第八話「漆黒のヴェノム 2」



 目を覚まして最初に感じたのは、腹部に感じる圧迫感だった。

 目を開いてみたが、見えたのは一面に広がる闇。

 だが、何かが身体の上に乗っていることだけはわかる。

 コートの裏に手を伸ばし、常備している道具の中から手探りで着火燃料を取り出し、灯りをつけた。

 照らしながら視線を下にすると、すぐ近くに青い髪が見える。

 身体の上に乗っていたのは、ククルーの華奢な身体だった。

 どうやら一緒になって落ちてきてしまったらしい。



「う……」



 僅かに身体を動かすだけで、割れるような鋭い痛みがはしった。

 落ちたときに、強く身体を打ったのだろう。

 仕方が無いので、腕だけでククルーの身体を揺する。



「ククルー、ククルー。しっかりしろ」

「……、……っ……」



 薄く目が開く。

 しばらくぼんやりとしていた目に光が戻ってきた。

 と、すぐ目の前にサーザイトがいることに気付いたのか、ほんの僅かだけ目を見開く。

 わかりづらいが、驚いているらしい。

 目を覚ましたら、眼前十センチほどの距離に中年男の顔があれば、ククルーでなくとも驚くだろう。



「怪我はないか?」

「……」



 こくんと頷く。

 ククルーが立ち上がってからサーザイトも立ち上がろうとするが、身体の至る所が痛む。

 苦痛に顔を歪めながらも、岩が剥き出しの壁に手をつきながら何とか立ち上がった。

 サーザイトを見るククルーの視線も、どこか不安そうに見える。



「ん……はは、この程度、大丈夫だ。大したことはない。つっ……」



 安心させるために何とか笑顔を作ってみるが、それが逆に痛々しく見えたのか、ククルーは顔を一層曇らせた。

 すると、ククルーはすっと目を閉じ、口元でぼそぼそと何か呟きはじめた。

 それと同時に、周囲に光り輝く粒子が漂い始める。

 彼女の魔力が、呪文によって具現しようとしている。

 そのため、一時的に視覚で捕えられるようになっているのだ。

 まばゆい光がサーザイトの身体に降り注ぎ、染み込むように消えていく。

 サーザイトは身体の痛みがかなり和らいだのを感じ、ククルーに目を向けた。



「回復魔法か……ありがとな」

「……」



 ふるふると首を振る。

 礼には及ばない、とでも言いたいのだろうか。

 サーザイトは、まだ微かにふらつく足をぱんぱんと叩く。

 身体の痛みは消えたが、魔法では失われた体力まで回復するわけではない。

 魔法で治るのは、あくまで傷のみだ。

 とんだ失態だったが、そのおかげでククルーに怪我は無いようなので、よしということにする。

 状態の確認を終えると、サーザイトはぐるりと周囲を見回した。

 自分達が落ちてきたであろう上を見上げてみるが、そこには吸い込まれるような漆黒が広がるばかりだ。

 岩の壁はとっかかりは多いが、湿っていて滑りやすい。

 体力には自信の無いククルーにここを昇れというのは酷だろう。



「先に進むしかないな……俺が前衛をやる。ククルーは援護を頼む」

「……」



 ククルーが頷いたのを確認してから、サーザイトは先の暗がりへ足を踏み出した。

