第九話「漆黒のヴェノム 3」
土煙の中、エンジェレットは優雅な足取りで二人の前に出てきた。
まるで、今まで散歩でもしたきたとでもいうような感じである。
彼女はサーザイトに冷たい視線を向け、吐き捨てるように言った。
「まったく、無様な姿ですわね」
「……返す言葉が無いな」
そう言ってサーザイトは苦笑した。
苦笑出来るほどの余裕が出来たのも道理。
彼女なら、この場を切り抜けることなど造作も無い。
残念だが、衰えている上に毒まで受けたサーザイトに出来ることなどほとんどない。
しかもこんな醜態まで晒して、エンジェレットに罵倒されるのも仕方の無いことだ。
だが、意外なことにククルーが二人の間に割って入り、
「……」
エンジェレットを強い目で見た。
物言わぬまでも、明らかに非難しているのがわかる。
そんな彼女を見るのはエンジェレットも初めてだったらしく、怪訝そうな目になる。
「なんですの?」
「……先生をけなさないで。たとえあなたでも許さない」
エンジェレットがククルーの声を聞くのは、これが最初だった。
普段は口を開かず、たまに喋ってもぼそぼそとしか話さずに、イリスを介してしか意思疎通をしてこなかった彼女が、
エンジェレットに対し、面と向かって、言ったのである。
驚いたのはほんの一瞬で、エンジェレットは目を細めて、
「普段話さない子が何を言うのかと思ったら……この私にそんな口をきくなんて、いい度胸じゃありませんこと?」
「相手が誰であっても同じ。先生を悪く言わないで」
「講師がそんなことでは仕方がありませんわ。ルーヴェイン、あなたこの仕事に向いてないんじゃありません?」
「……ああ」
そうかもな、と続けようとしたサーザイトの言葉を、ぱんと乾いた音が遮る。
エンジェレットの左頬が、ほんの少し赤く腫れあがる。
驚いて、エンジェレットは自分の頬を打った人物を見た。
普段とは違い、ククルーは金に光る目を鋭くさせ、怒りを露にしている。
「先生は、私を守ったせいで傷ついた。一人だったら、こんなことにはならなかった。
あなたは一人だから、そんなことが言える。あなたが強いのは認める。クラスで一番強いのはあなた、それも認める」
けれど、とククルーは言葉を区切り、
「自分以外の誰かも守ろうとする先生は、あなたより強い」
「……もう一度言ってごらんなさい」
ククルーの視線をエンジェレットも真正面から睨み返す。
扇を持った左手に力がこもり、その切っ先が僅かにククルーの方を向いた。
それでも、ククルーは目をそらそうとせず、臆した様子もない。
まさに一触即発という雰囲気だったが、
「二人とも……まだ敵がいるぞ」
エンジェレットに吹き飛ばされた二匹が、再び三人に迫っていた。
両手を前に突き出し、ククルーは精神を集中させる。
呪文をぼそぼそと唱え始め、粒子が彼女を包み始めた。
だが、その前にエンジェレットが進み出る。
詠唱を止め、無言で見つめるククルーを見もせずにエンジェレットは言った。
「私一人で十分ですわ。お二人に実力の差というものを見せてさしあげます」
鉄扇を前に突き出し、縦に構える。
と、ひやりとした空気が場を支配していった。
初めての講義で、サーザイトと手合わせしたとき、イリスが止める直前にした構えだ。
すう、はあ、とエンジェレットが呼吸を整える。
扇に青白い光が灯った。
「舞いなさい」
手首を回し、目の前の空間を僅かに薙いだ。
瞬間、切っ先から放たれた光の閃が、マッドヴェノムの身体を幾重にも貫いていく。
二匹は、最後の叫びをあげる間も無い。
肉片となり、地面にどす黒い水たまりを作った。
ほんの瞬きをするほどの間しかない。
「いかがかしら?」
微かに誇らしげな笑いを浮かべながら、エンジェレットは二人に向き直った。
