第二十八話「イリスの特訓」


 朝。

 ククルーは、窓の外から聞こえてくる小鳥のさえずりに起こされた。

 むくりと身体を起こすが、まだ頭が起きてこない。

 元々ククルーは低血圧で、朝には滅法弱いのだ。

 そのままの状態で、しばらくぼんやりとする。

 朝の光が目に眩しく、なかなか瞼が持ち上がらない。

 青く透き通った髪もところどころはねていて、普段の利発そうな面影は見当たらなかった。

 寝ぼけ半分のままなんとかベッドから起き上がり、覚束ない手つきで着替えを始める。

 ククルーの寝起きはかなり悪く、着替えには十分ほどかかった。

 部屋を出ようとすると、目測をあやまって扉の角に額をぶつけてしまう。

 ちょうどそこを通りかかったエリスが、それを見て目を丸くした。



「ククルーちゃん、大丈夫?」

「……だいじょぶ。おあよ、ござまふ」



 瞼が半分ほどしか開いておらず、呂律は舌足らずとすら言えないほど回っていない。

 エリスは思わずククルーから顔を背けて口を押さえた。

 噴出しそうになったのを堪えたのだった。

 肩をぷるぷると震わせながら、エリスは何とか愛想笑いを浮かべて、



「まだ眠たそうね。顔を洗うといいわ。ついてきて」



 エリスに連れられて外へ出る。

 外の空気は、まだ微かに夜の名残を残す冷たさを感じさせる。

 外の明るさのため目が全く開けられないククルーは、エリスに手を引かれながら、村の中央までやってきた。

 そこには村の水源である大きな井戸があった。

 エリスが汲み上げてくれた水を手ですくい取り、顔を洗う。

 ふるふると首を振ると、前髪の先についた水滴が飛んだ。

 同時に、眠気もいくらか飛んだ気がする。

 と、目の前にタオルが差し出され、顔を上げる。



「ククルーちゃん、朝は弱いのね」

「……はい」



 何となく気恥ずかしさを覚えながら、タオルを受け取った。

 乾いた布の香りは、何だか心を落ち着かせてくれる。

 その香りを少しの間楽しんでいると、ふとどこかでキンと硬い音が聞こえた。

 常人なら聞き逃してしまいそうな小さな音。

 ククルーは、その音を何度か聞いたことがある。

 金属と金属が触れ合っている音――それは戦場でよく耳にする音だ。



「どうかしたの?」



 ぼーっとしていたククルーを心配したのか、エリスが声をかける。

 ククルーは少し躊躇ってから、口を開いた。



「誰かが、戦ってる」

「戦ってる?」

「剣を打ち付け合ってるような音が聞こえた」

「ククルーちゃん、その音って、向こうから聞こえて来ない?」



 ククルーの眉がぴくんと動いた。

 その金属音は、エリスの示した方角から確かに聞こえてくる。

 ククルーは頷いてから、目で説明を求めた。



「イリスとカテリナが剣の特訓をしてるの。今から一時間くらい前だったかしら?

