第二十一話「卒業旅行二日目 1」
卒業旅行の二日目。
サーザイトは朝日と同時に目を覚ました。
酔いはすっかり抜け、彼の中にその残滓は欠片も無い。
彼は飲むと全く正体が無くなるくせに、一旦寝て起きると、完全に回復するのだった。
がしがしと頭を掻いて、ベッドから立ち上がる。
床に転がったビンが足に当たり、それを拾い上げながら溜息をつく。
(昨日は調子に乗って飲みすぎたな……)
と、サーザイトは自分の所業に呆れ、深く自省した。
ククルーにまであんなに飲ませてしまって。
自分はともかく、ククルーは大丈夫だろうか。
予想通りというか、朝食の場にククルーはいなかった。
「気分が悪いそうですわ。しばらくすれば治りそうだと言ってましたけれど」
器用に骨をよけながら、白身魚に舌鼓を打っていたエンジェレットが言った。
昨日の夕食と違って極限状態ではないイリスは、それでも食べる量は相変わらずで、
「おかわり!」と彼女が叫ぶ度に従業員がせわしなくホールを縦横無尽に駆け巡る。
既に十枚ほど積み重なっている皿を見て、よくもまあ朝っぱらからそんなに食えるものだとサーザイトは思った。
これが若さか。
「ククルーみたいな子に酒を飲ませるなんて、きっとろくでもない男にかどわかされたんですわ」
「いや、そのだな」
ダンッ! とエンジェレットはナイフを皿に突き立てる。
「見つけたらただじゃ済みませんわ。ところでサーザイト、何か言いまして?」
「……何も」
自分の命も、ククルーの口から真実が語られるまでかなと思い、サーザイトは密かに身震いした。
朝食を終えて部屋に戻ったサーザイトは、水着に着替え、その上にコートを羽織った。
「シュメットにまで来て海で泳がないなんてありえない」とはエンジェレットの弁。
サーザイトとしては一日中温泉につかっているだけで満足なのだが、
やはり年頃にさしかかろうという娘達は、外に出る気満々のようで、サーザイトも付き合うことになったのだった。
立場的には引率のようなものだし、海に行くのが嫌なわけではないので、文句も無い。
かつての相棒が使っていた聖剣だけをコートの裏側に差し、サーザイトは風の館へ向かう。
途中、何人か水着姿の若者とすれ違う。
やはりこの時間は海に向かう人が多いらしい。
「3」と書かれた扉の前に着いたサーザイトは、軽く二回扉を叩いた。
「俺だ。こっちは準備出来たが、皆はもう準備出来たか?」
あ、先生だっ、とイリスの声が聞こえた。
どたどたどた、と足音。
「ちょっとイリス待ちなさ」とエンジェレットの声が聞こえたところで、扉が開いた。
「……!」
サーザイトの時が凍りつく。
笑顔で出てきたイリスは、上半身に何も身につけていなかった。
微かにふくらみかけた二つの丘を見て、なぜだか感慨深くなる。
イリスはにこにことしたまま「部屋で待っててくださいっ」とか言っていた。
イリス……もう少し女の子としての自覚というものをだな……とかサーザイトが思っていると、
部屋の奥からエンジェレットがすっ飛んできて、イリスの首根っこを掴んだ。
彼女も着替えの最中だったようで、上は薄手のネグリジェのようなものしか着ていなかった。
イリスに比べると、年齢が上ということもあってか、ずっと発育が進んでいることを確認。
父さん、母さん、お元気ですか。幸せを形にしたものが目の前にあります。
やはり彼女達くらいの時期の成長は目覚しいものがあるようだ。
呆然とそれを眺めていると、キッとエンジェレットが睨んできて、直後目に手刀を入れられた。
うおおお、と悶絶している内に扉が勢いよく閉じられ、その向こう側から「何考えてますの!」とエンジェレットの声。
「い……今のは、俺が悪いわけじゃないよな……?」
痛む目元をさすりながら、今一瞬目にした映像を頭の中で再生する。
サーザイトだって男だ。
女性の胸に興味くらいはある。
というより、かなり好きだった。
若い頃は、酒場で姉ちゃんの胸や尻を追いかけていたこともある。
年齢を重ねて衰えはしたものの、その辺りは変わっていなかった。
廊下に座って、先ほどのイリスとエンジェレットの姿を思い浮かべる。
――待て待て、相手は生徒だ、しかも自分より二十も年下だぞ?