 着火燃料の灯りは、視界の先を心もとなく照らし出している。

 どこまで奥に落ちたのかはわからないが、とにかく注意して進んでいく。

 能力は高いとは言っても、ククルーはまだ実戦経験には乏しい。

 出来るだけサーザイトが道を切り開いていくべきだろう。

 それに剣士と魔法使いの組み合わせなら、剣士が魔法使いを守るのは半ば当然のことである。



「そういえば、こうして二人きりになるのは、以前ククルーの部屋を訪問したきりだな」

「……」

「あの時は、まだ全然互いのこと知らなかったから話題にも困ったが、今はそうでもないぞ。

例えば、ククルーは甘い物が好きだな。寡黙で人見知りする。でも結構気遣う方だ。あと、イリスとは仲が良い」



 冷たい洞穴の壁に、二つの足音とサーザイトの声だけが響く。

 ククルーは何も言わず、ただそれを静かに聞いていた。

 サーザイトも、返事を強要することなく、思いつく度に口を開き続ける。

 二人の間には、妙な間が存在していた。

 嫌って突き放すでも、互いに受け入れるでもない奇妙な間。

 それが二人の心を僅かに分けていて、つかず離れずの距離を保たせていた。

 その気まずさを誤魔化すために、サーザイトは出来るだけ会話を繋げていたのだ。

 ククルーは一言も発していないのだから、それは会話と呼ぶかどうかすら疑わしいものだったが。



「……」

「……」



 次第にサーザイトの発言も無くなる。

 話題が尽きたということもあるし、元来サーザイトは饒舌な方ではない。

 ククルーは普段自分から話してはくれないので、自然とサーザイトが話すことが多くなっているだけのことである。

 もちろん、ククルーの人見知りを少しでも改善してやろうという意図もないわけではない。

 だがそれ以上に、サーザイトはククルーに対して興味を持ち始めていた。

 人見知りは生まれつきかもしれないし、感情を表にしないのも性情かもしれない。

 それにしても必要以上に口を閉ざすのは、なぜなのだろうか、と。

 それを知りたい、が、答えを強いたくはない。

 だから、積極的に話し掛けて、いつかククルーが自分から話してくれるのを待つしかない。

 が、それもここまでのようだった。

 目の前の暗がりから、ずぞぞ、と何かが這いずるような音が、微かだが聞こえてきた。

 カチ、とサーザイトは剣に手をかける。

 背中でククルーも気を張っているのが、雰囲気でわかった。



「あまり無茶はするなよ、ククルー。俺は、お前には危害を加えさせないようにするから……」



 言葉の途中で、サーザイトは気配が蠢くのを感じた。

 だが、どうにも様子がおかしい。

 いつまで経っても、暗闇の中にいるはずの何かは、その場から動こうとするような気配がしない。

 その違和感に気付いたのと、背後に気配を感じたのは同時だった。

 慌てて振り返ると、ククルーの後ろに、光を反射してきらりと光るものが忍び寄っていた。



「ククルー!」



 考える間もない。

 叫ぶと同時に、サーザイトは咄嗟にククルーを横に突き飛ばした。

 ざくり、と突き飛ばした方の腕に鋭い痛みがはしる。



「く、このっ……」



