第二十五話「悪夢」



 最初に感じたのは、何かが焼け焦げる臭い。

 次に、青く澄み渡る空にどす黒い煙が幾本も立ち上るのが見えた。

 見渡せば、多くの家屋が焼け崩れ、倒壊している。

 恐らく倒壊した際に逃げ遅れたのだろう、崩れた瓦礫の中から、

 助けを請うかのように血に濡れた腕が、天に向かって突き出ている。

 白い肌が朱に染まっているその様を見て、なぜかそれを綺麗だと思った。

 よく見れば、ところどころで似たような光景が見える。

 それは、まるで花のように見えた。



『……』



 ところどころで、引き潰れた喉から無理矢理絞りだしているような悲鳴が聞こえて来る。

 それを耳にしながら、その男は心底愉快そうに顔を綻ばせていた。

 悲鳴が一つ聞こえるたび、込み上げる悦びに思わず叫び出しそうになる。

 錆びた鉄の臭いが愉快でたまらない。

 干乾びた地面を、男は散歩でもするかのように軽い足取りで歩いていく。

 と、その足が何者かに掴まれ、男は足を止めた。



『う……ぐ……』



 見ると、まだ息があったのだろう、倒壊した瓦礫の下敷きになっていた精悍な顔つきの男が、

 頭と肩から血を流しながらも男を恐ろしい形相で睨み上げていた。

 だが、明らかに瀕死の重傷である。

 その男は、残る体力を振り絞って男の足を掴む手に力を込めながら、



『な、ぜ……お前等は、こんな恐ろしいことを……』



 男は、その男を正面に見据えた。

 そして無言のまま腰に吊るしていた剣に手をかけ、無言で男の掌を何の躊躇いも無く刺し貫く。

 声にならない悲鳴が響くと、男の顔に邪悪な笑みが浮かんだ。

 肉を抉る感触をゆっくり手に馴染ませるように刀身を回しながら、男は世間話でもするかのように、



『愚問だな。お前らは、なぜ畑を耕すのかという質問をされたら怪訝に思うだろう?』

『ぃだ、いぎぎゃあああっっああああっ』



 男は剣を引き抜くと、今度は肩に剣を押し付け、すり潰すように肉を裂いていく。

 グチャリと肌が潰れながら切れて、黒に近い紅色の液体が刀身を彩り始める。



『悲鳴を聞くだけで、全身がぞくぞくしてきちまう。血なんて色も匂いも最高だ。

誰かを蹂躙するってのは、何物にも変え難い快感を俺にもたらしてくれる。理由なんてそれで十分だろう?』

『あ、……悪魔、め……』

「悪魔? ははは! いいなそれ、結構笑えるぜ。感謝の印に、綺麗な花にしてやるよ」



 笑って剣を高々と振り上げると、力任せに男の脳天に叩きつけた。

 ブシャリと形容のし難いおぞましい音と共に、一つの命が消える。

 血と肉を周囲に飛び散らせた男は、まるで大輪の花のように見えた。

 全身に返り血を浴びた男は、足元に転がった二つの眼球をそっと手に取った。

 感触は、思ったよりも固く、ぬめりがある。

 産まれたての卵のような感じだった。

 しばらく男は手の中で転がしていたが、やがて興味を失ったのか、



 びちゃっ



 その内の一つを地面に叩きつけた。

 半分ほど潰れて飛び散る様は、卵という表現がやはり似つかわしかった。

 そして残ったもう一つを思い切り手の中で握り潰す。

 ぐちぐちと気色の悪い音と感触がして、男は身体を震わせた。

 怖気が走ったのでも何でもなく、男が感じたのは歓喜でしかない。

 自分以外の者の命――存在そのものを蹂躙し尽くしてやったという実感に、悦びを感じただけに過ぎない。

 ついに耐え切れなくなったのか、身体をそらせながら男は狂ったように笑った。



『あはは、ははは、ハハハ、ハハ』



 男は、しばらくの間笑い続けた。

 喉が枯れて全く声が出なくなってから、ようやく男は笑うことをやめる。

 何がそんなに楽しいのだろう。

