第二十四話「門出」
卒業旅行の翌日。
サーザイトはローレンシアを尋ねていた。
卒業旅行から無事帰ってきたことの報告と、本日付けでクエスターズ臨時講師の仕事を辞める意志を伝えるためである。
「今日まで本当にお世話になりました」
掛け時計が静かに響く応接間でしばらくローレンシアと向かい合っていたサーザイトは、深々と頭を下げた。
襟元につけていたバッジを外し、それをそっとテーブルへ置いた。
「これはお返しします」
テーブルを挟んで、ローレンシアが微かに微笑む。
「やはりここで働いてはもらえんか。残念じゃな」
「申し訳ありません。せっかくの申し出を……」
と、サーザイトの言葉をローレンシアは手で制する。
「何も謝ることはない。おぬしがそう決めたのなら、わしは何も言わん」
ローレンシアがそう言ってくれたので、サーザイトも幾分気が楽になった。
それだけのやり取りをすると、サーザイトは立ち上がる。
「もう行くのか?」
「はい。もう一つ、挨拶に行かなければならないところがありますから」
「その前に一つ聞きたいことがある」
応接間を出て行こうとした彼は、ローレンシアに向き直った。
彼女はカップに砂糖をいれながら、呟くように、
「ここを辞めて、それからはどうするつもりじゃ?」
その質問は、卒業試験の前と全く同じものだった。
あのとき、サーザイトは「まだわからない」と言った。
今はどうだろう。
サーザイトは目を閉じ、自分自身に問い掛けてみた。
今から自分はどうするのか、どうしたいのか。
――わからない。
それだけは、あのときと何も変わっていなかったが、彼の答えは少しだけ変わっていた。
「わかりません。ですから、探そうと思います」
「探す?」
「ええ。昔のように、色んな場所を見て回って、自分が何をしたいのか、探すつもりです」
「その歳で自分探しの旅か? 子供じゃのう、サーザイト」
「かもしれません。いや、多分そうなんですよ。俺はまだまだガキなんです」
サーザイトは自嘲気味に笑った。
それにつられてか、ローレンシアも薄く笑う。
カップに口をつけてから、ローレンシアはサーザイトを一瞥して、溜息を一つついた。
「おぬしが子供なのは知っておるよ。おぬしはそれを自覚しているだけ、ましというものじゃろて」
「そうかもしれませんね。それでは、これで」
「ああ、また機会があれば会おうぞ」
サーザイトは一つ頭を下げてから、応接間を出ていった。
遠のいていく足音を聞きながら、ローレンシアは紅茶を流し込む。
白い喉が静かに上下して、ふうと彼女は息をつく。
「吹っ切れたわけでもなさそうじゃが……少しは立ち直ったのかのう」
誰かに呼びかけるような声音だったが、それに返事をする者は、いなかった。
サーザイトが次に訪れたのは、アパートの外れにある小さな建物だった。
ドアを強めに二回ノックすると、ほどなくしてドアが開かれる。
ちりん、と大きな鈴が軽い音を鳴らした。
「ルーヴェインさん。どうかしたですか?」
サーザイトが訪れたのは、アパートの管理人リズ・アルベールの住まう管理人室だった。
軽く会釈をしてから、サーザイトは単刀直入に言う。
「実は……明日からアパートを出ようと思うんです」
「……それは本当ですか? それは突然ですか」
リズが大きく目を見開いた。
十年もアパートに住んでいたサーザイトが、突然そんなことを言うものだから、驚くのも無理はない。
サーザイトは大きく頷いて、
「昔みたいに、旅に出ようと思うんです。ひとところに留まるのは、やっぱり性に合わないみたいで」
まじまじとリズはサーザイトを見つめた。
サーザイトは、それを真正面から受ける。
リズはしばらくそうしていると、満足したのか、目を細めて頷いた。
「わかりましたですか。手続きはこちらで済ませておきますですか。私物の整理をお願いしますですか」
「はい。突然で申し訳ないです」
リズはにっこりと邪気の無い笑みを浮かべて、
「構わないですか。それが私の仕事ですか。そんなことは気にしなくてもいいですか」
そう言ってくれるのが嬉しくて、サーザイトは知らずの内に目を潤ませていた。