 反射的に、剣を縦一閃に振り下ろすと、照らし出された魔物が断末魔を上げてその場に倒れ込んだ。

 それは、見るもおぞましい魔物だった。

 表面がぬるりとした鱗で覆われた長い体、その長さはゆうに五メートルはある。

 巨大な口に、二つの大きな牙を持ち、何より怖気がするのは、その顔はまるで人のそれだった。

 前方に感じていたのは、この魔物の尾の部分だったのだ。



「……」



 突き飛ばされ、尻餅をついていたククルーが心配そうな顔でサーザイトを覗き込んだ。

 右腕の手首の下から肘にかけて、引っかいたように血が滲んできている。

 ククルーを突き飛ばしたときに、魔物の牙でやられたのだ。

 その箇所が、見る見るうちにどす黒く変色していくのを見て、ククルーは再び口元でぼそぼそと呪文を唱え始める。

 だが、先ほどとは違い、なかなか傷は回復しない。

 それどころか、ますますその色を濃くしていた。



「まずった、な……こいつは、マッドヴェノムって魔物なんだが、牙に神経性の毒があってな……」



 痛みを堪えているのか、サーザイトの眉間にしわが寄る。



「しばらく……体の動きが鈍くなったりしてな……そう簡単には治らない」



 思わず倒れ込みそうになるのを、剣を支えにして堪える。

 こんなところで倒れていたら、再び襲われたら、今度こそひとたまりもない。

 動きが緩慢になった身体を引きずる。

 苦しそうに息を吐くサーザイトのコートの裾を、ククルーはぎゅっと握りしめた。



「……心配するな、ククルー。俺は……何の心配もしてないぞ……」

「……」

「一人だったら、まずかったけどな……お前がいる」

「……」

「上にはイリス達がいるハズだ……それに……奥に落ちてきたなら……エンジェレットが来てるかもしれない。望みは……ある」



 だから進もう、とサーザイトは更に歩みを進めていく。

 その後ろにぴったり寄り添うようにククルーが続く。

 さっきのマッドヴェノムを見て、緊張感をより一層強めたらしかった。



「……」



 ククルーが何か言いたそうに口ごもる。

 少し拓けた空間に出ると、サーザイトは思わず溜息をついた。

 そこには先のマッドヴェノムが四匹、道を塞ぐように眠っていた。

 幸い、彼らは目が全く利かない。

 彼らは対象の熱によってその居場所を察知している。

 そのため着火燃料の灯りで目を覚ますことはなかったが、これ以上近づくと着火燃料の熱に気付かれる。

 だが、先に進むにはマッドヴェノムの群れを突っ切るしか方法は無い。



(この状態で、あの数を相手に出来るか……? いや、出来るかどうかじゃない。するんだ)



 剣を持つ手から力が抜けそうになる。

 ガクガクと震える右手を左手で押さえる。

 恐怖で震えているわけではない、毒のため、力が入らなくなってきているのだ。

 だが、身を潜めているうちに新手が現れる可能性も考えられる。

 出来ることならイリス達かエンジェレットと合流するのを待ちたいところだったが、そうも言っていられない。



(ククルー、今から一気にここを突破する。俺が奴等を引きつけているうちに、お前は向こう側まで一気に突っ切れ)

(……)



