第十話「約束」
「なるほどのう。やはり単純に能力という点で見れば、既に問題は無いようじゃな」
ローレンシアは、艶やかな髪を手ですきながら言った。
机越しに座っているサーザイトが頷いた。
「特に、エンジェレット・エヴァーグリーンのセンスには目を見張るものがあります。恐らく私も敵わないでしょう」
「謙遜するのう。まあ良い」
おかしそうにローレンシアは薄く笑う。
ヴェノム洞穴から帰ってきた次の日、サーザイトはその結果を報告するためローレンシアを訪ねていた。
幸いローレンシアは時間が空いていたらしく、すぐに応接間に通された。
「彼女達四人は、既にどこに出しても恥ずかしくない実力の持ち主です。今すぐ卒業させてもいいくらいかと」
「なるほどのう。おぬしがそう判断するのならよいじゃろうて。能力の高さはわしも認めておるでの」
「近いうちに卒業試験の内容を提出します。それでは、これで失礼します」
立ち上がろうとしたサーザイトを、ローレンシアが手で制する。
「のう、サーザイト。彼女らを卒業させてからも、クエスターズで働く気はないかの」
「……いえ、自分はこの仕事に合っていないと感じるところがありますので」
「そうかの」
「はい。勿体無い話ですが」
サーザイトは今度こそ立ち上がり、応接間の扉を開く。
出て行こうとした彼に、ローレンシアは最後にもう一度声をかけた。
「ここを辞めて、それからはどうするつもりじゃ?」
「それは……まだ、わかりません」
扉が閉じる。
しばらくその方を向いて黙っていたローレンシアは、大きなソファに身体を投げ出した。
アルトリア公国の重鎮達が見たら、揃って腰を抜かしそうなあられもない格好のまま、彼女は大きく溜息をつく。
しばらくしてから、呆れ混じりに言葉がもれた。
「あの馬鹿は、人の身で十年も過ごしたというに、まだお前のことを引きずっておるのか……のう、リーズ」
気が付くと、サーザイトはクエスターズの中庭にやってきていた。
ここは景色もいいし、何より空がよく見える。
だからだろう、と彼は思った。
近くのベンチに腰掛けて、何の気無しに空をぼんやりと眺める。
雲が少しずつ流れていくのと、耳に聞こえる風の音だけが、時がたゆみなく流れているのを感じさせる。
しばらくそうしていると、サーザイトを心地好い眠気が襲った。
ヴェノム洞穴へ実戦に行ったばかりなので、今日は講義も休みである。
このままここで寝てしまおうか、とサーザイトは静かに目を閉じた。
しかし、風の音が微かに変わったのを感じて、再び目を開く。
見ると、中庭の入り口にククルーが立って、こちらをじっと見ていた。
風属性魔法の得意な彼女の魔力が、風の流れを変えたのだ。
それも不快なものではなく、より静かに、より穏やかに。
サーザイトは、さして期待もせずに手招きをしてみた。
だが予想に反して、ククルーはとことこと歩いてきて、
「……」
すぐ近くまで来て、歩みを止める。
「座ったらどうだ?」
「……」
サーザイトが言うと、ククルーは少し安心したのか、それでも少しだけ遠慮がちに彼の隣に腰掛けた。
出会った頃から比べると、大きな進歩である。
隣に座ったククルーは、何も言わずに空を眺めていた。
サーザイトがそうしていたからだろう、彼も同じように空を見上げた。
今、何か言葉をもらすのは、余計なことのように思われた。
「……」
少し視線を横にし、サーザイトはククルーの横顔を覗く。
青く透き通る髪が、白い額の上を流れている。
その合間から、微かに金色の目が見え隠れしている。
当たり前のように、それを可愛いと感じていた。
サーザイトが二十も若ければ、肩でも抱いてやったかもしれない。
甘い言葉をささやき、隙あらばその幼い唇を奪うことも考えたかもしれない。
だが、穏やかな時間を壊してしまうことを、彼は嫌った。
第一、そんなことをして、せっかく心を開きかけてくれているククルーに嫌われたりしたら元も子もない。
良くも悪くも、全てが十年前とは違うのだ。
「……先生」
ククルーが口を開いたのは、一時間も経ってからだった。
「元気無い。……どうして?」
居心地の良さに微睡んでいたサーザイトは、その声に僅かに意識をはっきりとさせる。
「元気無い……ように見えるか?」
「……」
こくん、と頷く。
傍から見ていて、それとわかるほどわかりやすいのか自分は、とサーザイトは思わず苦笑した。
「ちょっとな、エンジェレットに言われたからじゃないが、この仕事あんまり向いてないんじゃないかって思ってな」
そんな愚痴めいたことを、気付けば言ってしまっていた。
一応、生徒には言わないようにと思っていたのだ。
