第二十六話「決意」



 穏やかな眠りを害されること以上に腹立たしく感じることはなかなかない。

 特にこの男、アークウィルにとってはそうだった。

 頭から布団を被るが、どうも外の方が騒がしい。

 すぐに寝付けそうもないので、頭だけを外に出して窓の方へ顔を伸ばす。



「ああうるさいうるさい寝られやしない……ぶぺっ」



 芋虫のように布団にくるまってごろごろとしていたが、勢いあまってベッドの下へ落ちる。

 身体をよじり、簀巻きになったまま壁にもたれかかってなんとか立ち上がると、

 ベッドのすぐ横の棚の上に置かれていたベルを軽く鳴らした。

 ほどなくして、部屋の扉が軽くノックされる。



「失礼致します。おはようございます、アークウィル様」



 やってきたのは、執事服に身を包んだ銀の髪の美しい人物だった。

 顔立ちは整っているがやや童顔で、中性的な印象を受ける。

 その人はアークウィルの姿を見ると、ぱっちりと開いた目を微かにひそめた。



「何をなさっているのですか?」

「布団に包まっている。どんな魔法武具の効力もこの布団の魔力には勝てない……ウィル、お前もそう思うだろう?」

「私は睡眠よりも務めに励むことに重きを置いておりますので、いささか同意しかねるところです」

「なんだ、つれないな」



 不満そうな声を上げるアークウィルから布団を引き剥がしながら、ウィルと呼ばれたその人は微かに首を傾げて、



「ところで、私をお呼びになったのはどのようなご用件でしょうか?」

「ああ、そうそれだ。このうるさいのは何なんだ? どうも街の方が騒がしいみたいだが」



 淡々とした口調でウィルは答えた。



「妹様がお帰りになられたのです」

「あいつが?」



 眠気に押さえつけられていた瞼が、ぐっと持ち上がった。



「もうそろそろご到着なさるそうです。お父上が久し振りに家族全員で朝食にしようと仰っていましたが、いかが致しますか」

「あの面子で朝食なんて食べたくない。でも、妹の顔を一目見ておこうか」



 そう言って、アークウィルは寝巻き代わりのシャツをベッドの上に脱ぎ捨てた。

 ウィルは平静を保ちつつそれを手に取り、アークウィルに替えの服を差し出す。

 アークウィルはあっという間に着替えを終わらせると、欠伸を一つ噛み殺した。

 目が覚めてきたのか、その目は鋭い光を放っていた。



「行くぞ、ウィル」

「はい、アークウィル様」



 扉を開いてアークウィルを先に行かせてから、続いてウィルが部屋を出る。

 広い廊下に敷かれた赤い絨毯の上を歩いていくと、大きな扉が見えた。

 二つの剣を象った紋章のついた立派な作りの装飾がついている。

 ウィルは先ほどと同じように扉を開き、アークウィルを先に通した。



「おお、ようやく来たかアーク。待ちくたびれたぞ」



 入ってきたアークウィルを見るなり、大きな椅子に腰掛けていた初老の男性が豪快に笑って言った。

 彼の名はゼルディス。

 アークウィルの父である。

 その前に、アークウィルに冷たい視線を投げかけている少女が立っていた。



「……お久し振りですわ、お兄様」



 一目見た限りでは、一年と少し前に別れた頃と変わった様子はない。

 この一年で、彼女はどの程度成長したのだろうか。

 アークウィルは、一年振りに会う妹に向かって微笑んだ。



「久し振りだな、エンジェ」



 彼の名は、アークウィル・エヴァーグリーン。

 トーワ王国王子にして、エンジェレット・エヴァーグリーンの実の兄である。

 彼の友好的な態度に対し、エンジェレットはまるで親の仇を見つめるような鋭い眼光を放っていた。

 その拳が、微かに震えている。

 それに気付いたアークウィルは、ほんの僅かに目を細めた。



「クエスターズはどうだったかな、弱虫エンジェ。少しは強くなったのか?」

「ええ、おかげ様で」

「そうか。それは楽しみだな。それじゃどの程度強くなったのか、今度この兄に見せてくれ」



 エンジェレットは眉間にしわを寄せ、唇を噛んだ。

 アークウィルは失笑して、



「冗談だ。実力の証明は、どうせ親父の方から何かしら言われるだろうからな。精進しろよ」



 それだけ言うと、アークウィルとウィルの二人は、その場を後にしてしまった。