カテリナがイリスを起こしに来てね。久し振りに稽古をつけてやるーって、張り切ってた」



 言われてみれば、イリスと同じ部屋で寝ていたはずなのに、起きたとき隣にイリスはいなかったように思う。

 エリスは何だかとても楽しそうで、ククルーもつられて顔をほころばせた。

 イリスの故郷に来てから、彼女の表情は彼女が気付かない内に、クエスターズにいた頃よりも柔らかくなっていた。

 だが、それに気付く者は誰もいない。

 クエスターズで知り合って以来、ずっと一緒だったイリスですら気付いていないのだった。

 なぜなら、イリスはククルーの過去を知らない。

 ククルーは、イリスが大好きだ。

 特に、笑っているイリスを見ていると、自分まで嬉しい気持ちになる。

 そんな彼女の顔を、少しでも曇らせたくなくて、ククルーはイリスには自分の過去を話していないのだった。



「朝ご飯すぐに食べられるけど、ククルーちゃんもう食べる?」

「……いい。イリスと一緒に食べたいから」



 タオルを返す。

 頭もようやく冴えてきて、ククルーの目がぱっちりと開く。



「……イリスの様子を見てきます。ありがとうございました」

「どういたしまして」



 エリスにぺこりとお辞儀をしてから、ククルーは金属音の聞こえる方へ向かった。

 音は今も止んでいない。

 そろそろ町の外の森に入ってしまうというところで、ククルーは二人の姿を見つけた。

 イリスはいつもの大剣を振り回していて、それを受けるカテリナは両の手にナックルを着けている。

 振り下ろされた一撃をカテリナが直接受け止めたのを見て、ククルーは驚きの余り目を疑った。

 イリスの一撃を直接受けたりしたら、そのまま叩き斬られてしまうはずだ。

 だが、カテリナは完全に手で受けていた。

 よく見ると、受け止めた両の手に青白く光る膜のようなものが見える。

 それがイリスの剣を押し留めていた。

 イリスは一度剣を引き、横に構え直したところで、



「……あれっ? あ、クーちゃんっ」



 ちょうど後ろに立つ形になっていたククルーに気が付いて、振り返った。



「……あ、イリス、ま」



 え、と言おうとしたククルーだったが、間に合わなかった。

 イリスが振り返ったと同時に、カテリナがイリスとの距離を一気に詰めていた。

 前を向いた瞬間に掌が迫っていて、イリスは防御行動も取ることが出来ない

 ズドン! と凄まじい轟音。

 一瞬にしてイリスの体は宙を舞い、十メートル以上も吹き飛ばされた。

 べしゃりと地面に叩きつけられ、あうあうと声を漏らしながら、イリスは目を回している。



「か、カテリナさん……今のはひどいよ……」



 しかし、カテリナは聞く耳持たずといった感じで、



「ひどいだあ? 気を抜いて戦闘中に余所見したお前が悪いだろうが。それとも何か。

お前は戦いの最中に敵に向かって『余所見をしてる時は攻撃しないでください』とでも言うつもりか?

