第十五話「好転 〜主にアパートの階段から」



「う……」



 ズキン、と頭に激しい痛みを感じて、エンジェレットは目を覚ました。

 白い天井。

 白い天井が見える。

 自分がベッドの上に寝かされているということに気付いたのは、再び頭に痛みを感じた時だった。



(ここは……?)



 ベッドの周りはカーテンに覆われている。

 カーテンを指でそっとどけると、薬ビンの沢山入った棚が見えた。

 どうやらここは、クエスターズの保健室らしい。

 クエスターズに来てから一年ほど経っているが、エンジェレットが世話になるのは初めてのことである。



(そうですわ……私は、ルーヴェインとの戦いの最中に気を失って……)



 と、いうことは。

 自分は、負けたのだろうか。

 胸の内がもやもやとしていて落ち着かない。



「よう、お目覚めか」

「……!」



 カーテン越しに耳慣れた声が聞こえ、エンジェレットはカーテンを開けた。

 そこにはもう一つベッドがあり、そこに腰掛けたサーザイトが気だるそうに笑っていた。



「ルーヴェイン……」



 何を言うべきかわからず、エンジェレットは口ごもる。

 サーザイトも、自分から話そうとはせず、エンジェレットの言葉を待った。

 しばらくして、ようやくエンジェレットは重々しく口を開く。



「私は……負けたんですのね」



 力無くうなだれる。

 その肩が微かに震えていた。

 負けた。

 初めて、負けた。

 自分より弱いと思っていた相手に、負けたのだ。

 プライドは、ずたずたに切り裂かれた。

 エンジェレットの瞳が次第に潤んでくる。



「あー……あのな、エヴァーグリーン」

「……?」



 エンジェレットは顔を上げた。

 なにやら、サーザイトは困ったような顔をして、視線を合わせないようにしている。

 何があったのか、エンジェレットにはさっぱりわからない。

 と、サーザイトはそっぽを向いたまま、



「実は、俺も今さっき気が付いたところなんだ」

「……え?」

「倒れてる俺達を、校庭で実習やってた奴等がここまで運んでくれたらしいぞ。あとでちゃんと礼を言いに行かないとな」

「ち、ちょっと待ってくれませんこと? それってどういうことですの?」



 サーザイトは、やる気が無さそうに頭を掻いて、



「勝負は、引き分けだ」

「……」



 それを聞いて、思わずエンジェレットはぽかんと口を開けて呆けてしまう。

 サーザイトが剣を振りかぶったところまでの記憶は、彼女にはあった。

 対して、自分は疲労困憊で、立ち上がることすらままならない状態だった。

 あの状況で、自分はどうやって引き分けにまで持ち込んだのか。

 エンジェレットには、それがわからなかった。



「なんだか……納得がいきませんわね」



 小さく俯きながら、ぽつりと呟く。



「俺に勝てなかったのがそんなに悔しいか? まあ、俺みたいな奴に勝てなかったのは確かに納得が……」

「違いますわ。てっきり負けたと思ったのに、目を覚ましてみたら引き分けだったっていう結果がですわ。それに……」



 三十秒ほど、言い辛そうに黙りこくってから、



「一ヶ月前はともかく、今のあなたは十分強いですわ。そう卑下することはありませんわよ。……私が惨めですわ」

「……そうだな。悪かった」

「謝らないでくださいませんこと……」

「すまん……あ、いや……」



 自分の口下手加減に、サーザイトは嫌気が差した。











「それにしても」



 エンジェレットが溜息交じりに言った。



「頭ではわかっているつもりでしたけど、世の中って広いんですのね。勝てなかったなんて久し振りですわ」



 保健室を後にして、ひとまず二人は街を歩いていた。

 サーザイトは特に何もないのだが、どうもエンジェレットの方が話したいらしく、勝手についてきたのだ。

 「ローレンシアのところへ卒業証明をもらいに行ったらどうだ?」と言ってみたが、「私の勝手ですわ」と一蹴された。