――いや、胸は胸だろう、そのこと自体を否定してはならない。
――しかし、世間体というものもある。それに自分にはそういう趣味は……
――だが、イリスを見た瞬間に固まったな? 相手をただの子供だと思っているならそんな反応はしない。違うか?
――そ、それは……
「……」
「うん?」
廊下で頭を抱えていると、ふと自分を見つめる自然に気がついた。
ククルーであった。
何故か無表情な視線が自分を責めているような気がした。
もしかして、今の一部始終を見られていたのだろうか。
サーザイトは冷や汗を流しながら、ぎこちなく手を上げて笑みを作った。
「や、やあ。外にいたんだな」
「……水、飲んでた」
「気分はもういいのか?」
「……」
こくん。
「そうか。ククルーも早く準備をしたらどうだ?」
「……」
ククルーは何か言いたそうに僅かに唇を動かした。
結局ククルーは何も言わなかった。
部屋に入る直前、ククルーはサーザイトを一瞥した。
その視線には、どこか訴えるようなものがあった。
青い海。
白い砂浜。
陳腐だが単純なその表現を当てるのが、余分に言葉を尽くすより合っていると思われるような清々しい景色が広がっている。
「白い海っ! 青い砂浜っ!」
「逆ですわ、イリス」
エンジェレットが冷静に指摘する。
「突撃〜っ!」
ツインテールを揺らしながら、イリスがついに駆け出していった。
マリンを出た頃から、既にいてもたってもいられないといった感じだったので、よく我慢した方だろう。
先に行ってしまったイリスを追って、エンジェレットとククルーが歩いていく。
もちろん三人とも水着姿で、ククルーだけは気後れするのか、その上からマントを羽織っていた。
大きなパラソルの影でそれを見送ったサーザイトは、身体を伸ばして寝転がった。
太陽が目に眩しい。
「『行かなくて良かったんですの?』」
と、隣に座っていたユユが尋ねた。
水着を着ておらず、いつものローブ姿である。
どうやら彼女は太陽の光が苦手らしく、肌を晒すのを控えたいのだと言う。
「……お前こそ、本当に行かなくていいのか?」
「クス……『さっきも言った通り、太陽が苦手なんですの。それに、泳ぐだなんて、血を吐くだけ吐いて沈むのが関の山ですの』」
そんなことを言われては、無理に泳いでこいなどとは言えない。
はふ、とサーザイトは欠伸を一つ噛み殺した。
眩しい陽射しの下ならばともかく、日陰にいると潮風が心地好く、眠くなってしまう。
「『先生、暇そうですの。先生もエンジェ達と一緒に泳いできたらいいですの』」
「そうしたらお前が一人になるだろう」
「クス……『一人は慣れていますの。だから大丈夫ですの』」
「まあ、そう言うな。一人に慣れたんなら、今度は二人に慣れろ」
「『あら、お上手ですの』」
ニヤリとユユは笑みを浮かべる。
普段から彼女は薄ら笑いだが、それをほんの少しだけ強めてみせた。
それにしても、結局彼女とはこの一ヶ月ほどで距離を縮められたのだろうか。
サーザイトにはその実感がまるでなかった。
彼女が何を思い、何を考えているのか、その漆黒の下に全て隠れている。
サーザイトは溜息をついてから、海の方へ走っていった三人の方に目を向ける。
――イリスがぷかぷかと力無く水面に浮いていた。
どうやら泳げないのに、無謀にも海に向かって突撃したらしい。
ククルーが魔法で風を起こしてイリスの身体を砂浜まで運んでいた。
それを呆れたように眺めるエンジェレットだが、その口元には微かな笑みが見える。
出会った頃に比べると、彼女からは随分と角が取れたような印象を受けた。
「『先生、ありがとうございますの』」
「……何が?」
唐突にユユが言ったので、サーザイトは首をかしげた。
ユユはエンジェレットを見つめていた。
普段とは違う穏やかな笑顔だった。
