第十六話「愛した者、二人」
(おもしろくありませんわね……)
エンジェレットは、自分の膝に肘を立てたままぼーっとしていた。
彼女が今いるのは、ブレイヴァニスタではクエスターズの次に大きな建造物であるコロシアムのメインスタンドである。
スタンドには最大で一万人以上が入れるらしいが、現在は半分も埋まっていない。
せいぜい三千人といったところだろうか。
ふあ、と欠伸が漏れる。
目の端に涙を溜めながら、再びぼーっとし始める。
「お、おい、あそこに座ってるのエンジェレットさんじゃないか……?」
「ああ、絶対そうだよ。こうやって近くで見ると可愛いよな〜」
「おまけに滅茶苦茶強いんだぜ。昨日の格闘大会は出てなかったみたいだけど」
(まったく……全部聞こえてますわよ)
まったく、本当に面白くない。
面白く無いのは、この大会のレベルが低いからだろう。
しかも、今コロシアムで開かれているのは、魔術大会なのである。
何故エンジェレットが魔術大会なんてものを見に来ているのかというと、
歓声が涌いた。
コロシアムの中央に設置された大きな白い円形のリングに、二人の選手が姿を見せる。
その内の一人、漆黒のローブに身を包んだ魔法使いをエンジェレットは凝視する。
そう、ユユ・フレイリーである。
『魔術大会に出ますの』
そう言われたのは今日の朝のことだ。
格闘大会の日はサーザイトと戦っていたため出場しなかったエンジェレットが、わざわざ魔術大会を見に来ているのは、
ユユが出場するから、というだけである。
サーザイトがユユに課した試験は、この魔術大会で上位八位以上に入る、というものだった。
――ちなみに、もう決勝戦である。
(本当に面白くありませんわ)
エンジェレットの口から再び欠伸が漏れた。
試合が始まる。
しかし、エンジェレットは目を向けようともしなかった。
それも無理からぬことかもしれない。
欠伸が終わった頃には、もう試合も終わっているだろうから。
ほんの一瞬、歓声が消え、そしてしばらくしてから、先ほど以上の大きな歓声が沸きあがった。
「驚きました! 優勝は初出場の少女です! その名はユユ・フレイリー! 新たな勇者の誕生です! ……」
「クスクスクス……『思ってた以上に簡単でしたの』クスクスクス……」
「当然ですわ。あんなレベルの低い大会で苦戦するような無様なことは、私が許しませんわよ」
魔術大会が終わってから、エンジェレットはコロシアムの入り口でユユを待ち、合流してから街へ出て、一緒に茶を飲んでいた。
ユユは、エンジェレトがプライベートで唯一付き合いのある友人である。
実際、クエスターズ以外では、ユユと行動を共にすることが多い。
それだけ彼女がユユの実力を認めているということでもある。
ついでに言うと、ユユの方も元々友人が少ない(というか、そもそも誰も近寄りたがらない)ということもあった。
「クス……『相変わらずですのね、エンジェ……いえ、少しだけ、柔らかくなったかしら』」
「何が言いたいんですの?」
「『最近、誰かに負けましたの?』」
「なっ……」
驚いて、エンジェレットが目を見開く。
「クスクスクス……『お相手はサーザイト先生かしら?』クスクスクス……」
「……はぁ」
エンジェレットは苦笑した。
「あなたに隠し事は出来ませんわね」
「クス……『そう、負けたんですのね』」
「サーザイトの話によると、引き分けだったという話ですけれど」
ぐいっとカップの中身を、一気に半分ほど飲む。
「ダメですのよ。自分の中で、『あの戦いは完全に負けた』って声が聞こえてきて、それを受け入れてる自分がいますの」
「『だから、彼の名を呼ぶことにしたんですのね』」
「そう取ってもらって構いませんわ」
クスクスと小さな声がロープの下で鳴る。
それが気に入らなくて、エンジェレットは場を取り繕うように再びカップに口をつけ、
「『エンジェは本当に可愛いですわ』」
「ぶっ! かはっ、こほっ」
盛大にむせ返った。
「い、いきなりなにを言いますの!?」
目に涙をいっぱいに溜めて抗議するが、ユユは涼しい顔だ。