 何なのだろうと思いながら、サーザイトも無下に突き放す気こともないと思い、現在に至っている。



「勝った戦いよりも、勝てなかった戦いの方が学ぶべきところは多い。勝たないというのもたまには良い経験だ」

「そのセリフ、今日の戦いの前でしたら、気にも留めてませんのに」



 人と人の間をすり抜けながら、二人は会話を交わす。

 そういえば、エンジェレットとこんな風に話すのは初めてだとサーザイトは思った。

 他の三人とは個人的に話したこともあるが、今までエンジェレットにはどうも避けられている節があり、

 なかなか話す機会が得られなかったのだ。



「実を言うとですわ」

「うん?」

「私、少し焦ってましたの」

「焦ってた?」

「ええ。私は強い。でも、クエスターズに来た時と強さがさして変わってませんの。あまり成長してないんですの」



 深刻そうな顔をして、エンジェレットが言う。



「だからイリスや他の子達が羨ましかったですわ。どんどん強くなっていくんですもの。

知ってまして? イリス、元々は落ちこぼれでしたのよ? それが努力して、あそこまで強くなったんですわ。

そして今でも凄い早さで強くなってますわ。もちろん、私の方が強いことに変わりはありませんけれど」

「……お前はお前だし、イリスはイリスだ」



 そう言いながら、サーザイトはエンジェレットの言葉に、微かに驚いていた。

 完全無欠と思われた彼女にそんな悩みがあったということもそうだが、彼女がイリスをそこまで認めていたということに。

 そういえば、サーザイトが彼女達を受け持ち始めた頃、既にエンジェレットはイリスのことを名前で呼んでいた。

 エンジェレットは、自分が能力を認めた相手でないと自分の名を呼ばせないし、相手の名を呼ぼうともしない。

 つまり、イリスはエンジェレットを尊敬していたが、エンジェレットはイリスをそれ以上に意識していたのだ。

 ただ、それをエンジェレットは自分で認めたくは無かったのかもしれない。



「気休めはいりませんわ。足踏みを楽しめるほど、私は落ち着きのある性格じゃありませんの」



 まるでサーザイトを揶揄するかのような発言だ。

 言い終わってから、くすっとエンジェレットは楽しさ半分、嬉しさ半分といった感じの明るい笑顔を浮かべた。

 彼女にしては珍しい、無邪気な笑顔だった。



「でも、今日は実のある戦いが出来て良かったですわ。本当、久し振りに」

「そうか。それは俺としても光栄だな」



 こうして話していると、彼女が優秀な戦士であることや、トーワ王国の姫君であることなど忘れてしまいそうである。



「それにしても、『俊剣』だなんて名をつけられるくらいですから、昔は凄かったんですのね」

「いや、俺より凄い奴なんて、沢山いたぞ」

「そうですの。例えば?」

「……例えば、か」



 サーザイトの表情に、ふと影が差した。

 その視線が、腰元の剣に落ちる。



「例えば……この剣の、本来の持ち主とかな。元々、これは俺の相棒の剣だったんだ」

「そうでしたの。聖騎士ともなると、剣技も魔法も使える神に祝福された戦士ですから、さぞ強かったんでしょう」

「ああ、俺なんかよりずっと強かった。それに気高くて、一本芯の通った奴だったよ」



 エンジェレットに目を向けて、



「お前みたいにな」

「……フン、当然ですわ。それで、今その人はどうしてるんですの?」



 エンジェレットの口から、そんな言葉が飛び出す。

 だが、サーザイトは淡々とした調子で、



「死んだよ。十年前にな」

「え? ……あ」



 不用意だった、とエンジェレットは自分の迂闊さが嫌になる。

 サーザイトの顔色を少し見ていたら、わかったことではないか。

 二人の間に、気まずい沈黙が流れる。



「……悪かったですわ」

「謝るな。俺が惨めになるだろ」

「……真似しないでくださいませんこと?」



 サーザイトが口元だけで笑う。

 エンジェレットの口調が普段と同じに戻ったからだ。

 それから、少し機嫌を損ねてしまったらしいが、エンジェレットはやはりサーザイトの後をついてきた。