 ククルーは、しばらく間を置いて、こくんと頷いた。

 物陰から飛び出し、サーザイトは手前にいたマッドヴェノムの胴体を叩き切った。

 恐ろしい叫び声をあげてのたうち回る。

 その声で、他の三匹も眠りから覚醒し、サーザイトを確認した。



「今だククルー、走れ!」



 襲い掛かるマッドヴェノムの牙を剣で防ぎながら叫ぶ。

 ククルーはマッドヴェノムの脇を通り抜け、不安そうな顔でサーザイトを振り返った。

 毒の回った身体では、長い戦闘は無理だ。

 しかも、一体は先制攻撃で仕留めたが、それでも敵は三体いる。

 圧倒的に不利だ。



「くそ……」



 ククルーを逃すために敵を引き受けたはいいが、そこからの打開策が無い。

 毒のせいか、思うように身体も動かせなくなってきていた。

 激しく動いたせいか、毒の回りが早まったのだろうか。

 と、突如つむじ風が舞い上がり、マッドヴェノム達を吹き飛ばす。

 ククルーの風魔法である。



「よし……今の内に逃げるぞ」



 剣を杖の代わりにしてククルーと合流したサーザイトは、懸命に足を動かす。

 背後からは、睡眠を邪魔されて怒り狂うマッドヴェノム達が追ってきていた。

 今の状態では、とても敵う相手ではない。

 ククルーの魔法で倒せなくもないが、マッドヴェノムを屠るレベルの魔法を使用するには、

 ある程度呪文の詠唱に時間がかかってしまう。

 その詠唱時間を稼ぐために敵の攻撃を請け負うはずのサーザイトは、毒にやられてしまっている。

 情けないが、今は逃げるしかない。

 しかし、やはり毒が回っているサーザイトの動きは先ほど以上に鈍くなっていた。

 額からは、大量の汗が流れ出ていた。

 マッドヴェノム達との距離は少しずつ狭まってきている。



「……ククルー。ここは俺が食い止める。いいからお前は先に行け……」

「……」



 ふるふる、とククルーは首を振る。



「別に、俺を見捨てて逃げろってわけじゃない。助けを呼んできて欲しいんだよ、ククルー。

それまでは、何とか持たせるつもりだ。なに、俺もそう簡単にくたばりゃしないからそう心配そうな顔をするな」

「……」



 だが、その言葉にもククルーは首を横に振った。

 サーザイトは、困ったような顔をして、頭を掻く。

 ククルーがサーザイトの言ったことに反発したのは、これが初めてである。



「俺は大丈夫だと言っているだろ? だから助けを呼びに行ってきてくれ」

「……」

「おい、ククルー。……ククルー、いい加減にしろ」



 サーザイトがククルーに向ける中では――いや、クエスターズに来てから初めて、サーザイトの声が怒気を孕んだ。

 普段ならば、どれだけ言うことを聞かなくても、彼は怒ったりはしない。

 困って頭を掻いたり、呆れて溜息をつく程度で済んでいるだろう。

 その彼が、本気で怒っているのだ。

 それほど事態はシリアスだということを意味している。



「ここにお前が残るより、お前が助けを呼びにいった方が助かる公算は高いだろう。

何をそんなに強情になってるんだ。そろそろ奴等が追いついてくる。だから俺に構わず、早く行け」

「……」

「行くんだ!」



 サーザイトの声に、ククルーは身体をびくんと震わせる。

 しかし、その場から動こうとはしなかった。

 代わりに、その口がおずおずと開いて、



「……き」



 一瞬の間。



「嘘つき……嘘つき……嘘つき、嘘つき……!」

「な……?」



 堰を切ったように、ククルーが叫んだ。

 サーザイトの言葉に臆するでもなく、叫び続けた。

 何度話し掛けても、ただうなずいたりするばかりで、イリスに対してすら、ぼそぼそとしか話さなかった彼女が。

 嘘つき、と。



「私を逃そうとして、先生、嘘ついてる」

「そ、そんなことは……」



 そんなことは、あった。

 確かに、サーザイトは、最悪を考えて、それらしい理由をつけてククルーを逃そうとしている。

 最悪の状況とは、このまま二人ともやられてしまうこと。

 それだけは絶対に避けなくてはいけない。

 だが、ククルーに逃げる気は全く無いらしかった。



「私も戦う。先生を守る」



 迫ってくるマッドヴェノムの前にククルーは立った。

 その表情に怯えは見えない。

 この場から逃げるという選択は、あったのだ。

 ただし、彼女の中では、それに「一人で」という条件がすっぽりと抜けていた。



(俺がもっとしっかりしてたら、こんなことには……)



 サーザイトは、己の不甲斐無さを憎んだ。

 十年前までの自分なら、もっと早く敵の気配を読めていただろうし、毒を食らうようなこともなかった。

 歯を食い縛って、前に立つククルーの肩を掴んで自分の後ろにやる。



「俺が前衛をやると、言ったはずだ……」



 そんな体力は、もうほとんど残っていない。

 息は荒く、腕にも足にも、上手く力が入らない状態だ。

 それでも、魔法使いであり、何より教え子であるククルーに前衛をさせるなどありえない。

 いよいよすぐ目の前まで迫ってきたマッドヴェノムを迎え、サーザイトは剣をもう一度握り直した。

 が、あともう少しというところで、マッドヴェノム達が真横から来た何かによって、岩の壁に叩きつけられる。

 その内の一体は、血反吐を撒き散らし、潰れて絶命していた。

 それによって舞い上がった土煙の中、その場に近づいてくる足音が、一つ。

 ゆらりと揺らめいた黒い影は、



「こんなところで何をやっていますの」



 エンジェレット・エヴァーグリーンだった。