それに気付き、目元を軽く拭う。
年齢を重ねると涙もろくなるものだ、と彼は思った。
「ルーヴェインさん」
リズは、相変わらず無垢な笑顔で言った。
「今度の旅は、いいものになるといいですか」
「ありがとうございます」
今までの感謝を込めて握手を交わす。
初めて握ったリズの手は、温かくて柔らかかった。
だがそれも一瞬で、二人の手はするりとあっさり離れる。
「それじゃ……これで」
「はいですか。さようならですか」
二人の別れは、たったそれだけだった。
さようなら、という言葉がどうにも切なくて、淋しい気分になる。
彼女は、アパートの管理人という立場だ。
こういった別れには、今まで何度も立ち合っていて、慣れているのだろう。
しかし、それも仕方無いことだと自分を納得させながら、サーザイトは今日までの自分の部屋へ戻っていった。
その背を見送るリズが、ぽつりと呟く。
「……そうですか。長かったけれど、ようやくここから動く決意が出来たのですか」
笑顔の中に一抹の淋しさが見える。
その顔が、きゅっと引き締められる。
「それでは、私もそろそろ動いていい頃ですか」
にっこり笑ったかと思うと、彼女の姿がゆらりと揺らぎ、その場から掻き消える。
ちりーん……
最後に、鈴の音だけが僅かに残った。
「あ……」
「ん?」
サーザイトが階段を上がると、自分の部屋の前に誰かがいることに気付く。
普段から目立つ彼女達を見間違うはずがない。
エンジェレット、それにユユだった。
エンジェレットはむすっとした顔で、
「ちょっと、どこに行ってましたの? せっかく私達が挨拶に来て差し上げたっていうのに、留守は無いんじゃありませんの?」
「わ、悪かった。とりあえず上がってくれ」
鍵を開けて、二人を招きいれる。
自分が留守にしていたからといって、エンジェレットに叱られる筋合いは無いんじゃないかと思ったが、
あまりエンジェレットを刺激するとロクなことが無さそうなので、言うのはやめておいた。
サーザイトも、彼女達と付き合う中で、ある程度は学習したのである。
何も言わずにすぐさまお茶を入れると、当然のようにエンジェレットは一口すすって、
「……あまりいい茶葉ではありませんわね」
そう言いながらも、エンジェレットの機嫌も少しは直ったらしい。
どことなくその表情からは硬さが取れていた。
それを見てほっとしたサーザイトは、改めて二人の正面に座る。
「今日は挨拶に来てくれたのか」
「最初からそう言っているじゃありませんの。ユユがどうしてもって言いますから、仕方なく来て差し上げましたのよ、ありがたく思いなさいませ」
「クス……『あら? 確か最初に行こうと言い出したのはエンジェの……』」
キッとエンジェレットがユユを睨みつけた。
ユユは言葉を詰まらせてから、
「クスクスクス……『いえ、そうですの。私がエンジェを誘いましたの』クスクスクス……」
「そうか。二人とも、わざわざありがとうな」
「『お礼を言うのはこちらの方ですの。ねぇ、エンジェ?』」
「そうですわね。この一ヶ月ほど、勉強にならないこともありませんでしたわ」
もうこれで別れると言うのに、普段の彼女らしい物言いに、サーザイトは思わず笑みを堪えられなかった。
やはり彼女は、自分とは違い常に"自分"というものを強く持っている。
間違っても、自分を見失って道を誤ることはないだろう。
サーザイトが笑ったのが気に障ったのか、エンジェレットは唇を尖らせた。
「なんですの? 何か文句でもありますの?」
「いや、別に、そんなことは」
愛想笑いを浮かべるサーザイトを見て、エンジェレットは深いため息をついた。
「サーザイト、あなたは仮にも私が名前で呼んで差し上げている方なのですから、もう少ししっかりしないと許しませんわよ?」
「ああ、わかって……」
と、サーザイトは、そのエンジェレットの言葉に、何か引っ掛かるものを感じた。
別段、エンジェレットが変なことを言ったわけでもない。
それなのに、強烈にサーザイトの心にこびりついて、離れない。
名前で、呼ぶ……名前……?