「クス……『素直なエンジェも可愛いけれど、何となく強がっちゃうところはますます可愛いですわ』」
「……あなた、私をからかって遊んでますわね?」
「『あら? そんなことないですの。全部本心ですの』」
カタカタと杖の先の髑髏が小気味のいい音をさせる。
「ところでユユ、あなたクエスターズを出たらどうしますの?」
「『特に考えてませんの。故郷に帰る気にもなりませんし、しばらくは流浪ですの。そういうエンジェはどうしますの?』」
「私は、当然もっと強くなるために武者修行……と言いたいところですけれど、ひとまず故国に戻りますわ。
クエスターズを出たら、一度戻るようにと言われてますの」
「『そう。一緒に旅が出来たらと思いましたのに、残念ですの。それじゃ、しばらくお別れですのね……淋しいですの』」
微かにユユの声のトーンが落ちる。
彼女が感情を言葉以外で表すのは、非常に珍しかった。
「別に今生の別れでもありませんわ。気が向いたら、トーワ王国にいらっしゃいな。歓迎しますわよ」
「クス……『考えておきますの』」
二人のカップが空になった。
だが、二人ともその場を離れようとしない。
別れるまでは、少しでも同じ時を過ごしたかったのだ。
それがたとえ一分でも、一秒でも。
「……出ましょうか」
先に席を立ったのはエンジェレットだった。
その後をユユがついていく。
店を出てから、しばらくの間二人は無言だった。
街を抜け、クエスターズの寮へと戻る。
「それじゃ……」
「エンジェ」
と、ユユの部屋の前で別れようとしたエンジェレットを、ユユが呼び止める。
その言葉は、確かにユユの口から発せられていた。
エンジェレットの顔が引き締まる。
「クエスターズを出ても、また会ってくださいますの?」
「……当然ですわ。だって、あなたは私の大切な……」
「大切な……?」
「友人ですもの」
「……、……クス、そうですの、私も、エンジェのことを大切に思ってますの」
にこ、とユユはぎこちなく微笑んでみせた。
彼女が他の誰にも見せたことのない表情だった。
エンジェレットも、同じように笑顔を返す。
「それじゃ、またですわ」
エンジェレットは自分の部屋へ戻っていった。
その背中が見えなくなるまで、ユユは部屋の前にずっと立っていた。
その口元から、ゴボァと大量の血が吹き零れ、一瞬くらりと身体が大きくよろめく。
今日は普段よりも量が多い。
(今日は……少しだけ張り切りすぎてしまいましたの)
虚弱体質にもほどがある。
倒れるにしても、部屋の中で……とは思うが、既に足はふらふらである。
部屋は目の前だというのに、そこまでの距離が物凄く遠くに感じる。
世界が、傾いた。
(あらー……)
と、衝撃が来る前に、何かがユユの身体を支えてくれる。
「大丈夫かね? 僕が通りかからなければ危ないところだったよ」
金髪に、紫色の煌びやかなマントを翻すその人は、グランだった。
薄く目を開いたまま、ユユが微かに口の端を吊り上げる。
「クス……『あら、ミスター・モルガン。ごきげんいかがですの』」
「倒れた割には余裕じゃないか……って、おお? なんだか血が出まくっているが、本当に大丈夫かい?」
「『いつものことですから、ご心配には及びませんの』」
「この多量出血が日常茶飯事なのかい! こいつは驚いた!」
「クス……『とりあえず、部屋に戻りますの。肩を貸してくださいます?』」
「僕の愛する人の友人の頼みを断れるわけがないな」
グランはユユの体重を支える。
元々ユユが病的なまでに軽いということもあるが、グランもなかなか逞しい。
ユユは、触れている肌から、自分には無い力強さを感じていた。
「『ありがとうございますの』」
部屋に入り、グランから離れたユユはぺこりと頭を下げる。
「なに、このくらいお安い御用だよ」
特に意図したという風でもなく、ごく自然にグランは微笑んだ。
妙にカッコつけなこの男が、なぜ多くの生徒(主に、女の子)に慕われるのか、ユユにはわかる気がした。
ユユは、自分とは正反対の気を……光の属性をグランに感じた。
光の属性は、命ある全ての者に必ず付与されている属性だ。