じっとククルーが見つめてくるからだろうか、口を開くと、余計なことまで言ってしまうのは。
ククルーは気まずそうにサーザイトから目をそらす。
再び空を見上げ、
「私の生まれた村は、昔盗賊に襲われて、滅んだ」
サーザイトは目を丸くした。
ククルーは、一つ一つ思い出していくように語っていく。
六年前、まだ彼女が六歳だった頃のことだ。
彼女の生まれた村は、ブレイヴァニスタの北に位置する小さな村だった。
決して裕福な暮らしではなかったが、優しい両親に恵まれ、平穏な日々を送っていた。
その平穏を一夜にして壊したのは、赤い十字架を掲げたある盗賊団だった。
盗賊は有無を言わさず村を蹂躙した。
男たちは殺され、女子供は次々と拉致された。
ククルーは父親に連れられ、物置の床下に隠された倉庫に隠された。
『私の愛しいククルー。決して声を出してはいけないよ。赤い人たちに見つかってしまうからね。
大丈夫。ここで大人しくて待っているんだ。お父さんは必ずに戻ってくる。約束だ』
それが、ククルーが最後に聞いた父親の言葉だった。
ククルーは、暗く狭い倉庫の中、身体を丸め震わせながら、一昼夜を過ごした。
助け出されたのは、盗賊団が既に去り、アストリア公国の調査団が派遣されてからのことだった。
調査団の一人が、物置の床下倉庫に気付いたのだ。
中から出てきたのは、まだ幼いククルーだった。
外に出て、ククルーの目に最初に飛び込んできたのは、無残に変わり果てた故郷だった。
それを見て、幼いながらも、今まで自分を育んできた全てが失われたことを、ククルーは感じた。
そして、最後に父親が言った言葉が未だに思い出され、気が付くと言葉をほぼ失っていた。
「……そうか」
ククルーの語る言葉を、サーザイトは胸の内で何度も噛み締めていた。
まだ幼い少女に降りかかった、陰惨で過酷な過去。
彼は金色の目を見つめながら、苦々しく言った。
「悪い。こんなときなんて言ったらいいか……わからない」
その言葉に、ククルーはふるふると首を振る。
「……何も」
「言わなくていい?」
「……」
ゆっくりと頷いた。
「言葉は力になる。でも、こういう時には、無くてもいい」
サーザイトの左手に、ククルーの右手がそっと重ねられる。
「この温もりと……それを感じる心があれば、それでいい」
「そうか。そうだな」
苦笑する。
先生は自分のはずなのに、生徒から教えられてばかりだ。
左手から感じる温かさは、なぜかサーザイトには懐かしく感じられた。
「……先生。約束……して」
はっきりと、ククルーは言う。
「もう……嘘はつかないで」
「ああ」
「優しい嘘もダメ。嘘は、ダメ。……ダメです」
彼女の過去を聞いた今だからこそ、サーザイトにはあの時、ククルーが自分を「嘘つき」と言った理由がわかる。
彼女の父親は、必ず戻ると言ったのに、戻ってはくれなかった。
幼いククルーを何とか納得させて隠れさせるために、あえて嘘をついたのだ。
ククルーだけでも助けようと、彼は彼なりに必死だったに違いない。
だがそれは、残されたククルーには、なかなか消えてくれない心の傷痕となっていた。
その父親の言葉とサーザイトの言葉が、ククルーには重なって思えたのだろう。
「サーザイト・ルーヴェインは、今ここに、ククルー・シルファニーに誓おう。今後一切虚偽を語らない、と」
そんなククルーの真剣さを感じ、サーザイトも、彼女を子ども扱いしたりせず、誠意を持ってそう返した。
ククルーの口元に笑みがこぼれる。
少女らしい可憐な笑顔だった。
寡黙で大人しい彼女のそんな表情を見るのは初めてかもしれない。
「そうしてた方が可愛いぞ」
サーザイトはそう口走っていた。
無言になったククルーは、重ねていた手を離して立ち上がる。
ぺこりと恭しくお辞儀をしてから、彼女にしてはどこか慌てたような様子で、中庭を出て行ってしまった。
表情には出ていなかったが、もしかすると、可愛いと言われたのが恥ずかしかったのかもしれない。
そう思うと、ククルーも年齢相応に初々しいところがある、とサーザイトは和やかな気分になった。
「……気を取り直して、頑張るとするか」
左手に微かに残る温もりを、ポケットの中に突っ込む。
何をうじうじと悩んでいたのだろうと思うほど、サーザイトの心には晴れ間が差していた。
自分には、やれるだけのことをやる以外の選択肢は、無いはずではないか。
ククルーと話して、少しだけ気が晴れた彼は、微かだが前向きな姿勢を取り戻していた。
「さて、とりあえず」
何をするべきか。
彼は考えた。
ほどなくして、彼の消化器官が、ぐぐうと悲鳴を上げた。
まずは腹ごしらえが優先されるらしいことを悟り、サーザイトは苦笑しながら、中庭を後にした。