも今ではもっと親しくしたいと思う。
何を考えているのかわからないことも多いが、何かと面倒を見てくれたユユもそれは同じ。
彼女たちと同じくらい、サーザイトのことも好きだ。
ただユユが言うには、そのサーザイトを好きな気持ちのことを恋と呼ぶらしい。
頭がいい、博識などと言われてはきたが、そういったことは自分には全くわからない。
ああ、そうだ、今度イリスにも聞いてみたらいいのかもしれない。
彼女だって女の子なのだし、何より彼女は自分の友人なのだから。
そんなことを考えていると、不意に部屋の戸が強く叩かれた。
「……どうぞ」
本から目を話さずに来客を迎える。
自分を訪ねてきそうな人といえば、イリスくらいしか思い当たらなかったからだ。
「よ。ちと邪魔するぜ」
だがその予想とは違い、顔を見せたのはカテリナだった。
視線をあげてその姿を確認してから、ククルーは本に栞を挟む。
「今、少しいいか?」
無言で頷くと、カテリナは無遠慮にククルーの隣に腰を下ろした。
かと思うと、ぼふっと勢い良く布団に体を横たえ、足を組んでみたりしている。
何の用だろう、とククルーは無表情の裏で思う。
その視線に気付いたカテリナは困ったような顔で頬を掻いて、
「そんな何しに来たんだこいつって目で見ないでくれ」
「……ごめんなさい」
「まあ、気持ちはわかるぜ。出会って間も無い奴が急に来たら、俺なら警戒する。
でもあいつ、イリスは初対面でも結構無防備なんだよな。ただでさえ考え無しで無鉄砲なのに」
ククルーも、その言葉を否定は出来なかった。
思えば、以前ヴェノム洞穴で宝箱の罠にかかったときも、
サーザイトの言葉を待たずにイリスが宝箱を開けてしまったのが原因だ。
口にしたりはしないが、それくらいはククルーだって思っている。
「だからさ、お前さんがイリスを守ってやってくれ」
「……守る?」
「戦闘じゃイリスが守る側なんだろうが、それ以外のことでな。世の中には悪い奴ってのはいくらでもいて、
そいつらは四六時中誰かを騙したり欺いたりすることばっかり考えてやがる」
カテリナは傭兵としてもう何年も各地を転々としている。
その中で色々な人間と出会ってきた彼女の言葉の節々には実感が滲んでいた。
真剣な顔をしてカテリナはククルーをじっと見つめる。
「あいつ……イリスももうガキじゃない。いや、まあ、ガキなんだけど。オレにおんぶに抱っこって歳じゃない。
だけどやっぱり心配なもんは心配なんだ。昔はあいつに何かあればオレが守ってやれた。
でもこれからはそうもいかねえ。オレにもオレのやりたいことがあって、ずっとあいつの傍になんていてやれない。
その点、お前さん……ククルーはそうじゃないだろ?」
ククルーはカテリナの視線を真正面に見据えたまま、しっかりとした口調で言った。
「……イリスは、大切な友達ですから」
それを聞き、カテリナは満足そうな顔をする。
「そいつを聞いて安心したよ。いや、別にククルーを疑ってたってわけじゃねえんだ。ただ……」
「いいんです」
と、ククルーはカテリナの言葉を遮るように言葉を発した。
僅かに目が伏せられ、その表情からはほのかに淋しさが見える。
「大切な人が心配なのに、自分が傍にいてあげられない。それでも出来る限りのことをしてあげたい。
そんな気持ちは……私にもわかる、気がします。だからいいんです。
ただ、そんな風に思ってくれる人がいて、イリスが羨ましい……少しだけ、そう思うだけです」
いや、多分自分の心配をしてくれる人はいる。
イリスやサーザイト、エンジェレットやユユは少なからず自分のことを気にかけてくれているだろう。
それなのに、ふとした拍子に淋しさを感じてしまうのは、ここがイリスの故郷だからだろうか。
自分の故郷――帰るべき場所ではないからなのだろうか。
ほんの一瞬部屋に沈黙が舞い降りたかと思うと、唐突にカテリナが膝を叩いて明るい声を上げる。
「わかったわかった! 俺の方がずっと年上なのに、一方的に頼み込んだりするのも良くないよな」
「……?」
「よしっ」
カテリナはククルーの手を取ると、そのまま強く自分の方へと引き寄せた。
その力は強く、ほとんど抵抗無しにククルーの身体はカテリナの腕の中へ収まる。
きょとんとしながらカテリナを見上げると、そこにはあっけらかんとした笑顔があった。
「おいククルー。俺は今からお前のお姉ちゃんな」
「……え」
「ほら、お姉ちゃんって言ってみ?」
「カテリナさん……?」
「違う、お姉ちゃんだ」
「……お、ね」
ふと冷静になると、唐突に恥ずかしさが追いついてきて、その言葉を言う瞬間首を下げる。
それでもカテリナの耳には届いたのか、カテリナは嬉しそうに笑いながらククルーの背中をばんばんと叩いた。
少しだけ痛かったが、ククルーは何も言わずにじっとしていた。
「ククルー、何かあったら俺を頼れ。イリスにお前がくっついてきたって、労力としては変わんねえ。
それにこれで俺とお前は義理とはいえ姉妹なわけだ。姉が妹を守るのに理由なんていらねえ、そうだろ?
お前がイリスを守るのに理由が必要ないのと同じでな」
「……」
ククルーは小さく頷き、そのまましばらく顔を上げようとしなかった。
じわりと込み上げてきた感情が目から溢れ出しそうになったのを、カテリナに見られたくなかったからだ。
確かに自分には故郷はないかもしれない。
だけど、何も帰るべき場所は故郷だけじゃない。
きっとここのように、自分を暖かく受け入れてくれるところはきっとある。
そう思った拍子に、まだ半開きだった感情の扉から、今まで溜めていたものが堰を切ったように流れ出した。
自分の様子に、カテリナは気付いていただろう。
それでも何も言わずに抱きしめてくれることに感謝しながら、
ククルーは頭の片隅で、「この人の性格なら、お姉ちゃんというよりは、むしろお兄ちゃん」なんてことを思っていた。