本番のための訓練なんだから、当然そんなわけねえ。そもそも本番だったら、お前今ので死んでるぜ」

「あ、あう……ごめんなさい」

「それと、太刀筋が素直過ぎるって何度言ったら理解すんだよ。相手が雑魚ならそれでもいいかもしれねぇけど、

そうじゃなかったらお前なんてただの力馬鹿だぜ? お前程度の剣速じゃ、簡単に見切られちまう。

はっきり言わせてもらうけどな、当たりもしない攻撃なんて、百回やろうが二百回やろうが無駄。

まるで無駄。てんで無駄。完全に無駄。どうしようもなく無駄」

「ううう、無駄って言い過ぎ……」

「口答えをするのは、一発でもオレに打ち込んでからにしな」



 イリスはぴょんと立ち上がって、再びカテリナに向かっていく。

 大剣はかなりの速度で回っているが、それでもその切っ先はカテリナに触れてすらいない。

 誇張などではなく、本当にイリスの太刀筋を完全に見切っているのだろう。

 ククルーの目にはイリスの剣ですら目にも留まらない速さに見えるが、魔法使いであるククルーには、それも仕方の無いことだ。

 戦士には戦士の、魔法使いには魔法使いの戦い方がある。

 言うまでもなく、イリスとククルーを比べたら、接近戦ではイリス、中距離から遠距離ではククルーに軍配が上がる。

 では、どちらの方が戦闘能力が上かというと、即答できるものではない。

 そもそも、タイプが違うのだから。

 互いに長所もあれば短所もある。

 だからこそ、短所を補い合うと同時に長所を生かし合うことで、二人は実力以上の力を出すことが出来るのだ。

 だが――



「てやっ!」

「攻撃が単調過ぎる! そんなんで当たると本気で思ってるのか!」



 水平に薙いだ一撃を簡単にいなされる。

 勢いを殺さぬままその場で回転し、再び大剣を振ったが、またもカテリナは掌でそれを受け止めた。

 イリスは腕に力を込めて押し切ろうとするが、全くびくともしない。

 そうしている内に剣を弾き飛ばされ、衝撃でイリスもその場に尻餅をついた。

 カテリナが呆れたような口調で、



「だから、力任せだけじゃだめだって言ってんだろうが」

「……はい」



 イリスだって、薄々気付いてはいたのだ。

 そう、クエスターズでサーザイトと戦ったときに、ふと気付かされたこと。

 自分の力は強い、並みの相手なら、きっと勝てるという自信はある。

 だが、自分より力が強く、自分より速い相手の前では、自分は無力だ。

 そうとわかっていたから、カテリナが稽古をつけてくれるというのは都合が良かった。

 彼女は世界各地を回って旅をしている腕のいい傭兵で、その力はイリスが知っている者の中では一番である。

 力強さの中に確かな技を持つその戦闘スタイルは、イリスが憧れるエンジェレットと似通った部分があった。



「聞け、イリス」

「はいっ」

「お前は、もっとずるくなれ」

「ずるく……ですかっ?」



 カテリナは深く頷いた。



「根が正直なのはいい。そんなお前は見ていて気持ちがいいし、オレはそういう奴は大好きだ。

だが、戦闘じゃそんなもんは相手に利するだけだ。もっと相手の裏をかくようにしろ。

剣士のくせにフェイントの一つも入れないなんて、そんな戦い方、格下相手にしか通用しないぜ」



 実際、以前それでサーザイトに敗北したイリスには、耳の痛い言葉だった。



「二年前にも言っただろ? せっかく気功の才能があるんだから戦闘に生かせるようにしろって。

お前のその怪力は、お前の身体を巡ってる気が肉体強化の効果をもたらしてくれてるからだ。

それだけでかい力なら、オレみたいに防御はもちろん、気そのものを放出して攻撃することも出来るはずだぜ?」

「そんなこと言われても、気なんて一度も出したことないからわかんないですっ」

「元気良く言うんじゃない! ……本当に出したことないのか?」



 今度は、イリスが頷く番だった。

 カテリナは唇に指先を当ててなにやら考え込んだかと思うと、にかっと白い歯を見せて笑った。



「ま、お前に気功の才能があるのは事実だ。そこんとこはオレが保証してやるよ。

そうだな……多分、何かきっかけがあれば、気功なんてすぐ使えるようになるぜ。

魔法なんかと違って、精神力とか集中力で操るだけじゃないから、お前でも大丈夫だ」

「なんかバカにされてるようなっ……精神力とか集中力じゃないなら、どうやって制御するんですか?」

「ん? んー、まあ、意志の力とでもいうかな。感情の波とか。わかりやすく言うと、その気というか……」



 イリスはぴょんと立ち上がって、にぱっと笑った。



「早く気功使えるようになりたいなっ! そうすれば、今よりもっと強くなれるんですよねっ?」

「もちろんだ。ま、焦るこたねぇよ。出来れば自分らより強い奴にぶち当たるまでに使えるようになってりゃ文句無しさ」



 さて、とカテリナは一瞬ククルーの方を見てから言った。



「あんまり待たせるのも悪いし、今日はこれで終わりな」

「ありがとうございましたっ!」



 イリスがぺこっと深く頭を下げる。

 その頭を掴み、ぐりぐりと押さえ込みながら、カテリナは言った。



「さあ飯だ飯。とっとと戻るぜ。何をするにしても、まずは飯を食わないとな」

「ごっはんごはん〜」



 つい先ほどまで実戦訓練をやっていたとは思えないほどカテリナの表情は、今は柔らかい。

 彼女は傭兵をやっているからだろうか、その辺りの切り替えは流石である。

 イリスも、そんなカテリナのことを実の姉であるエリスと同じくらい慕っているようで、

 カテリナの周りをくるくると回りながら、相変わらずの明るい笑顔を振り撒いていた。



「……」



 そんな風に楽しそうにしている二人を見て、なんとなく疎外感を覚えたククルーだったが、



「クーちゃんっ、一緒に行こうよっ」

「……ん」



 イリスに手を差し伸べられると、そんなものはどこかへ行ってしまった。

 やはり自分にとっては、この友人の笑顔と温もりは何物にも代え難い。

 ささやかながら、ククルーはそのことを再確認したりしていた。