それを多く持つ者に、同じく光属性を持つ命ある者は惹かれるのだろう。
グランは男だからか、女の子が余計に惹かれているようだが、まあそれはグランの見目と社交性もあるのかもしれない。
「……『ミスター・モルガン』」
「グランでいいよ、フレイリー」
「クス……『では、私の方もユユと呼んでくださいですの』」
「フフ、わかった」
二人は笑顔を交わす。
「『グランは、エンジェのことが好きですの』
「藪から棒になんだね。まあ、その通りだが」
「『いえ、ただ、エンジェは昨日卒業証明をもらったそうですの』」
「な、なんだってー!」
グランが目を見開く。
「『私も今日試験に合格しましたから、後で卒業証明をもらいに行きますの』」
「あ、ああ、それはおめでとう。しかし、エンジェが……ああ、でもエンジェの実力なら当然のこと……。
ということは、エンジェがクエスターズにいるのも、もうあと僅かということじゃないか!」
「クス……『そういうことになりますの』」
むう、とグランが唸る。
そして何を思ったか、ぽんと手を打って、
「よし、そうと決まればもうここに用は無い。僕も卒業することにしよう」
「クス……『あら? そんな簡単に卒業出来るものなんですの? まさかモルガン家のコネですの?』」
「まさか」
フッとグランが不敵な笑みを見せる。
「僕のお爺様や父上は、そんな不正を許すような人じゃないさ。僕はもう卒業証明はもらっているということだよ」
「クス……『そうでしたの』」
「卒業証明を受け取ってから、一年は任意で残れるのだよ。ここを出てからやるべきことが見つからなくて萎えていたが……うむ」
グランの目に、より強い輝きが宿った。
「エンジェがここを出るというのなら、もうここにいる理由は無い! 僕も外の世界に出て行こうではないか!」
「クス……『心意気は買いますけれど、エンジェは自分に匹敵する能力の持ち主でないと見向きもしてくれませんの』」
「僕もいつまでもエンジェに負けた時の僕ではない……と言いたいところだが、まだエンジェに勝てるとは言い切れない。
だから、しばらくは腕を磨くために各地を回ろうと思う。色んな場所で、多くの冒険者と剣を交わし、見聞を広めたい。
エンジェに認めてもらえるくらい強くなったら、再び彼女に会いに来よう」
そう言ってから、彼は小さく呟いた。
「それまでは、もうエンジェには会わない」
「クス……『そう。本当にエンジェのことが好きなんですのね』」
「何を言ってるんだ? 君だってそうだろう」
グランのこの言葉に、ユユは言葉を失って、目を大きく見開いた。
見つめられたグランが怪訝そうな顔をする。
ユユが驚くのも無理からぬことだ。
自分自身の感情を見透かされたのは、生涯初めてのことなのだから。
「……『いつから気付いてましたの? それに、なぜわかりましたの?』」
「気付いたのは、初めて会った時さ。しかし、あれだな」
「『……?』」
「やはり君もまだまだ子供なんだな。恋をしているなんて、そいつの目を見ればわかる。
君は感情を隠そうとしていなかったから、他の奴等はどうだか知らないが、僕にしてみたら一目瞭然さ」
ユユは何だか胸の辺りにもやつきを感じて、俯いた。
これは……なんだろう。
自分自身に問い掛けてみても、明確な答えは返ってこない。
ただ、そう不快なものではなかった。
まったく不思議な男だとユユは思う。
「『エンジェと私を裏切ったりしたら、許しませんわ』」
「心得ているよ。……さて、少々長居してしまったかな。今日はこれで失礼させてもらうよ」
恭しく一礼すると、グランはマントをたなびかせながら部屋を出ていった。
パタン、と戸が静かに閉じられる。
漆黒の中、ぼーっとそれを眺めていたユユは、呆けた顔のままベッドの上に仰向けに寝転んだ。
口の中に、ざらついた鉄の味が広がっている。
少し血を出しすぎたかもしれない。
目を開けているのも億劫になり、瞼がゆっくりと閉じた。
「……エンジェ……好き」
意識が落ちる寸前、ユユの口元から一筋の血と一緒に、そんな言葉が漏れた。