あれほどの技を繰り出しながら、呼吸に一変の乱れも感じさせない。
「……流石だな、エンジェレット……」
「気安く名前を呼ぶなと……ルーヴェイン?」
カラン、と抜き身の剣が音を立ててその場に転がる。
毒の回った身体に力が入らず、ついにサーザイトは倒れた。
「ど、どうしましたの?」
「……先生は、私を庇った時に、彼らの毒を受けた。きっと、その毒のせい……」
「どうしてそれを先に言いませんの! 妙に右腕を庇っていると思ったら、そういうことでしたのね。……」
二人の声も次第に聞こえなくなってくる。
やがてサーザイトの意識は混濁し、漆黒に呑まれていった。
全身に微かな振動と、暖かな何かに包まれている感覚がして、サーザイトはゆっくりと意識を覚醒させた。
目を開くと、誰かが自分を覗き込んでいる。
どうやら自分は横たわっているらしい。
冷たい床の感触を感じる。
ぼんやりとした視界がはっきりすると、心配そうな顔をしたククルーと、不機嫌そうなエンジェレットが見えた。
二人の手からサーザイトへ淡い光が注がれている。
右腕を見ると、どす黒かった肌が、ほとんど元の色へ戻っていて、傷口も塞がりかけていた。
「目、覚ました」
「先生が起きたよ! 良かったー」
イリスの声も聞こえてくる。
身体を起こそうとしたが、腕にそこまでの力は入らなかった。
「ここは……」
「馬車ですわよ。あれからイリス達と合流して、あなたをここまで運んできましたの」
エンジェレットは立ち上がり、ククルーに目を向ける。
「あとはあなただけで大丈夫でしょう? もう私は休みますわ」
返事を待たず、エンジェレットは馬車の隅に行ってしまう。
ククルーもそれを了解したのか、何も言わない。
「結局倒れたのか……一応お前達の講師なのに、逆に迷惑かけてしまって、すまない」
「……一応、じゃない。先生は……私達の先生」
「そうか。ありがとな、ククルー」
「……私も」
「ん?」
「庇ってくれて……ありがとう……」
「……まあ、なんだ、気にするな。剣士が魔法使いを庇うのは当然だ」
なぜか奇妙な居心地の悪さを感じたサーザイトは、一般論をかざして茶を濁す。
いや、待て、相手は自分の三分の一しか生きていない子供だ。
何を狼狽することがあるのだろう、自分は何も悪いことはしていない。
が、面と向かって、改めてそんなことを言われると、気恥ずかしさが勝ってしまうのだった。
「……ん? ククルー、お前、右の頬腫れてないか?」
「……これは」
ククルーは、隅で休息を取っているエンジェレットにほんの一瞬目を向けて、
「……おあいこだから」
「そうか」
サーザイトも、それ以上は何も言わないことにした。
自分が目覚めるまでに一悶着あったことは容易に予想がつく。
だが、その問題が表面化しない限りは、あまり自分が口出ししない方がいいだろう。
それにしても、今日は本当に失敗だった。
(身体はそれなりに動くようになったと思っていたが、感覚の方はまだまだだな……)
実戦だとわかっていたはずなのに、心のどこかに油断があった。
エンジェレットに言われたからではないが、講師にはあまり向いていないのかもしれない。
少なくとも、彼女達ほど優秀な生徒を受け持つような器ではないと、サーザイトは感じていた。
(何が『俊剣』だ……)
唇を噛み締める。
ぶつ、と下唇が破れ、血が染み出した。
鉄の味を舌に感じる。
(一人じゃ自分の生徒一人守り切れないなんて、反吐が出る。エンジェレットの言う通り、俺は無様だ。愚かですらある)
帰りの馬車の中、クエスターズに着くまで、サーザイトはひたすら無言で、そんなことを思っていた。
そんな風に、思案にふけっていたせいもあるだろう。
彼は、イリスの傍らに座っていたククルーが時たま視線を向けていることに、ついに気付くことはなかった。