「『エンジェがあんなに楽しそうにしてるのを見るのは初めてですの。先生がエンジェの枷をほんの少し降ろしてくれたおかげですの』」
エンジェレットから何か聞いているのだろうか。
エンジェレットは彼女とは親しいようなので、あの日の決着のことを少し話したのかもしれない。
ユユのそんな顔を見るのは初めてだった。
案外友人思いなんだな、と思う。
「俺はきっかけを与えてやっただけさ。あとはエンジェレットが一人で……そう、成長したんだ」
「クス……『それを聞いたら、きっとエンジェも喜びますの。でも、素直じゃないんですのよ、エンジェは』」
サーザイトはそれを聞いて苦笑した。
エンジェレットは、普段は巻いている髪を首の後ろで一つに縛っていた。
彼女は泳ぐ気満々らしく、海に入るとなるとあの縦ロールは邪魔になるのだろう。
空色のビキニは、彼女の体型にしては豊かな胸板を強調している。
いつもゆったりとしている服を着ているから気付かなかったが、思ったより……ある。
すれ違う若者の十人に十人が振り返ってエンジェレットを目で追った。
サーザイトも決して例外ではない。
ユユがクスと含みを持った笑みを浮かべた。
「『さっきから何をじろじろと見ていますの?』」
「……何のことかな」
「クスクスクス……『とぼけなくてもいいですの。男の方が女性の胸やお尻に興味を持つのは正常ですの』クスクスクス……」
「……」
「クス……『先生は、ちいさいのと大きいのでは、どちらがお好みですの?』」
「……大きめ」
サーザイトは正直だった。
「『そうですの。それなら、エンジェは意外と凄いんですの。ふくよかですの。ふにふにですの』」
「どうしてそんなことがわかる?」
「クス……『私とエンジェは友人ですのよ? 普段からスキンシップは取っておりますの』」
「……詳しく聞かせてもらおうか」
垂れ下がった目に光が宿った。
こうなると、歴戦の戦士もへったくれもない。
サーザイトは表面上は平静を装って、ユユの語りに耳を傾けた。
「『エンジェは一旦心を許してくれると、あんまり拒まないんですの。ですから私なんてもうお風呂で触りたい放題ですの』」
「それは、まあ、なんというか」
想像したら、頭がくらくらしてきた。
茹で上がりそうになるのを堪える。
女の子同士というのは、何だか背徳的で、刺激が予想以上に強かった。
と、ユユは語りの途中で前触れ無く口を閉ざした。
どうしたのかと思うと、噂をすればという奴で、エンジェレットが歩いてきた。
ちょうど海から上がってきたところらしく、紫色の髪が水に濡れて妙な色気を発散している。
「サーザイト。あなたも少しくらい泳いだらどうですの? 泳げないわけじゃないんでしょう?」
「俺が泳ぎに行ったらユユが一人になるから、悪いと思ってな」
「クス……『私なら別に構いませんの。先生も少し行ってきたらいいですの』」
「ユユもそう言ってますし、異論はありませんわね?」
「……そこまで言うなら、少し行ってくるか」
サーザイトは重い腰を上げた。
コートを脱いでその場に置き、パラソルの外に出る。
焼け付くような陽射しが降り注いでいる。
身体が溶けるような錯覚を覚えた。
「サーザイト。泳ぎで勝負しませんこと?」
「勝負?」
エンジェレットは海の向こうを指差した。
「あそこに島が見えるでしょう? あそこまで泳いで、早く戻ってきた方の勝ちですわ」
「おいおい、五百メートルは離れてるぞあれは……」
「そこまでは泳げませんの?」
「そんなことはないが」
「ないが?」
「面倒臭い」
エンジェレットは不機嫌そうな目でサーザイトを睨んだ。
しかし、何か思いついたのか、目を輝かせる。
「それじゃ、こういうのはどうですこと? 負けたら勝った方の言うことを一つだけ何でも聞くんですの」