「イリスとククルーも来ると昨日言ってましたから、まだ来ていないなら待ってなさいませ。
多分、もう少しで来ると思いますわ。私達はもう行きますから」
「クス……『それでは先生、またお会いできるのを楽しみにしていますの』」
「そうだな。じゃあな、二人とも」
部屋を出て行く間際、ほんの僅かにエンジェレットが微笑んだような……気がした。
ぱたん、と扉が閉まると、途端に静寂が訪れる。
落ち着いてから、サーザイトは今感じたものが何なのかを考える。
名前で呼ぶ? ……呼び方?
瞬間、もう聞き慣れた声が脳裏に聞こえた。
『……そう呼んで……』
あ、とサーザイトは思わず声を上げそうになった。
それに気付いた直後、じわりと額に汗が滲む。
そうか、多分あれだ、いや、きっとあれのことだろう。
「……エンジェレット、本当にありがとうな」
それに気付かせてくれた相手に感謝の言葉を呟く。
全く、やはり自分は大馬鹿者だな、と自嘲的に笑んで、ぐしゃぐしゃと頭を掻き毟った。
そうしていると、ふと耳にとんとん、カンカン、と二人分の足音が聞こえて、サーザイトは顔を上げる。
ほどなくして、コンコンと軽く部屋の扉がノックされる。
「開いているぞ」
サーザイトがそう言うと、扉が勢い良く開き、イリスがひょっこりと顔を出した。
「えへへー、こんにちはっ先生っ」
「……」
イリスの後ろに、ククルーもいる。
どこか元気が無いように見えたのは、サーザイトの気のせいではない。
彼女は少なからず、皆と別れることを哀しんでいるのだろう。
だが、イリスはそんな暗い雰囲気を全く寄せ付けない笑顔だった。
「今までありがとうございましたっ。私達、二人で世界を巡ってきますっ」
「ククルーとパーティを組むんだな」
「はいっ。クーちゃんとなら、きっと楽しい旅になるからっ」
イリスとククルーなら、互いに互いの欠点を補える。
二人のパーティとしては、理想的な組み合わせだろう。
サーザイトは満足げに頷いてから、
「なあ、イリス。悪いんだが、少し席を外してくれないか?」
「んー? はいっ、わかりましたっ」
イリスは素直に部屋を出て行く。
残されたククルーは、どこか居心地悪そうにその場に突っ立っていた。
「座ったらどうだ?」
サーザイトの言葉にも、相変わらず無反応。
やはり、明らかに意図的に無視している。
何が彼女を頑なに不遜な態度を取らせているのか、今のサーザイトには予想がついていた。
サーザイトは大きく溜息をつくと、重々しく口を開き、
「クー」
ぴくん、とククルーは身体を微かに震わせた。
「座ったらどうだ?」
「……」
何も言わず、ククルーはサーザイトの前にぺたんと座り込んだ。
じいっと正面から視線を合わせてくる彼女の威圧感にたじろぎかけたが、サーザイトは意を決して、
「……悪かった。お前が俺のことを無視してたのは、俺がお前との約束を忘れてたからだったんだな」
エンジェレットの言葉をきっかけに、サーザイトは全てを思い出した。
卒業旅行一日目の夜。
ククルーはサーザイトに、自分のことをクーと呼ぶようにと申し出た。
そして、酔っていたとはいえ、サーザイトは「わかった」と言った。
つまり、それは"約束"と変わらない。
それを今の今まで忘れていた自分を、サーザイトはぶん殴ってやりたくなった。
ククルーに何を言われたとしても、今の自分には何も言い返す資格はない。
何せ、以前「一切の虚偽を語らない」と誓ったばかりなのに、その誓いをもう反故にしたも同然なのだ。
約束は、彼女にとっては他のどんなことよりも重い意味のある言葉。
それを破った自分は、今この場で魔法を叩き込まれても仕方が無いくらいだ。
「……いい」
ククルーは穏やかな口調で、少しだけはにかんだ笑みを浮かべた。