 特に話題も無く、二人はある程度の距離を保ったまま、無言で歩いていく。

 三十分も歩いただろうか、二人はサーザイトの住むアパートの前までやってきた。



「ここがあなたの住居ですの?」

「ああ。上がっていくか? 茶くらい出してやるぞ」



 その言葉に、エンジェレットは目つきを鋭くさせて、



「何故私があなたの家に上がらないといけませんの? 思い上がらないでくださいませ」

「……それもそうだ」



 サーザイトは思わず笑ってしまった。

 引き分け程度では、このお姫様は心を許してはくれないらしい。

 いや、むしろそれでいい。

 このエンジェレットの自尊心の高さを、サーザイトは嫌うどころか、むしろ好ましいとすら思っていた。



「それじゃ、もう帰っとけ。卒業証明はもらっとけよ」

「わかってますわ」

「……あー、それとな」



 一応と思い、サーザイトは言った。



「多分、今回の試験は全員が合格すると思う……全員が卒業証明をもらったら、一度皆で出かけようと思ってるんだが、お前も来ないか?」



 はっきり言って、望み薄だと思っていた。

 今までも、エンジェレットはどこか人を遠ざけている節があったからだ。

 自分より能力的に劣っている人間を近づけたくなかったのかもしれない。

 サーザイトも、エンジェレットが誰かと話し込んでいるところなど見たことが無い。

 だから、期待はしていなかったが、エンジェレットはしばらく考えてから、



「別にいいですわよ」

「え?」

「だから、別に行ってもいいと言っているんですわ」



 意外だった。

 だが、少なからずサーザイトが嬉しく思ったのも事実だ。

 やはり敗北とはいかないまでも、初めて『勝てなかった』というのが、彼女にとってはいい経験になったのかもしれない。



「そうか。それじゃ、イリス達の試験が終わり次第、俺の方から連絡するから、それまではゆっくり羽を伸ばしててくれ。じゃあな」

「あ……ちょっと、待ちなさい」



 アパートに戻ろうとしたサーザイトをエンジェレットが呼び止める。



「どうした? エヴァーグリーン」

「……ええと」



 何か言い辛そうに、口を開いたり、閉じたりしている。

 何事かと思っていると、エンジェレットが意を決したように、



「え、エンジェレットと呼んで構いませんわ」

「……は?」

「それだけですわよ! それじゃ、連絡はちゃんとしてくださいませ。わかりましたわね! ……サーザイト!」



 言い終わると同時に、逃げるようにその場から離れていくエンジェレット。

 目の前から消えたとすら思えるほどの速さだ。

 もしかしたら、サーザイトと戦っていたときよりも速かったかもしれない。

 あっという間に豆粒ほどの大きさになった背中を見送り、頭を掻きながら、サーザイトはふっと笑みをこぼした。



「少しは認めてもらえたということかな……エンジェレット」



 微笑みながら、サーザイトの思考はすぐ別のことに移る。

 考えるのは、エンジェレットが自分との戦いの最後の最後に繰り出した技のことだ。

 一瞬にして光が包み込んで、気付いたら意識がなくなっていた。

 エンジェレットは既に死角が見当たらない万能型の戦士だが、未だに発展途上なのかもしれない。

 燻っていた彼女の眠っていた才能の一端が、自分に匹敵する能力の相手――サーザイトと戦ったことで、目覚めた。

 そう考えるのが妥当だ。

 あの短い間に成長したと考えると、エンジェレットの成長力は相当なものである。



(イリスに、エンジェレットに……まったく、俺の受け持った奴等は先が楽しみな奴ばかりだな)



 そんなことを思いながら、サーザイトはアパートの階段を上っていき、



 ズダダダダダダダッ



 ――最後の一段を盛大に踏み外し、ごろごろと転がりながら地面に叩きつけられた。

 エンジェレットと別れたことで、今更ながら緊張の糸がプッツリ途切れたのだった。



「……どうも最後がしまらない男だな、俺は」



 まったくだ。