「……なんでも?」
サーザイトはエンジェレットの言葉を繰り返した。
「何でも聞くのか?」
「そう、何でもですの」
それは何とも魅力的な提案だった。
むう、と考え込むサーザイトだが、心の奥底では、もう既に答えは出ている。
「よし……その勝負、受けて立とう」
「話がわかりますわね。それじゃ、いちにのさんで勝負開始ですわ」
「わかった」
「行きますわよ? いち……にの……さん!」
二人は弾かれるように、海に向かって全力で駆け出した。
「……」
イリスと砂遊びをしていたククルーが休みにきた。
ユユの隣、つい先ほどまでサーザイトが座っていた場所に座り、ほうと大きく息をつく。
元々寡黙なククルーとユユは、同じクラスではあったが会話を交わしたことはほとんど無い。
が、珍しいことにユユの方からククルーに声をかけた。
「クス……『クー、お疲れのところですけれど、言っておきたいことがありますの』」
「……」
「『先生とエンジェ、一緒に泳ぎに行ってしまわれましたの』」
「……」
ククルーは無言のまま海を見やる。
なるほど、二つの水飛沫が遠くの島へ向かっているのが見えた。
「クス……『二人は泳ぎで勝負してるようですわ。負けた方は勝った方の言うことを一つだけ何でも聞くという条件で』」
「……」
「『いいんですの? 黙って行かせてしまって』」
「……どうしてそんなことを言うの」
眼鏡越しに、二つの目がユユを見つめた。
「クス……『だってあなた、サーザイト先生のことが好きなんじゃありませんの?』」
「……、……わからない」
ククルーはどこか物憂げに目を伏せた。
わからない――それがククルーの本心だった。
幼い頃に村を滅ぼされてから、しばらく友人もいなかった彼女は書物を友とした。
それも、ほとんどは実用書や魔道書の類であった。
「イリスも……先生も、一緒にいると嬉しくて、安心する。でも先生が他の子と一緒にいるのを見ると、ここが痛い」
と、小さな手を胸の辺りで重ね合わせる。
彼女の無表情に僅かな淋しさが浮かび上がる。
ユユがふっと優しげな笑みをこぼした。
「『きっと、それは恋ですの』」
「……恋?」
ククルーが不思議そうに首をかしげる。
まるで初めて聞いた言葉のような響きだった。
「恋……って、何?」
「『クー、恋を知りませんの?』」
「……知らない」
ククルーは頷いて、言った。
「今まで読んだどの本にも、書いてなかった」
ユユは目の前の少女をまじまじと見つめた。
もう十二になるというのに、この子は恋を知らないらしい。
聞いたのも今が初めてという反応だ。
年下ということもあってか、そんな彼女がユユには可愛く思えた。
「クス……『そうですの。あなたって意外と可愛いんですのね』」
ククルーの頭を抱いて、青い髪に頬を寄せる。
ククルーは困ったような顔になって、腕の中で小さくなった。
クスクスと笑いながら、ユユはククルーの耳元でささやく。
「『今はそれでいいですの。その気持ちを大切にするですの。
それで、好きで好きでたまらなくなったら、その気持ちを打ち明けるといいですの』」
「……あなたも」
ふとククルーが口を開いた。
「あなたも、その恋というものをしているの?」
ククルーのその言葉に、ユユは微かに驚き目を見開いた。
それも一瞬のことで、すぐいつもの薄ら笑いになり、
「クス……『そうですわね。しているかもしれませんの』」
「それなら聞きたい。この気持ちがなんなのか。恋というものがどんなものなのか。私に教えてほしい」
「『教えられるようなものじゃないですの。恋というのは人によって、大きさも形も違うものですの』」
さらさらと青い髪に指ですいていく。
うっとりとした顔で、ユユは歌うように言う。
「『クー、あなたの恋が、あなたにとって優しいものであることを祈りますの』」