「思い出してくれたのなら、約束は破られてない。先生は約束を守った。だから、いい」
「許してくれるのか?」
「……それじゃ、もう一つ約束、してください」
きゅっと唇を噛んで、ククルーは淋しげに俯いて言った。
「これが最後の別れじゃないって、約束してください」
「――」
思わず、サーザイトは言葉を詰まらせた。
ここで約束することは簡単だ。
何も言わず、首を一度縦に振るだけで事足りる。
だが、旅というのは行く先々で何が起こるかわからない。
もしかしたら、もう二度と会えなくなることも十分に考えられた。
サーザイトはククルーをじっと見つめる。
哀願するような目で、ククルーはサーザイトを上目遣いに見上げてくる。
その顔は、ただの十二歳の少女だった。
約束。
それは、もしかしたらその場限りの、ほんの気休めに過ぎないのかもしれない。
「――わかった。またきっとどこかで会おう。約束だ」
それでも、今度の約束は絶対に守ろう。
サーザイトはそう固く心に誓った。
その時ほんの僅かククルーが見せた笑顔を守るためにも。
サーザイトが出て行ってから一時間ほどが経っても、ローレンシアは応接間で時間を潰していた。
誰も見ていないのをいいことに、ソファに深く腰掛け、天井を見上げながらだらんと腕をぶらぶらとさせている。
そうしていると、彼女もどこか幼く見える。
「問題児組が卒業して、『俊剣』もクエスターズを離れる、か。はあ、またしばらくつまらんのう」
溜息交じりにローレンシアは言った。
おもちゃを取り上げられた子供のような拗ねた表情だった。
彼女は、どうもトラブルを楽しんでしまう困った気質の持ち主なのである。
この一ヶ月ほど、彼女の唯一の楽しみはあの問題児達……イリス、エンジェレット、ククルー、ユユの動向だった。
その彼女達が、揃って卒業してしまうのだ。
ローレンシアにしてみれば、肩の荷が降りたどころか、娯楽が無くなってしまったも同然である。
そう思うと、やるべきことはいくらでもあるというのに、なかなか仕事に戻ろうという気になれなかった。
紅茶を混ぜるスプーンをくわえて、はむはむと唇で弄ぶ。
しばらくそうしていただろうか、ローレンシアの緩んでいた顔が微かに硬くなる。
彼女は上体を起こすと、応接間の扉に目をやった。
「そこにおるのは誰じゃ」
僅かな間の後、扉が音も無く開く。
入ってきたのは、見知らぬ女性だった。
ローレンシアを見ると、女性は嬉しそうに目を細めて笑顔になる。
一方、ローレンシアは怪訝そうな目になった。
「おぬし、何者じゃ? ここまで誰にも何も言われずに入ってきたのか?」
一応、ここクエスターズは国家機関である。
正面の玄関には事務員が常駐しているはずで、部外者がそう簡単に出入り出来る場所ではない。
しかも応接間は職員棟のすぐ手前、正面の玄関から中庭を過ぎ、そこを右に曲がった奥である。
誰に咎められることもなく、部外者がここまで来るのは不可能に近いはずだ。
ローレンシアは予期せぬ闖入者を目の当たりにし、ごく自然に身構える。
「そんなこと、どうでもいいじゃないですか」
初めて女性が口を開いた。
当然のようにローレンシアの正面に腰掛けて、にっこりと笑う。
人懐こい笑顔だったが、ローレンシアは気を抜かない。
女性は、少し困ったように言った。
「そんなに構えなくていいじゃないですか」
「素性の知れぬ者にそんなことを言われてものう」
「まだわからないんですか? ローラ」
ローレンシアの目が大きく開かれる。
自分のことをその名で呼ぶ人間を、ローレンシアは一人しか知らない。
「まさか、おぬし……」
その言葉を待たず、女性は満面の笑みで、ローレンシアに抱きついた。
その拍子に、彼女の髪飾りが、ちりん、と軽い音を響かせた。