 誰かを蹂躙するのが愉しいとは言っても、何も殺すことはない。

 この男は、恐らく百人が見れば百人が「狂っている」と判断するだろう。

 だが、違う、この男は狂ってなどいない。

 正常な意識で、血を、悲鳴を、愉しいと感じてしまっているのだ。

 通常の人間とは、全く別な感性を持ってしまっている、そう男自身も自覚しているからこそ、

 「悪魔」と呼ばれたとき、男はそのあまりの的確さに笑いをこらえられなかったのだ。



『……よう、久しぶりだな』



 男が、こちらを見て嬉しそうに笑った。

 久し振りとはどういうことだろう、と思う。

 お前なんて知らない。



『ははあ、まだ気付いてやがらないのか、薄情者が。お前が俺を知らないなんてわけないだろ』



 奴の言っている意味がまるでわからない。

 だが、一つだけわかることがあった。

 こいつは、嘘を言っていない。

 なぜかわからないが、それだけはわかる。

 どこかで会ったような気もすれば、初めて会ったような気もする。

 お前は、誰なんだ。



『早く思い出せ。それから、選べ』



 選ぶ……?



『従え、或いは抗え。安心しろ、どちらにしても、俺がちゃんとお前を殺してやる』



 その言葉を最後に、一気に世界が遠くなっていくのを感じた。

 空が歪み、大地が歪み、男の姿もおぼろげに掻き消えていく。

 その瞬間だった。



 俺は……あの男を知っている!



 唐突に、そう心の中で確信が持てた。

 なぜ一目で気付くことが出来なかったのだろう。

 海の底に落ちていくような感覚を感じながら、もう見えなくなった男に向かって力の限り叫んだ。



 俺は、お前を知っている。

 だって、お前は――











 目を覚ますと、まだ日も昇り切らない時間だった。

 全身が汗に濡れていて、上着が肌にぴったりと貼り付いている。

 朝の空気は身体を冷やしてくるが、身体は妙に熱を感じていた。



「夢……か」



 サーザイトはぽつりと呟くと、何度か深呼吸をして呼吸を整えた。

 ある程度落ち着いてから、今の夢を思い返す。

 夢にしては、妙に現実感の強い夢だった。

 まるで、実際に自分が体験したことがあるような、そんな気すら思わせる。

 もちろん、そんなことがあるはずがない。

 人間を相手にしたことがないわけではないが、あのような極悪非道な所業に手を染めたことなど、一度たりとてない。



(しかし、ただの悪い夢と切って捨てるには、妙に引っ掛かる。それに……)



 夢の中に出てきたあの男。

 あの男を、自分は知っている。

 だが、いくら考えても、あの男が誰なのか、もう思い出せなくなっていた。

 夢の中では、確かに自分はあの男の名前を呼んだはずなのに。

 目覚めが悪かったが、目も覚めてしまったのでサーザイトはベッドから起き上がった。

 ひとまず汗を拭こうと、タオルに手を伸ばす。

 新生活初日だというのに悪夢を見るなんてどうも幸先が悪い。

 そう思いながら、汗ばんだ手を拭おうとしたとき、サーザイトは一瞬頭が真っ白になった。

 目の前に、唐突に真紅が広がっていた。

 それは、自分の掌、なはずだった。



 なんだ、これは。

 汗、じゃない。

 ぬめっている。

 汚れている。

 ――血?



「……!!」



 思わずタオルを床に叩きつけて、サーザイトはベッドに後ろ向きに倒れ込んだ。

 脳が直接かき混ぜられたかのように思考が安定しない。

 恐る恐る、サーザイトは再び自分の掌を目の前で広げた。

 そこに光るのは、汗でしかなかった。



 自分の与り知らぬところで、自分に関係のある何かが動き始めている。

 サーザイトには、そう思えてならなかった。