第六話「空白」
朝日が遠くの山の際を照らし始める時間、サーザイトはブレイヴァニスタ東の草原まで出てきていた。
手には剣、呼吸を整え、強く握りしめる。
気だるそうに垂れた目に光が宿った。
目の前に広がる空間、それを切り裂くように、剣を縦一文字に振り下ろす。
風を切る音がし、少し遅れてから、二十メートルも離れたところにあった岩が真ん中から砕け散った。
剣を羽根のように軽々と振り回してから、サーザイトは剣を鞘に収める。
(少しは身体も動くようになってきたか)
クエスターズに務め始めてから、二週間。
十年前と同じとはいかないが、以前の力は徐々に戻りつつある。
その辺りの冒険者よりは既に能力は上だろう。
だが、サーザイトが受け持っている生徒達は、いずれも優秀な力の持ち主だ。
となれば、その講師である彼に、より高い能力が求められるのは半ば必然である。
しかし、全盛期の自分ならばともかく、今の自分では……
剣士としての実力は、もしかしたらイリスにも及ばないかもしれない。
エンジェレットには、一矢報いることが出来るかどうかも危うい。
ククルーやユユは魔法使い、自分が教えてやれることなど、本当に些細なことだろう。
ほとんど売り言葉に買い言葉で引き受けた仕事だが、自分には荷が重かったんじゃなかろうか。
何と言っても、十年間の停滞があったわけである。
こんなことを、例えばエンジェレット辺りに知られたら、彼女は怒り狂うだろう。
いや、それならまだいい。
心底呆れられて、会話どころか視線も合わせてもらえなくなるかもしれない。
それどころか人間扱いしてもらえるかどうかも怪しい……サーザイトは頭を掻きながら、はあと溜息をついた。
コミュニティは、微かにだが普段よりもその喧騒を大きくしていた。
ただし、その騒ぎの中心だけは、波を打ったような静けさが漂っている。
周りの冒険者達が、意図的にそこから遠ざかっているのだ。
凡庸な能力の者達にしてみれば、無理からぬことである。
その人の名は、エンジェレット・エヴァーグリーン。
未だクエスターズに在籍する身でありながら、既に多くの武術大会でその名を馳せている少女だ。
彼女は水晶のように輝く髪を揺らしながら、窓口から受け取った資料に目を通していた。
請求した資料は、他でもない、コミュニティに登録されている冒険者としての、サーザイトについての情報である。
クエスターズの紋章を見せたら、すぐに用意してもらえた。
クエスターズの名は、他の国にまでも知れ渡っている。
ここアストリア公国では、特にその名が特別な意味を持つ。
その上層部の人間は、政治的な力すら持っているのだ。
周囲の好奇の視線を意に介することなく、エンジェレットは真剣な表情でページをめくっていく。
一字一句読みもらすことのないように、頭の中に全て叩き込もうとしているようだ。
(サーザイト・ルーヴェイン、三十六歳、軽剣士、現クエスターズ臨時講師……)
しばらく目を通していくと、資料には彼が辿ってきた歴史がある程度の詳しさでもって記載されていた。
山向こうの小さな村の道具屋に生まれたこと、幼い頃より剣の才能に恵まれていたこと、
若くしてその頭角を表し、その剣のあまりの速いところから『俊剣』の名でその勇名を知られていたこと。
だが、彼の過去の軌跡は、十年前から空白の期間があり、それはつい最近クエスターズに務めるようになるまで続いていた。
エンジェレットはほんの僅かだけ首をかしげる。
『俊剣』といえば、エンジェレットがまだ小さな頃にもその名を一度は耳にしたことがある程度には名高い剛の者だったはずである。
サーザイトが『俊剣』だったというのは多少の驚きがあったが、同時に納得も出来た。
その程度実力のある者でなければ、曲りなりにもエンジェレットの全力の一撃を受けることなど出来はしない。
まして切り結ぶなど、夢のまた夢だ。
だが、エンジェレットが刃を交えたサーザイトは、確かに弱くはなかったが、『俊剣』の名には完全に負けていた。
ここで、自分が強すぎるのだと考えるほどエンジェレットは自己を過信していない。
エンジェレットの真に恐るべきは、その能力の高さでも、たゆむことのない克己心でもない。
自身の力量に対する見切り――それは言い換えれば、ある意味自己を極限まで信じることだった。
『俊剣』の勇名は、過大評価されているか、あるいは明らかに衰えている。
仮に衰えたとするならば、その原因として考えられるのは……
(クエスターズに来る前までの、空白の十年……この時、ルーヴェインに何があったのかしら?)
しばらくエンジェレットは思考を巡らしたが、その結論が出る前に頭を振ってそれを振り払った。
衰えた者の衰えた理由なんて、考えたところで一イールの得にもなりはしない。
大方、日々の鍛錬を怠って、自分を甘やかしていた結果なのだろう。
そう思うと、一心不乱に強さを追い求めているエンジェレットは、胸の辺りがむかむかする。
サーザイトは、臨時とはいえ、彼女に指南を施す講師……先生なのだ。
(先生……先生ですって? あの男が? 私の? ……認めない、認めませんわ)
エンジェレットには、自分より弱い者が自分の師であるというだけで、憤慨するに十分である。
以前刃を交えた時は、エンジェレットはサーザイトが『俊剣』であることを知らなかった。
また、それまでの講師たちが腑抜けばかりだったので、自分と切り結ぶことの出来たサーザイトを「少しはやれる方」と認識し、
あろうことか、僅かに妥協してしまった……とエンジェレットは思っていた。
そんな自分を、エンジェレットは許せずにいた。
あまりに、甘い。
そんなことで、今以上に強くなってなどいけるものかと、自己を戒める意味で、両頬をパンと叩く。
余計な情報漏洩を防ぐために半ば義務付けられている資料返還を済ませて、エンジェレットはコミュニティを後にした。