 何も言わずに立っていただけのエンジェレットに、その父であるゼルディスは声をかける。



「何も言い返せんか、エンジェレット」

「……」



 ゼルディスは苦笑して、エンジェレットに明るく声をかけた。



「そう気を落とすでないぞ。お前は確かに戦闘民族エヴァーの長い歴史の中では、天才的な資質を持っている」

「……」

「ただ、お前の兄アークウィル……奴が単にお前以上の天才、それだけのことだ」

「お父様にそんなことを言われなくてもわかっていますわ」



 エンジェレットは、自身の少女時代を思い出した。

 幼い頃、確かまだ五歳ほどの頃から父に連れられて戦場を駆け巡っていた日々。

 戦闘訓練も、一日と欠かさずこなすことを義務付けられていた自分は、

 めきめきとその頭角を露にし、八歳になる頃には魔物の討伐に単身参加することもあった。

 十歳になった頃には、気の使い方をほぼマスターした。

 ある程度自分の実力に自信を持ってくるようになると、兄はどのくらい強いのか気になり始めた。

 父とはよく戦場に出ていた自分だったが、兄はなぜか戦場では見かけなかった。

 それもそのはずで、当時兄は人に仇名す凶悪な魔物を倒すために度々遠征に出ていたのだ。

 兄の遠征に自分が同行を許されたのは、十二歳になってからのこと。

 ある魔術師が別次元へのゲートを開いたことがきっかけで異常発生した魔物を討伐に行った時のことだ。

 その時のことを思い出すと、今でも身体の震えが止まらなくなる。

 数多の戦場を経験した自分が、唯一恐怖を感じた日。

 恐ろしい相手、自分より強い相手も、山ほど見てきた。

 その日目にした魔物達は、今まで自分が見てきた魔物よりもずっと強い力を持っていたが、恐ろしいとまでは思わなかった。

 それよりも自分が恐ろしいと思ったのは、その魔物達を塵のように虐殺していった兄の姿だった。

 血飛沫と断末魔の響く中を駆ける兄は、返り血を浴びながらも表情一つ変えなかった。

 呼吸をするのと同じくらい自然に命を奪っていく兄に、自分は生まれて初めて恐怖を感じさせられた。

 それ以来、兄は自分のことを「弱虫」と言ってからかうようになったが、反論する気になれなかった。

 兄の姿を見て、ただ震えるだけだった自分など、確かに兄の目からはそうとしか映らなかっただろうから。



「さて、エンジェ。久し振りに帰ってきて立ち話もなんだ。積もる話もあるだろう、朝食の席で話そうではないか」

「そうですわね」











 エンジェレットとゼルディスは、城の食堂にやってきた。

 食堂には、五十人ほどが座れそうな長いテーブルが一つ置かれている。

 その端に二人が腰掛けると、既に用意されていたのか次々と料理が運び込まれた。

 久し振りの故郷の味に、エンジェレットはしばし舌鼓を打つ。

 食べなれた味を楽しみながら、彼女は父と談笑にふけった。



「クエスターズはどうだった?」

「最初はこんな程度かと思いましたけれど、なかなか面白いところでしたわ。友人も出来ましたし」

「友人か。それはいい。私もかつては良き友人と切磋琢磨して腕を磨いたものだ」



 ゼルディスは立派なあごひげを撫でながら、どこか懐かしそうな遠い目をした。

 尊敬している父にも、昔は自分と同じような頃があったのだと思うと、エンジェレットは嬉しくなる。

 と、ゼルディスは料理に口をつけながら、



「まあ、よく帰ってきた。帰ってきていきなりでなんだが、国民にお前の実力を示してやる必要がある。

お前もよく知っているように、我らエヴァーの民は実力至上主義だ。力が無くては皆を統べる王族たる資格なし」

「心得ていますわ」



 娘の頼もしい言葉に、ゼルディスは満足そうに頷いた。



「近いうちにお前に任を与える。それまではゆっくりと羽を伸ばすといい」

「わかりましたわ」



 エンジェレットは頷いてから、ふと思った。

 その任務が終わったら、お父様にお願いしてみよう。

 少し長い間、今度は自由に各地を回ってみたい、と。

 トーワ王国の姫君としてではなく、ただのエンジェレット・エヴァーグリーンとして旅をしてみたい、と。

 一月前までの自分なら、そんなことを思うことはなかっただろう。

 そう考えるようになったきっかけはなんだろうと考えると、一人の男性の姿が思い浮かんだ。

 サーザイト・ルーヴェイン。

 不思議な男だった。

 腕が立つようには見えないのに、実際は自分を上回る腕前を持っている戦士。

 そのくたびれた印象からは、どこか生きること自体に疲れていたかのような感じを受けた。

 彼は、以前パートナーを亡くしたと言っていた。

 彼の様子から見ても、恐らくそれが原因なのだろう、とエンジェレットは思う。

 戦場で戦友を失うのは仕方の無いことだ。

 悲しいことではあるが、いちいち悲しんでなんていられない――少し前までなら、そう言い切ることも出来た。

 しかし、イリスが、ククルーが……ユユがもし倒れたら。

 そう考えると、胸の痛みを感じる。



(何があっても、私の友人達は私が守る。今の私がまだ弱くても、それくらいには強くなりたいものですわ)



 物言わぬ中で、エンジェレットは密かにそう思った。











「アークウィル様」



 部屋に戻ると、ウィルはアークウィルに声をかけた。

 彼が自分から声をかけてくるのは、比較的珍しいことである。



「妹様はお強くなられたように感じられましたか?」

「お前はどう思う」



「ここを発つ前に比べるとご成長なされたようですが、まだ私にも遠く及ばないかと」

「正直だな」



 アークウィルは苦笑して言った。

 ウィルははっとした顔になると、慌てて取り繕うように、



「申し訳御座いません。本来ならば、王族の方を持ち上げねばならないかとも思ったのですが、

こういったことを申し上げる際に虚偽を含めるのはいかがなものかと思いましたものですから」

「気にするな。お前も知っての通り、エヴァーの民は実力至上主義だ。そこに世辞はいらん」

「私は……エヴァーの民ではありませんから、理解しかねます」



 微かに声のトーンが下がる。

 しかし、アークウィルは暗い空気を吹き飛ばすような明るい声で、



「実は俺もそうなんだ。強ければ何でも許されるなんて、理不尽だよな。だから俺は、親父は好きじゃない」



 現国王ゼルディスは、歴代の王の中でも稀に見る剛の者だった。

 先代の国王、つまりアークウィルの祖父にあたる人物には、正室側室合わせて十余人もの妾がいて、

 子の数は三十にも上ろうかという数だった。

 だがその子達のほとんどは、皆大人になる前に過酷な訓練によって死んでしまった。

 数十年前までは武器も粗悪なものが多く、また強力な魔物達が多かったこともあり、

 数度の大きな戦いの最中で、彼らは命を散らせていったのである。

 そんな中で生き残ったアークウィルの父ゼルディスは、力に重きを置く武人となっていた。



「ご家族の方とは、仲良くされた方がいいかと思いますが」

「そうは言っても、嫌いなものは嫌いだ。逆に言うと、好きなものは好きなんだが。俺にとってのお前のように」

「そう言っていただけるのは嬉しいことです。ですが、やはりお父様とも、出来れば仲良くされた方がいいです」

「どうしてだ?」

「家族がいない者は、もう仲良くすることが出来ませんから」



 アークウィルは、ふと口をつぐんだ。

 ウィルは、元々は戦災孤児であった。

 それを少年時代のアークウィルが拾い、自らの世話係に任命したのである。

 家族の話をすると、普段は冷静な彼の顔に微かな淋しさが垣間見えることにアークウィルは気付いていた。



「……悪かった。お前の気持ちを考えず、つまらん愚痴を聞かせた」

「いいのです。あなたは、私を拾ってくださったばかりか、私に生きる目的をくれた方です。そのくらいのことはお安い御用ですよ」

「馬鹿者。お前が淋しそうにしてたら、俺が嫌な気分になるんだよ」



 その言葉にウィルは一瞬目を見開いてから、くすっと可笑しそうに笑った。



「初めて会った時も思いましたが、あなたは変わっていますね」

「お前に言われたくはないな」



 アークウィルは少し拗ねたような顔で言った。

 もう十代も終わる頃の歳の彼にしては幼さを感じさせる表情である。

 ウィルはアークウィルの薄紫色の髪に優しくそっと手を通した。



「妹様も、こんな顔のあなたを見たらさぞかし驚かれるでしょうね」

「ん……俺は、お前以外の前でこんな無防備にはならんぞ」

「存じております」



 ウィルは弾むような口調でそう言って、にっこりと微笑む。

 二人の間をしばし柔らかな時間が流れた。



「これからもよろしく頼むぞ」

「御意のままに」